🧣14〉─1─ブラック保育園経営者は子供を利用してあくどく金儲けしている。~No.41No.42No.43 ⑫ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 良い日本人は2割。悪い日本人は3割。良くも悪くなれないごく普通の日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 見つからなければ何をやっても構わない。
 見つかって逮捕されたら、素直に謝って罪を認め刑に服せば良い、昔みたいに顔に入れ墨(烙印)はないし、島流しもないし、死刑もないのだから。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は昔の日本人とは、全く違う日本人である。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は「泣く子と地頭には勝てぬ」であった。
 現代日本の中には、乳幼児や子供を嫌い憎んでいる大人・老人が増えている。
   ・   ・   ・   
 人口激減する現代日本では、親や大人・老人による力が弱く抵抗できない子供・児童・幼児への虐待・暴行・殺人が後を絶たない。
   ・   ・   ・   
 人権派は、虐待や暴行を繰り返す親や大人・老人は「幼児期に親から虐待・暴力を受けた被害者」という免罪符を与えている。
 そこには、分別ある大人、道理をわきまえた大人、責任ある大人、は存在しない。
 あるのは、大人に成りきれない大人、自己責任を回避する歪な「甘えの構造」だけである。
   ・   ・   ・   
 自分で命を絶つ・死ぬといっても、自殺、自死、自決、自裁は違う。
 現代の日本には、武士・サムライはいないし、武士・サムライの子孫もいない。
   ・   ・   ・   
 2020年11月20日号 週刊朝日「コロナ教育クライシス コンサル業者が明かす内情
 情報公開請求で判明!
 保育園〝私物化〟ブラック経営者の手口
 税金をかすめとり『裏帳簿』『クレカ私的流用』『政治献金』・・・
 『保育士は消耗品』と豪語する経営者
 待機児童問題解消のため急ピッチで増える保育園。だがその裏で、税金が原資の運営費をかすめとる〝保育成り金〟がはびこり、コロナ禍の中でも保育士たちからの搾取を繰り返している。『やりたい放題』のその手口とは、東京都への情報公開請求により、数々の不正が明るみに出た──。
 『その園ではコロナ禍の中、多くの保育士が不当に給与をカットされ止めていきました。結果、人手不足になって、社長は私のところに「何とかして」と泣きついてきた。社長は園長たちに経営難だとウソを言いながら、会社の利益はこれまでどうり確保し、ぜいたくな暮らしをしています。保育園の運営費の原資が税金だという意識なんて、これっぽっちもない』
 経営コンサルタントとして100社以上の保育園の新規開設を手掛けてきたX氏は、自身の顧客である東京近郊の保育園についてこう吐き捨てた。
 コロナ禍の中、保育士の『搾取』が止まらない。国は保育園が休園になっても保育士の収入が減らないように、人件費を含む運営費を通常どおり給付する特例措置をとった。あが、本誌が9月18日号で報じたように、一部の保育園がこれを悪用。運営費が満額支給されているにもかかわず、休業した保育士の賃金はカットし、差額で利益を得ようとする園が続出したのだ。X氏の顧客の園も、こうしたうちの一つだ。
 『業界の〝ブラック経営〟体質はコロナ禍で露呈しただけで、以前から蔓延している。保育園をつくりたいと相談に来る9割が金儲けのことしか考えていない』(X氏)
 業界の闇に関わってきたX氏だが、保育士や親による子どもへの虐待のニュースが目立つ中、『保育園は子どもを守る砦のはず。現場を大事にしないブラック経営者は排除されるべきだ』との思いから実情を語った。
 2019年度の内閣府の調査によると保育士の平均年収は362万円。日本人の給与所得者の平均である436万円(19年、国税庁)と比べても厳しい境遇に置かれている。ところがX氏によると、保育園を経営する社長の年収は1,000万円以上が当たり前。なかには年収2,400万円という経営者もいたという。
 X氏によれば、保育園経営に味をしめた経営者が陥るパターンはこうだ。
 『まずスーツやネクタイ、腕時計、バッグなどの身の回りのものが、あからさまに高級志向に変わっていく。都心の高級マンションを社宅扱いにして住み、会社名義でリースした高級外車を乗り回してゴルフ三昧。やがて保育士や園長が愛人になる。高級レストランで食事し、家での食事はデパ地下で総菜を購入。愛人とのデート代や家族との海外旅行も会議や視察ということにして経費で落とすため、経営者家族の生活費はゼロに等しい』
 問題は、こした富が『経営手腕』で生み出されたものではないことだ。本来、大きな儲けが出ないはずの保育事業で経営者が好き放題できることには、カラクリがある。保育園の運営のために市区町村から渡される委託費の一部を私的に流用し、私腹を肥やす例が後を絶たないのだ。委託費は保護者が払う保育料に加え、税金が主な原資になっている。
 別のコンサルタントZ氏も、話す。 
 『ある社会福祉法人大手の経営者夫婦の自由になるお金は、役員報酬を含めて年間3,000万円。個人のクレジットカードで年間数千万円の保育園の備品を購入し、たまったポイントで旅行する。法人名義のクレジットカードで私物を購入するのは常套手段。政治家とのお付き合いのため、会議費などの名目で委託費から政治資金パーティー券も購入していました。委託費を政治献金に回すのは法令違反です。役所にバレたら返せばいいという感覚です』
 経営者にお金を吸い上げられた保育園で真っ先に削られるのは保育士たちの人件費だ。かつて委託費には『人件費は人件費に』という使途制限があったが、00年、認可保育園の経営に株式会社の参入が認められると、大幅な規制緩和が行われた。『委託費の弾力運用』が認められ、年間収入の4分の1もの額が施設整備など他目的に回すことができるようになった。それが保育への再投資に向くならまだしも、実際は経営者による不正流用が後を絶たない状況だ。
 東京近郊でシェアを伸ばす、ある保育園運営グループの社長の口癖は、『保育士は消耗品』『俺は金儲けのことしかかんがえない』。人員体制はギリギリで、有給休暇はとらせない。同社傘下の園を辞めた複数の保育士が『社長は高級外車を乗り回してゴルフばかり。妻は役員で、統括園長は愛人というのは社内で周知の事実』と証言する。同社の保育士の賃金実績は、東京23区の園でも年350万円程度。都内の平均410万円(19年、厚生労働省『賃金構造基本統計調査』)より相当低く、離職率が約6割になる時期もあった。
 X氏やZ氏の証言にあるような委託費の流用を巡る不正は、実際どれだけ行われているのか。筆者は都のホームページで公表する直近3年間(17~19年度)の監査結果の中から『不適切な支出がある』などの文書摘出があった28件について情報公開請求を行い、詳細な資料を入手した。
 保険使い財テクキックバック
 その内容は驚くべきものだった。今時、会社員でも許されない忘年会の下身のための飲食費用などはまだかわいいもので、元本保証のない有価証券の購入、1,000万円もの債券の購入、法人クレジットカードによる年間500万円以上の私的流用、勤務実態のない者の給与計上など、コンサルタントの証言と符合するような〝不正〟の記録が数多く見つかった。
 表中の日ノ出町保育園(東京足立区)は社会福祉法人南流山福祉会(本部・千葉県流山市)が運営する園。行政が不適正な支出などを是正するよう2度勧告したが改善しないため、20年8月、千葉県が県内初の法人名の公表に踏み切った。
 同法人は足立区内にもう1園、流山市に1園を運営。法人全体で16年度だけでも役員報酬使途不明金、個人的な経費に5,000万円もの不適正な支出が見つかった。流山市の保育園では未払い賃金が5,341万円に上り、17年に園長と副園長(当時)により訴訟も起こされている。
 足立区も4年前に調査を行っており、『手土産代』『飲食代』『福利厚生費』『交際費』『来賓車代』など不適正な支出は13~14年度で約443万円に上った。足立区の別の系列園でも給与遅配が起きた。
 これらの経緯について法人本部に取材を申し込んだが、電話を受けた園長は『理事長と連絡がつかない』。理事長の自宅に質問状を送ったが、返事は来なかった。
 名古屋市に本部がある社会福祉法人Fは、愛知県や都内に20ヵ所以上の保育園を運営している。都の資料によると、関東圏内の保育園からFの『東京本部』に資金が流入され、法人名義のクレジットカードを法人内の『個人』と『外部の者』が使った私的流用が指摘された。その額は4園で総額1,600万円。なぜか各園ともぴったりと同じ金額が計上されていた。
 Fには18年度は都内に4ヵ所ある認可保育園の全てに東京都の監査が入っており、うち3園は2年続けての監査。4園の違反項目は3年間の合計43項目。都が監査に入っても文章指摘ゼロの保育園が約半数あるなか、違反が多いのは明らかだ。
 指摘された不正支出についてF本部に取材を申し込むと、『行政との話し合いはついています。個別のことに関係するので』と断られた。
 足立区の株式会社Kが運営する『K保育園』は『政党の支部』に対して5万円を交際費として支出していた。そのほか、個人の生命保険料が3社との契約で月5万円超、会社を被保険者として倒産防止保険を月1万円かけていた。保育士の福利厚生を目的としたエステ代が年間60万円。個人が私的に利用する自家用車のガソリン代、駐車場代等維持費も計上されていた。K社に違反の詳細や今後の改善策について質問を送ると、代表者からメールで次のような回答があった。
 『保育力を高めることに尽力し、経営を後回しにした無知から不適正な支出と認識できなかった。(指摘のあったものは)解約、返金した。今は社会福祉会計に長けた会計士に顧問になってもらい、このようなことが二度と起こらないようにしています』
 この例のように、情報公開された資料の中には『生命保険料の支出』が不適正と指摘された例が5件あった。本来、福利厚生が目的で職員に生命保険をかけるのであれば正当な支出となるが、これは何を意味するのか。
 ……
 ただ、保育園の委託費の半分以上は税金。保険を使った『財テク』に流用することは許されない。
 資料には表れないが、もっと大きな『カラクリ』も存在するという。
 ……
 底が知れない保育園の『闇』。都内には約3,000ヵ所の認可保育園があるが、今回の公開された資料の基となった東京都による監査の実施率は19年度で8.0%。発見された違反は氷山の一角だ。前述の流山福祉会の問題を何度も足立区議会で指摘してきた市川おさと区議は、こう指摘する。
 『区は園で給与遅配があったことを知りながら議会に報告せず、まるで危機感がなかった。これ以上の不正を防ぐには、委託費の使途に関して議会などの場で情報を公開していくことが必要です』
 委託費の私的流用は、犯罪行為となりかねない。大阪府東大阪市の認可保育園『みるく保育園』では、園長・副園長の夫婦(当時)によって委託費が1億円以上も私的に流用され、勤務実態のない家族に架空の給与を計上していたことが発覚。詐欺罪に問われた2人は17年に逮捕され、その後の裁判で懲役刑の実刑判決が下されている。
 〝強欲経営者〟を放置してはいけあい。小林美希
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 誠実で真面目な保育園と悪徳で金儲けの保育園。
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 乳幼児の保育でも老人の介護でも、悪徳な日本人経営者が存在する。
 現代日本には、いたる所に強欲なブラックが転がっている。
 ブラック経営者は自己保護として、政治家への政治献金を行い政治資金パーティー参加し、担当役人・官僚への接待に余念がない。
 そして、悪徳株式会社も金儲けの為に認可保育園に参入し始めている。
 ブラック経営者にとって、子供は自治体から税金を引き出す金づるであった。
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 介護施設介護士同様に保育園でも日本人保育士のなり手がいなければ、将来、乳幼児の保育を外国人保育補助員に頼るようになる。
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 中国資本など外国資本は、日本の教育への投資を模索している。
 日本国は、政府は、政治家は、外国資本による日本投資を熱烈歓迎している。
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 子どもを教え育てる教職・教員は「聖職」と尊ばれたのは戦前の軍国日本の話で、戦後の民主主義ではサラリーを貰う教育労働者と軽蔑されている。
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 財テクに狂奔して金を増やす狡賢い日本人は、人の命さえ金で買えると確信している。
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 真砂の砂は尽きるとも、泥棒の芽は尽きない。
 人間は善事より悪事を働く事の方が多い。
 つまり、性善説より性悪説が正しく、「人を視たら泥棒と思え」であり、自分の身は他人をあてにせず他人を信用せず自分で守るしかないる。
 何故なら、現代日本では正直者・真面目な人間が損をし馬鹿を見る社会になっているからである。
 狡賢く不真面目であくどい日本人は至る所に存在し、そうした日本人が同調圧力を悪用して善人を追い詰め、最悪、自殺にまで追い込む。
 その最たる例が、自粛警察や正義の味方である。
   ・   ・   ・   
 現代の富裕層・資産家が信じているカネの価値観は、昔のお大尽・金持ちとは違っている。
 どう違っているかといえば、カネの集め方と使い方を見れば一目同然である。
   ・   ・   ・   
 現代日本では、国民主権主権在民による国民の権利として国家を食い荒らす人民シロアリと、食い荒らしを助長させ利益を得ている反社会的人権派ゴロツキ(ゴロ)が増えている。
 彼らは、政治献金を提供する政治家や接待する担当役人・官僚から守られている。
 彼らを庇う悪しき同調圧力
 国の借金は、毎年雪ダルマ的に増え、罰ゲームのゴム風船のように子供や孫など次世代に破裂するように仕掛けられている。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本では「子供は国の宝、国力の源泉、御祖先様の生まれ変わり、氏神・祖先神からの大切な預かりもの」として大事に育て厳しく躾けたが、現代の日本では「子供は親の私物・玩具で、補助金をもたらすヒナ鳥」として商品化しチヤホヤと育てている。
 何方が本当の日本人かといえば、後者である。
 何故なら、現代日本人は戦国時代に乱取り・落ち武者狩り・戦場泥棒を行った庶民の子孫で、金になるならどな事でもする意地汚さを心の奧ぞこに秘めているからである。
 つまり、「人は金で買える。人の命を売り買いできる」事を知っていたからである。
 それ故に、日本人を中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人に売り、敬虔なキリシタンは攻撃的宣教師に従って寺社仏閣を破壊して異教徒を弾圧した。
 女性や子供は、男性や成人よりも商品価値が高いとして高値で売り買いされた。
 日本人などは心が穢れた意地汚い、賢くもないし、優れてもいないし、秀でてもいない、そもそもが誉められた人間ではない。
 その醜悪さが現代日本であふれ出している。
   ・   ・   ・   
 親中国派といわれる企業家・経営者そして政治家、官僚、メディア・報道機関は、中国の巨大市場で金を稼ぐ為に、中国共産党が行っているジェノサイド政策を非難・批判せず目をそらし少数民族を見殺しにしている。
   ・   ・   ・   
ルポ 保育崩壊 (岩波新書)

🧣11〉─2─現代日本は善意の同調圧力で蟻地獄となり誰も救われない。~No.36No.37No.38 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 同調圧力を打ち消して独自で行動する日本人は2割、自分の思いを同調圧力で周囲に広めようとする日本人は3割、同調圧力に影響されないが打ち消しもせず何もせず傍観するだけの日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 武士道は、生き様として積極的安楽死を肯定し、惨めな様を晒さない為に本人の希望をかなえる「武士の情け=介錯=止めを刺す」を認めていた。
 武士・サムライとは、自己責任で自己完結が運命付けられていた。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライに於ける同調圧力は、殉死・追い腹の悲劇を描いた森鷗外の短編小説『阿部一族』である。
 ある意味、赤穂義士による老人・吉良上野介惨殺事件も世間の同調圧力による仇討ちであった。
 世間の同調圧力「真の武士なら仇討ちに参加すべき」からに逃げた元赤穂藩士とその家族は悲惨な生活を強いられた。
 切腹させられた赤穂義士とは、世間の同調圧力のあわれな犠牲者である。
 つまり、「武士道と云ふ死ぬ事と見付けたり」という武士道は、騎士道に通じない同調圧力である。
   ・   ・   ・  
 2020年11月19日号 週刊新潮「医の中の蛙  里見清一
 安楽死再考
 なかなか思い通には
 京都で神経難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)女性が『安楽死』を遂げ、依頼されて実行した(らしい)医者2人が嘱託殺人で逮捕・起訴された事件では、案の定『安楽死の希望は叶えられるべきか』『人は自分の最期を自分で決められるのか』といった問題はそのままになった。みんな、あの『実行犯』の医者におかしな言動なり経歴なりがあったことを指摘し、『ああいうヘンな奴らがヘンなことをしたのだ』という結論で安心してしまったように見受けられる。確かに『ヘンな医者』だったにしても、全てが『ヘンなこと』で片付けられるかどうかは別である。
 積極的安楽死(別名『慈悲殺』)つまり患者を『殺してしまうこと』が許容されうる条件としては、1995年に横浜地裁が示した4要件があるが、法律ではなく判例であり、必要条件ではあるが十分条件ではない。つまり、患者を安楽死させようという場合、この要件を満たさないと殺人になるが、満たしていればOKというわけではない。法律で規定がない以上、OKかどうかは、この4要件を満たした上で実際に『やった』医師が捕まって、裁判で無罪判決を受けないと分からない。誰も、なかなかそのリスクを負ってまで『やろう』とは思えないだろう。
 以前書いたように、安楽死否定の議論で最も説得力があるのは、ある状況下である人が安楽死を遂げた場合、同じ状況にはあるが死にたくない人にまで『なんであんたは死なないのか』という同調圧力がかかることであろう。『周囲に迷惑をかけたくない』という理由で安楽死を希望する人はいるが、これを認めると『周囲に迷惑をかけるな(かけずに死ね)』という無言のプレッシャーが生じてしまう。という懸念はもっともだろう。
 だがしかし、裏返して考えるとこれは、自分の尊厳が損なわれ、生きていることに耐えられない人に対し、『あっちで頑張っている人がいるのだから、お前も頑張れ』という逆向きの同調圧力である。2016年に橋田壽賀子さんが『文藝春秋』に『私は安楽死で逝きたい』という一文を寄稿した時に、『あなたのように影響力のある人がそんなことを言うな』といった反論もあったそうだが、ほぼ同じ趣旨と言える。
 同様の問題は、たとえば生体臓器移植でも生じる。外科的な治療手技は確立し、ある名医は、『そこに移植を受けなければ死ぬ患者がいる。助ける技術はある。なのにその技術を用いないのは、未必の故意による殺人に等しい』とまで言い切ったそうだ。ある大学病院で患者の弟が、自分の肝臓の一部を提供しようとしたが、医学的理由で不可能になった。『患者を助けたい』医師団は、次に患者の奥さんに目をつけた。患者の親族が、『弟が提供しようとしたのだから、伴侶なら当然』と考えても、人情として無理はない。移植コーディネーターはこういう時の『自由意思』確認にとても苦労するそうだ。
 今に日本では、どのような場合でも『命を助ける』方が善で、したがってデフォルトである。そのために、意に反して『生かされる』患者は多い。終末期に人工呼吸器装着などの集中治療をするかどうか。やったとしても見込みは決してよくない、とする。これは『消極的安楽死』もしくは『尊厳死』の問題だが、苦しい思いをして、話もできなくなるのならもうそこで楽に行きたい、と考える人は読者の中にも多いだろう。だが実際にそうなってみるとなかなか思い通りにはいかない。
 家族が、『私たちのために頑張って』と本人を掻き口説く、なんてことがある。医者も、集中治療してもダメだろうな、と思っても、『患者を死なせる』方向で家族を納得させるのは難しい。身も蓋もなく言えば、死ぬのは患者で、後で化けて出ることは滅多にない。その一方、家族は生き残る。そちらから恨まれたくない。重症の患者は、涙ながらに懇願する家族に対して自らの意思を貫く気力を保ちにくい。医者が味方してくれれば『好きにしてくれ』となってしまう。
 そういう家族がいなければOK、というものでもない。身寄り頼りのない独居老人が瀕死で担ぎ込まれ、本人の意思表示はできないまま絶望的な集中治療を延々と続ける、という事例は増えてきているそうだ。回復の見込みはなく、誰の目にも『もうやめてあげた方がこの人のためだ』と思っても、できない。『他人の命を諦める』なんて悪しき前例を作れば、生きる権利を侵される人が、出ないとも限らない。
 結局のところ、我々にとって、自分の意思で自分の最期を決められるのは極めて難しく、他人の意向で左右されてしまうのである。そしてそれは、同調圧力の問題のように、『あんたの決定が他人にも影響し、その希望を奪ってしまうのだ』なんて、思いもかけない間接的な形であってくることもあるのだ。
 個人的判断と良心に
 それでもあなたがやった自分の命のけじめは自己決定したい、と思うのなら、まず共犯者が必要である。日本ではそれは医者ではないといけない。その医者とあなたは、同一の死生観をもち、『この先生が「ここで終わりにしましょう」と思う時が自分の最期だ』と納得している。そうしてその医者は、すべての条件をクリアしたとしても『人殺し』の汚名を(少なくとも一時的には)着て、その上で自己(とあなた)の死生観の正当性を主張する必要がある。形の上では京都事件の怪しい医者と同類と思われ、非難されることも承知の確信犯でないといけない。
 そんなのは非現実的と思われるか。しかし、かつて福田恆存先生は安楽死の法制化に反対し、安楽死は医師の個人的判断と良心に委ねられるべきで、それによって医師一人一人が良心の痛みと後ろめたさを感じ、人格を保ちうるのだと主張された。現代の医者に、そこまでの覚悟を求めるのは困難かも知れない。けれどもやはり、『他人の希望』のために生かされるというのは無理筋ではないかと、私は考える。だから、死生観を共有する、長年の患者のためだったら、最期をその意に沿うようにしてあげたいと思うのである。
 医者とは何か。現代の慌ただしい医療では、また医学教育では、そんな問いは『ヘンなこと』で、議論している暇はない。一方で『生かされる』手段はどんどん発達する。死ににくい時代である。」
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 現代の日本人は、武士・サムライの子孫ではなく、庶民でありその子孫である。
 特に、高学歴出身知的エリートは、庶民出身で武士・サムライとは無関係であり、歴史力がない。
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 日本の特異な地方では、姥捨山の風習があったと言われている。
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 何故、戦前の日本で朝鮮人差別が有ったかといえば、日本人若者が国民の義務として戦場で死んでいるのに、日本国籍を持つ朝鮮人若者が目の前で普通の生活をしていたからである。
 朝鮮人は、日本国籍所有者として、海外で、諸外国で、各国政府から、日本人同様の権利と保護と自由を保障されていた。
 共に戦わない朝鮮人は、友人でも、親友でも、戦友でもなく、信用も信頼もなき単に人間として知っているだけの人=知人であった。
 日本人の女性や子供は戦い死んでいた。
 日本での「同じ釜の飯を食う」とは、共に働いて金を稼ぐのではなく、逃げ隠れせず生死を賭けて共に戦う事である。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライは、生き様として死を覚悟し、自分の生き死には自分で決め、みっともない・みじめな・無様な醜態を晒す生き様を死よりも嫌った。
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 庶民は、生きる事への飽くなき渇望から、他人を押しのけ突き飛ばし蹴倒し踏みつけにしても生き残り、金を稼ぎ資産を増やした。
 生きる為なら、みっともない・みじめな・無様な醜態を晒そうと悪あがきし、助かると言われれば如何なる神仏にも縋って奇跡を期待した。
 助けてくれない神仏は無力無能として捨てた。
 キリシタン弾圧も廃仏毀釈も、庶民が信じても・信仰しても御利益がなく存在しても有害なだけだとして行った事である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、架空の理想的時代劇が好きだが、自分が好まない現実の歴史は嫌いである。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史において、平和な時は皆で助け合って共に生きようとしたが、戦争の時代では自分が生き残る為に助け合う事はしなかった。
 日本の庶民は、乱取り・落ち武者狩り・戦場泥棒をして生き残ってきた。
 日本の庶民などは誉められるほどの人間ではなく、優(やさ)しくもなければ優(すぐ)れてもいなかったし、賢くもなく秀でているところもない、ただの凡人・凡夫にすぎない。
 何故か、それは日本人庶民が生きていた日本がブラック社会だったからである。
 日本のブラック社会を空気のように支配しているのが、世界の非常識とも言える空気圧・同調圧力である。
 何故、空気・空気圧力・同調圧力が蔓延るのか、それは日本人の精神や弱い・脆弱・ひ弱だからである。
 「出る杭は打たれる」のはその為である。
 そして、簡単に「褒め殺し」ができる思慮分別が不得意な単細胞的単純思考のチョロい人間である。
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🧣13〉─1─同調圧力は日本人の心に潜む醜悪でおぞましい闇である。~No.38No.39No.40 ⑪ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族日本人が生存する限り、空気圧・同調圧力は消えない。
 空気圧・同調圧力は、上級で品のある武士・サムライではなく、下賤の輩である庶民の方に強く影響を与えていた。
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 同調圧力村八分とは、日本人が心の奥底に隠しているブラックな闇であり、それは精神的ひ弱さと肉体的脆弱さつまり「弱さ」の現れである。
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 現代日本人の祖先は、庶民であって武士・サムライではない。
 現代日本には、武士・サムライはいないし、武士・サムライの子孫もいない。
 日本の庶民とは、信用できない強欲でえげつない人間であった。
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 親は親の権利として、子供との親子の縁を切る義絶(ぎぜつ)「勘当」を宣言し、家族でないとして人別帳から名前を削除し存在を消し去れば、子供が如何なる罪・大罪を犯そうとも親・兄弟・親戚に累が及ぶ事はなかった。
 世間も、その親子は赤の他人と認識し、子供はいなかったとして記録や記憶から消した。
 つまり、被害者家族はいても、加害者家族はいなかった。
 それが、日本の建て前と本音である。
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 2020年10月30日号 週刊朝日「ネット中傷、自粛警察・・・
 日本社会に蔓延する 『凶暴化』した同調圧力の正体
 安田浩一『コロナで加速した「便乗ヘイト」』
 鴻上尚史『「世間」という日本特有のメカニズム』」
 著書『同調圧力』(講談社現代新書)の著者の一人で演出家の鴻上尚史さんと構成を担当したジャーナリストの安田浩一さんが、コロナ禍の日本社会に広がった息苦しい空気の正体について語り合った。人々はなぜ、感染者をインターネット上で晒(さら)すのか。他人の行動を咎める自粛警察とは─。
 安田 鴻上さんは新著で、自粛警察の正体とは暗黙のうちに周囲と同じ行動を強制する『同調圧力』であるという観点から、評論家の佐藤直樹さんと対談されました。
 僕自身、コロナ禍に入って不安を抱えてしまった。昭和2(1927)年に自殺した文豪・芥川龍之介は死に直前に『将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安』を抱えていると書き残しています。彼の死の要因には諸説ありますが、芥川が抱えていた不安と、令和という季節のはじめに広がる社会不安はもしかすると重なるのかもしれない、おいう思いがありました。
 鴻上 興味深いアナロジー(類推)ですが。芥川は関東大震災(1923年)の直後、自警団に参加しています。当初は不審者の警戒を目的として形成された自警団は、『朝鮮人が井戸に毒を投げた』というデマが広がる中、大規模な朝鮮人虐殺の中心的な役割を果たすまでに変貌していきました。同調圧力の過激化という意味では、自粛警察とも非常に近しい心性の働きを感じます。
 安田 自粛警察が生まれたのも、この同調圧力が凶暴化したことが関わっていると、鴻上さんはお話しされていますね。コロナ禍で見た同調圧力の風景には、例えばどのようなものがありましたか。
 鴻上 大きかったのは、自分自身の炎上体験です。演劇界では2月26日に自粛要請が出されました。表向きには『舞台をやるか。やらないか』の二者ですが、圧力が強まり、実際は『やめる』という一択でした。
 それに対して、演劇界の人々が『自粛要請と休業補償はセットだ』と声を上げた。こうした動きを週刊誌の記事で指摘したところ、ネット上では『お前らはこじきか』『好きなことをやってるんだから倒産しても当たり前だ』といった非難の声が殺到しました。これほど強い言葉が返ってくるとは夢にも思わず、『一体何が起こっているんだろう』と考えるようになりました。
 安田 僕自身も日々の取材を通じ、同種の空気を感じていました。はじめは1月末。中国で新型コロナが広がってまもなくです。脅威が国内で今ほど取り沙汰されていなかったころです。
 それまでもインバウンド(訪日外国人観光客)の多い観光地で、『中国人お断り』という貼り紙が出されているのを目にすることはたびたびありましたが、中国人の入店を拒否する店が飛躍的なスピードで増えていきました。緊急事態宣言が出され、自粛期間に突入すると、今度は一部の地域で『中国人は出ていけ』『武漢肺炎は許さない』といったスローガンでデモや集会が散発的に起こるようになりました。
 差別も偏見も皆から社会に存在しましたが、コロナによって加速しました。いわば『便乗ヘイト』と呼ぶことのできる側面があったと思います。
 鴻上 便乗ヘイトというのは、コロナを自分たちの主義主張の理由にしているということですか?
 安田 そうですね。もっと言えば、政治家の言動もこうした空気を後押しする一因となりました。3月10日に開かれた参院財政金融委員会では、麻生太郎財務相が『武漢ウイルス』という名称を連発し、中国政府から抗議を受けました。今日(対談当日)、自民党の総裁選が始まりましたが、菅義偉新首相が自身の目指す社会像として掲げたスローガンは『自助・共助・公助、そして絆』。聞こえのいい言葉ですが、要は『緊急時も国民が自分で何とかしなさい』という突き放した態度の裏返しです。
 鴻上さんは、同調圧力の根底に『世間』という日本独特のメカニズムが関わっている、と指摘しています。僕には、菅さんのこの言葉が家族・隣近所といった世間を象徴しているように感じられたんです。
 鴻上 世間にも良い側面はあります。例えば2011年の東日本大震災で暴動は起こらず、社会インフラは総出で回復され、世界中から称賛されました。けれどもコロナ禍では、マスクをしていない、要請を無視して営業を続ける飲食店に総攻撃を仕掛ける──など絆の負の側面が目立つようになっています。一体何のための絆なんか。目的を明確にしない限り、同調圧力が強まるだけに終わる危険性は高いと思います。
 安田 困っている国民に対して、国が手を差し伸べることを決していない。けれど、絆という言葉を使い、ある種の物語性を付与することで、福祉を含むさまざまな社会保障や制度をカバーしようという思惑があるのでしょう。
 鴻上 一国の首相が、自助という言葉遣いをすることへの違和感は僕も抱いています。震災や事故が発生した際、海外では体育館の中に簡易テントを並べたり、現地のホテルに住民を住まわせたりするといった対応を取っています。行政が全面的に補助を行っています。
 一方、日本では自分で体育館にタオルを持ってきてくださいといった自助や、避難所にいる皆がおにぎりを分け合いましょうというような共助の指示が圧倒的に多い。
 先日、愛媛県宇和島市が新型コロナ感染症対策として、高齢者や妊婦がホテルや旅館に避難した場合、5,600円を上限に補助金を出すと発表しました。れっきとした公助ですが、ニュースを見ていたら住民の方が『こんなところで寝るなんて申し訳ない』といったコメントをしていた。なんとも日本人らしい反応だと思いました。
 安田 もう一つ。『出る杭は打たれる』という言葉があるように、突出した存在に世間が向ける反発心の強さも周知されていいでしょう。最近で言えば、テニス選手の大坂なおみさんに対して起こったバッシングがそうです。彼女は日頃から人種差別に対する抗議の意思を明確にしていて、全米オープンでは白人の暴力によってなくなった黒人犠牲者の名前が刻まれたマスクを着用しました。その姿が報道されると、ネット上では『あれは日本人の感覚ではない』という批判や中傷が相次ぎました。
 大坂選手に対し批判が出た理由
 鴻上 黒人差別に対して堂々と反対の意思を表明する大坂さんは、(大坂さんを)批判する人々からすると、いわばリベラル旗印のように映ったんだと思います。その反発心が、いわば凶暴化した同調圧力として表れた。けれど、同調圧力は本来、思想の右左で明確に分けられるものでもありません。思想信条にかかわらず、日本社会で生きている誰一人として、その空気から逃れられないということに気づいてほしい。
 安田 僕自身、その空気にのみ込まれそうになるときがあります。本書では、ニュースキャスター・芸能人・スポーツ選手などコロナに感染した著名人たちが口々に謝罪をすることのおかしさが話題になっています。
 先日、数日間にわたり取材をさせてもらった方が『濃厚接触者』だとして、保健所から『PCR検査を受けてください』と連絡を受けたそうなのです。本人からそう報告を受けた際、もし僕にも保健所から連絡があったり、彼がPCR検査で陽性になったりしたら、直近で所在させてもらった人たちに僕も謝らなきゃいけないな、と一瞬思ってしまいました。それもまた、世間からの圧力が関わっているのかな、と。
 鴻上 その場合は、謝っていいと思います。この本では世間と社会とを区別しています。世間というのは、自分がよく見知っていて、現在および将来にわたり関係のある人たちのこと。ママ友やグループから、職場・学校といった集団まで内実はさまざまです。
 一歩、社会とは、自分とは直接面識がなく、現在も未来も関係がない人たちのこと。僕と佐藤さんが違和感を持ったのは存在しないはずの世間を想定して謝罪会見が行われることへの違和感です。
 僕の劇団では10月31日からお芝居をやります。稽古中や本番に誰かが感染する可能性だって十分考えられる。もし感染者が出た場合、公演は中止なので僕はチケットを買ってくれたお客さんに対して謝ります。ですが、世間と呼ばれる幻のものに向かっての謝罪のコメントはしません。そういう違いなんです。
 安田 本書ではコロナ感染者に対する差別と絡めて、加害者家族に対するバッシングが挙げられています。殺人などの罪に問われた加害者の家族はメディアで実名や職場を晒され、バッシングされる。
 僕自身、週刊誌の記者時代には犯罪者の家族を取材し、バッシングの輪の中に加わってきた自覚がありました。強気なことを言っても、どこかでやはり日本的心性に侵されているところがあるのかもしれません。
 世間話ではなく『社会話』をする
 鴻上 僕は、そこにこそコロナの特徴が表れていると思います。従来であれば、例えば自分の子どもが罪を犯したとき、家族がコメントを出すかどうかというのは一部の人たちに限られた選択肢でした。
 でも、コロナ感染は誰にでも起こり得る状況です。感染者の周囲にいる人々は加害者家族と同じ状況に置かれて、『自分はどうするんだ』と考えなくてはいけなくなった。いま本当に怖いのはコロナにかかることではなく、『コロナにかかった』と後ろ指をさされること。誰かの後ろ指をさしていたらいきなり自分がさされる側になるかもしれません。コロナは国民全員に対して『あなたどうする?』と突きつけるきっかけを作ったと思っています。
 安田 世間も後ろ指も、あるいみでは捉えどころがないものですよね。対峙(たいじ)することはできるでしょうか。
 鴻上 一つの方法は、複数の世間に所属することですね。例えば職場は代表的な世間の一つですが、ブラックな労働環境に身を置いていると不満や怒りがたまって、自粛警察的な行為に走るということも起こりやすくなる。ボランティアでもいいし、絵画教室でもいい。たった一つの世間ではなく、緩やかな世間を見つけて、そこに参加することで見え方が変わってくると思います。
 そういったものに参加する余裕がない場合は、『世間話』ではなく『社会話』をする。例えば、道路を歩いていて、向こうから犬を連れた人が歩いてきたら『可愛いワンちゃんですね』と話しかけてみる。もしくは、普段入らない定食屋に別ルートで入って、その主人と『おいしかったよ』と話す。いま所属している世間以外の回路を作っていくことで、感情のありようも変わっていくと思います。
 安田 『緩やかな世間』、僕もとても大切なものだと認識しています。このところ、団地に住んでいる単身高齢者を取材しています。団地で多いのが、高齢男性の孤独死や単独死。広く緩やかな世間とのつながりを持てなくなった男性が誰にも気づかれることなくひとり死んでいくというケースが圧倒的に多い。
 一方、女性の場合は地域に対する結びつきが多く、孤独死になりづらい。ですから、緩やかな世間を持つことは究極的には自分の命を守ることにもつながっていると感じました。いま排他的な心性を抱える人も、緩やかな世間に属することで視野が開かれていく可能性はあります。今日の対談を通して、多様性の端切れをつかむわずかな手がかりが得られたような気がします。
   構成 本誌・松岡瑛理」
   ・   ・   ・   
 日本人は情があって優しい、はウソである。
 日本人は誉められた人間ではなく、世界で愛され信用されているもウソである。
 誉められるような人間でないがゆえに、誉められない本性を誤魔化す為に逆に誉めなければならない。
 日本人を誉めるとは、そう言う事である。
 日本仏教が異端仏教に変貌したのはこの為である。
   ・   ・   ・   
 西洋キリスト教世界では、政府は法律に従って国民(国籍を持つ人々)を犠牲にしても国家を守り、教会は絶対神の隣人愛信仰で人々を差別せず別け隔てせず保護し救済し慰め癒した。
   ・   ・   ・   
 配給される物は、我先に争って奪い合い、時には奪い合う相手を自分と家族の為に殺した。
 勝って奪った者が権力者・支配者となり、負けて奪われた者が人民であり奴隷であった。
 それが、世界の、人類の、人間の偽らざる現実である。
   ・   ・   ・   
 西洋諸国で、人民の暴動・叛乱・革命あるいは裏切りや売国行為を怖れる政権は、人民に対して至れり尽くせりの過剰サービスを行った。
 フランス革命ロシア革命も、飢えて凍えた人民がサービスをしない専制君主政府に激怒して暴力革命を起こし、国王や皇帝とその家族を惨殺した。
   ・   ・   ・   
 弱肉強食の地獄のような戦国時代では、自己責任・自助努力・自力救済が唯一の生きる術(すべ)で、「奪えるのなら容赦なく全てを奪う」であった。
 戦国時代の庶民は徒党を組んで、乱取りとして敵地で人を攫い奴隷として売り飛ばして金を稼ぎ、落ち武者狩りで負けて逃げる武士を襲い半殺しにし生首を斬り落として勝利者から報奨金を貰い、戦場泥棒として死体から身包み剝いで裸にして大きな穴に放り込んで埋め奪った物を売って金を稼いでいた。
 庶民は、仲間内を大事にし、仲間を場の空気で支配し、仲間を空気圧・同調圧力で一つにまとめ行動していた。
 「赤信号、皆で渡れば恐くない」である。
 同調圧力で一蓮托生として行動を共にしない者は、信用できない、仲間ではないとして集団から排除した。
 日本人の集団主義とはそういう集団主義であるがゆえに、個人主義を嫌う。
 寝起きも、プライバシーを厳守する個室ではなく、プライバシー無視の大部屋での雑魚寝であった。
 何故か、他人を信用せず、抜け駆けをして皆より得をさせない為であり、裏切って寝首を搔きに来るのを防ぐ為である。
   ・   ・   ・   
 そして、仲間から抜け出し敵に寝返り仲間を殺しにきそうな者は絶対に容赦しなかった。
 それが、「二君に仕えない」である。
 武士・サムライは、裏切りや寝返りは日常茶飯事であったが、寝返りや裏切りで出世もした。
 武士・サムライで絶対に許されなかったのは、親殺しと主家殺しで、追放や幽閉の簒奪は許された。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民は、乱取りで攫ってきた日本人を中世キリスト教教会と白人非キリスト教徒商人に奴隷として売って金を稼いでいた。
 日本人の命は、金で買えた。
   ・   ・   ・   
 全ての事には善い面と悪い面が存在し、100%善い事はなく、100%悪い事もない。
   ・   ・   ・   
 昔の日本は、それぞれの条件に合わせ100%から0%の間で、多く貰うから少なく貰うかの差があって当然として「程ほど」のところで満足していた。
 現代の日本は、100%か50%か0%かの絶対平等で、同じくらい貰わなければ納得できなくなっている。
   ・   ・   ・   
 同調圧力村八分は、日本人がグローバルな西洋的近代化に脱皮できずローカルな日本的ムラ根性の呪縛を受けている証拠である。
   ・   ・   ・   
 弱い者が、人の痛みを知っているとは限らない。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は「弱い者イジメは男の恥」と嫌われた。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民には、哲学・思想の儒教も、宗教のキリスト教も、まして主義主張のマルクス主義共産主義)さえも、自分の個としての我欲・私欲・強欲をかなえてくれる「現世利益」がなければ無用な物として受け容れず排除した。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民は、将来に対して夢も希望もなければ持つ事もなく、今を生きている事だけで満足し、思い煩う事はなく、悩むことも少なく、死後の事などどうなろうが一切気にしなかった。あるのは、今この時、現在だけであった。
 女が欲しければ、他人の家に夜這いをかけて妻か娘を抱き、神社仏閣の夜祭りで相手が誰か分からない女を抱いた。
 女性は、夜這いしてくる男に抱かれ、男が欲しければ夜祭りで見ず知らずの男と寝た。
 自由奔放に生きた庶民の女には、操を守るという貞淑観念など微塵も持たず、亭主が知らないところで間男を作って楽しんでいた。
 夫は、妻が知らない男の子を生んでも我が子として育てた。
 庶民の親子関係とは、「托卵」であった。
 その風習は、縄文時代から受け継がれたものであった。
 日本民族日本人は、乱婚を繰り返し血が汚れた混血(ハーフ)の雑種民族であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代まで、庶民の大衆浴場は男女混浴であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の江戸・大坂・京など大きな町は男性が多く女性が少なかった為に、女性が大事にされた。
 一生涯結婚できない独身男性は、吉原などの官許遊郭、私娼街の岡場所、流しの夜鷹などで女遊びをしながら死んで行った。
 江戸時代は自由恋愛のフリー゠セックスの為に梅毒などの性病が蔓延し、おおかたの庶民は一度は梅毒に感染していた。
 遊び好きの男は、梅毒に感染し症状が治まっている遊女を好んで買った。
   ・   ・   ・   
 日本の家族とは、子供に期待するが、父親には期待しない。
 馬鹿な亭主は外で遊んでくれた方は、家庭は楽しかった。
 子供は、母親に味方して父親を嫌い、老いた母親の面倒をみるが、老いた父親は煙たがって捨てた。
 それが、亭主関白のなれの果てで、男は悲惨な人生を送る。
   ・   ・   ・   
 何故、日本人が同調圧力村八分に暴走するのか、それは日本式日本農業法にある。
 日本式農業法とは、隣近所と同じ時期に同じ方法で同じように農作業をする、という事である。
 つまり、日本の農作業は隣近所を見て行う為に、隣近所を神経質なまでに意識し、隣近所と違う事をしないように注意した。
 それは同時に、違った作業をするの者が近所にいたら、隣近所が総出で皆と同じ事をするように注意し、同じようにしなければ批判し・非難し・抗議し・攻撃した。
   ・   ・   ・   
 弱い者は、ストレスが溜まると自分より弱い相手に対して陰湿・陰険なイジメ・意地悪・嫌がらせを行い、追い詰められると理性をなくし半狂乱となって手に負えなくなり無駄と分かっていても暴走して破滅・自滅する。
 その良い例が、負けると分かっていた太平洋戦争であり、カミカゼ特攻や万歳突撃などの玉砕である。
 あたかも、増え過ぎたネズミが暴走して海に飛び込んで集団自殺するのに似ている。
 弱い者・脆弱な者・ひ弱な者の半狂乱の暴走には、行き着くとこまで行かない限り途中での理性による歯止めは利かないし、破滅的結果を目の当たりにして我に返るまで誰も押し留める事はできなかった。
   ・   ・   ・   
同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか (講談社現代新書)

🧣12〉─1─日本を覆う空気としての陰湿・陰険な「歪んだ正義」。~No.37 

   ・   ・   ・   
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 弱い人間は、強い人間に比べて残虐で、自分より弱い者・弱い立場の者に対して狂暴になる。
   ・   ・   ・   
 日本人の控え目な言動は、人間的に弱さの表れである。
 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人はおろか欧米や中東など大陸に人間に比べて個性が弱く精神的肉体的にひ弱な人間、脆弱な人間、弱い人間である。
   ・   ・   ・   
 昔の日本は、血や死を穢れとして恐れおののいた為に、中国や朝鮮に比べて争い・戦争・内乱・叛乱・内戦・暴動などは少なかった。
   ・   ・   ・   
 弱さを自覚する日本人の処世術は、善くも悪くも「三十六計逃げるが勝ち」である。
   ・   ・   ・   
 2020年10月11日号 サンデー毎日「日常の暴力に潜む歪んだ正義の正体を暴く
 自粛警察、SNS中傷、いじめ、DV・・・
 自粛警察、ネット上の中傷、ドメスティック・バイオレンス(DV)、テロリズム。一見無関係なように見えるそれぞれの暴力だが、いずれにも通底するメカニズムがあるとしたら?『歪んだ正義「普通の人」がなぜ過激化するのか』(毎日新聞出版)の著者が、私たちに潜む攻撃姓とその対処法を考える。
 新型コロナウィルス禍に現れたいわゆる『自粛警察』『マスク警察』が人間の攻撃姓を改めて顕在化させている。いやそれ以前からもソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上では中傷が激化していた。性被害を実名で告発したジャーナリストの伊藤詩織さんへの攻撃は70万件に達した。女子プロレスラー木村花さんもSNS上で中傷を受け、今年5月に亡くなった。
 『人を傷つける心──攻撃姓の社会心理学』(サイエンス社)などの著書がある大渕憲一・東北大名誉教授が指摘する。『災害や犯罪などによって社会不安が高まると、それに伴い生じる不快感情が攻撃姓に転化されやすくなります』
 大渕名誉教授によると、もともと他者に敵対的、差別的な態度を持つ人は不安や恐怖が強まると、「認知資源の不足などから抑制力が低下し、敵意や差別感情が噴き出しやすくなる」という。認知資源とは、合理的な判断をする心身のゆとりのようなものだ。
 彼らが攻撃行動と引き換えに本能的に欲しているものは二つあるとされる。まず他人を目線で叱りつけることで自尊心を高めて落ち込んだ気分を浮揚させること。もう一つは攻撃が周囲に支持されるであろうという期待感から来る承認要求だ。
 コロナ禍ではマスクや自粛をしない人は周囲の人々に『感染症拡大をもたらす加害行動をしている』と見なされやすい。従って彼らを攻撃するのは『社会正義』であり周辺にも支持されやすいと考えて自制がきかなくなるという。
 また、大渕名誉教授によると、その背景には『置き換え』という心理もある。
 自分の不快感情の元凶(疫病や自然災害、虐待など)を攻撃できない場合に別の対象に向けることで、簡単に言えば八つ当たりだ。欲求不満から来る不快感を発散したいという思いを抱えている人は、ささいな刺激から本来関係のない対象を攻撃してしまう。
 こうした攻撃は、相手にわずかな『非』を見いだして一方的に『正義』を掲げることが多い。攻撃者は相手を『しつけている』ような気分になり、自尊心が高まるのでストレスや不安が一時的に解消され、その快楽から依存性を高めてしまう。
 私が『普通の人』の攻撃性に関心を抱いたのは、これまでの取材経験からだった。エルサレム特派員などとして多数の紛争や暴力事件の当事者に取材してきた。
 暴力を肯定する人々は実際に会うと拍子抜けするほど『普通の人』の顔をしている。だが自分の正当性を語り始めると『正義の顔』で歪み始める。
 このギャップはいったい何を意味するのか。
 疑問に真っ正面から取り組むきっかけとなったのがエルサレム特派員を終えて休職し、現地イスラエルで留学した大学院の博士(心理学)から聞いた言葉だった。
 『テロリストの頭の中を考えるには、まず普通の人々の頭の中を考える必要がある。そうすると、大半の人は状況さえ整えばテロリストにさえなりうるということが分かる』
 『普通の人が悪魔になりうる』
 彼は、人間は誰しも攻撃性を持ち、状況次第でエスカレートするしテロリストにさえなりうると断言した。
 米スタンフォード大学のフィリップ・ジンバルドー名誉教授(心理学)が行った有名な『監獄実験』だ。1971年、ジンバルドー名誉教授は24人の中流階級の米国人学生を対象に半分を看守役、残る半分を囚人役にして環境が人間に及ぼす影響を調べた。囚人役は足をつなぎ番号で呼ぶ。看守役には笛、警棒、鍵を渡し『囚人に何をしてもよい』と絶対的支配権を与える。
 その結果、実験は想定よりかなり短い6日間で終了せざるをえなくなった。看守役が予想以上に残酷な行為を繰り返し始めたからだ。
 囚人にろくに食事を与えず頭巾をかぶせて鎖でつなぎ、トイレを手で掃除させた。36時間後には囚人の一人が急性のうつ状態になった。ジンバルドー名誉教授は『ごく普通の人が状況次第で悪魔にもなりうることを証明した』と指摘した。
 ……
 しかし、確かに人間には本能的な攻撃性があるが大半の人々は過激化しない。エスカレートする人には何があり、あるいはないのか。
 私はまず過激化のプロセス(過程)を調べた。
 大学院を拠点に研究者に取材をしたり多数の学術論文や書籍を読み込んだりした結果、それはいくつかのステップを踏みながら進んでいくことが分かった。
 私は1年がかりでこの過程を五つのステップに集約し、過激化プロセスとして図式化した。ここではその一つ『非人間性』と呼ばれる視線について説明したい。他者を人間とは見なさなくなるような認知の変化だ。
 『非人間性』はカナダ人の心理学者、アルバート・バンデューラ氏らが1975年に提唱した有名な概念だ。他者を、心を持たない愚鈍な人間以下のモノと見なし、彼らには対話などの通常の手段ではもはや足らず、野蛮な手段、つまり虐待などが必要だと考える。
 人間はもともと他者との間に人種や性別、年齢や立場などに相違があると共感を抱きにくい。そうして明確な根拠もなく『自分は相手より優れている』と優越感を抱いてしまう傾向がある。
 先の監獄実験が証明したのもまさにこの点だった。実験上の『立場』が与えられただけで、看守役は囚人役を人間扱いしなくなった。
 虐待やDV、テロリズムなどで攻撃者になった人々の中には裁判などで『当時、ストレスが高まっていた』と事件を振り返ることも少なくない。『ストレスなどで心身に負荷がかかり自尊心が低下したり他者への攻撃欲が強まったりしている人は他者に非人間化の視線を向けやすくなる』という。
 博士はこの『非人間化の認知は「普通の人」が攻撃性を激化させる過程で必ず表れる現象だ』と断言した。攻撃性をエスカレートさせないようにするにはどのような対処法があるのか。
 行動科学で世界的権威の米イリノイ州ラッシュ大学医療センターのステバン・ホブファル博士が書いた『リソース(資源)の保存』理論によれば、人間は心身のバランスを失いかけた時、自分を支えてくれそうな追加の資源を本能的につかもうとするという。
 『おぼれる者はわらをもつかむ』というが、そうした状況で不適切なもの、例えば他者への攻撃で一時的な快楽を味わうようなクセができてしまうこともある。
 ストレス対処6種のアプローチ
 私はさまざまなストレス対処法を調べて拙著(せっちょ)にまとめた。その中の一つに、統計的に効果が証明されたというイスラエル・テル・ハイ大学の心理学教授、ムーリ・ラハド博士らが構築したストレス対処プログラム『BASICPh』がある。
 教授らは11年の東日本大震災をはじめ世界各地の紛争・災害現場などに赴き、この手法を通じてレジリエンス(復元力)を引き出す方法を伝えている。レジリエンスとは心身のバランスを回復する力で、ラハド博士らは、人間にあらかじめある復元力を引き出す工夫が必要だとしている。『BASICPh』とは信念(Belief)、感情(Affection)、社会性(Social)、想像力(Imagination)、認知的(Cognitive)、肉体的な(Physiological)の6語の頭文字をそれぞれ取った言葉だ。私たちはこの六つのアプローチの一部あるいはすべてを使い無意識的にストレスに対応していると考える。
 自分に合った対処法を見詰めるための18項目の質問(詳細は拙著に掲載)があり、そこに答えると自分に合った対処法のイメージが浮かぶ仕組みだ。子供には、親がこの質問をもとに日ごろから彼らの対処法を見いだしておくことで、震災などで急に負荷がかかった時も、迅速に本人に合ったストレス対処法を促すことができるという。
 私も試してみたがSの社会的つながりやPhを重視したストレス対処法を持っていることが分かった。確かに悩みがあるとすぐに家族や友人に話すし、散歩で気分転換を図る。知人に勧められた想像力(I)を使った絵画を試みたこともあるが、予想に反して没頭できた。誰かの趣味に付き合ってみると意外な発散法が見つかるかもしれない。
 他者を攻撃するようなストレス対処法は誰も望んではいないだろう。私たちは、他者を傷つける行為は自分を傷つけることを知っているからだ。本書がそんな罠にはまらないための一助となればこれほど嬉しいことはない。 毎日新聞記者・大治朋子」
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、自分の弱さ・苦しさ・辛さを嘆いて慰めるのではなく、あれこれ深く考え思い煩わず鬱ぎ込むのではなく、我を忘れるほどに笑って、謡って、踊って、馬鹿になりきりはしゃいで誤魔化していた。
 それが日本の祭りであり演芸であり万歳(まんざい)であり、それらは汚れ穢れた悪心・荒魂を浄め鎮め善心・和魂にかえる神事であった。
 その逸話が、日本中心神話の一つである皇室所縁の天岩戸神話である。
 日本民族日本人は、太陽を「お天道様」と崇め、太陽の恵に感謝してきた。
 太陽とは、最高神の女性神天照大神天皇家・皇室の祖先神)である。
 日本には、あやふやな哲学や思想が生まれても、時空を変える主義主張や普遍的宗教は生まれなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、苦しい事、辛い事、切ない事、悲しい事があると、大声で泣き叫ぶ事をせず、声を殺し誰も見ていないところでさめざめと泣き、他人にはなりべく笑顔を見せる。
 「顔で笑って心で泣く」、それが日本民族日本人の生き方である。
 そしてよく笑った。泣きながら笑った。無理してでも笑った。
 日本民族日本人の笑いは、中国人の微笑みや朝鮮人の嗤いとは違う笑いであった。
   ・   ・   ・   
 日本が平和で幸福である為には、中国や朝鮮に近付き親しくなず、ヒトの交流は制限し、モノとカネだけの取引に留めておく事である。
   ・   ・   ・   
 救いがたい、おぞましく醜い日本人の本性。
 ブラックな日本人は、自分より弱い相手に対するイジメ、意地悪、嫌がらせを止めず、最悪、自殺まで追い込んでも罪の意識がない。
 攻撃相手が死んでいなくなると、新たな獲物を探してさ迷う自称「正義の味方」
   ・   ・   ・   
 悪くなっても欲になる事が少ない、ブラックな日本社会。
 人が信用できなくなりつつある日本。
 日本人の心は年々病み、重症化している。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人と現代の日本人は違う日本人である。
   ・   ・   ・   
 日本を支配する正体は、戦国時代を生き抜いた庶民の非情なサバイバル感情である。
   ・   ・   ・   
 日本人は、中国人や朝鮮人に比べて個性が弱く精神的肉体的にひ弱な人間である。
 歴史的事実として、日本民族は中国人や朝鮮人との政争・暴力・生存競争などに負けて日本列島に逃げてきた弱い人間・敗北者・負け組である。
 その証拠として、他人の目線や他人の評価を異常なほど気にし、同調圧力に弱く、周囲と同じ行動・生活をして目立たないよう・浮かないように振る舞う。
   ・   ・   ・  
 なぜ、戦前の日本が強者であるはずの中国や朝鮮に勝てたのか、それは「窮鼠猫を噛む」という絶体絶命の窮地に追い込まれた為に発狂的攻撃力が爆発したからである。
   ・   ・   ・   
 なぜ、中国人や朝鮮人が自制心をなくす反日行動に暴走するのかと言えば、本来、自分たちは中華思想の絶対真理で世界の支配者であり絶対強者・最高位の上位者であるのに、弱者・下位者の日本人に負けて自尊心を踏み躙られたという屈辱感、癒される事のないルサンチマン・恨・怨を抱き続けるからである。
 その意味で、中国人や朝鮮人反日敵日憎日侮日感情は消えないし、未来永劫、日本・日本人を許す事は絶対にありえない。
   ・   ・   ・   
 なぜ、日本人が朝鮮人や中国人に対して暴虐に振る舞ったかと言えば、中国人や朝鮮人に対する祖先の復讐心・報復心、自分の劣等感からである。
   ・   ・   ・   
歪んだ正義 「普通の人」がなぜ過激化するのか
ゆがんだ正義感で他人を支配しようとする人 (講談社+α新書)

🥓39〉─1─なぜ日本は自発的に「貧困化」へと向かうのか?~No.178 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年11月8日 MicrosoftNews 文春オンライン「なぜ日本は自発的に「貧困化」へと向かうのか? 内田樹が語る“日本再建のビジョン”
 内田 樹
 新型コロナウイルスの危機はグローバル資本主義のあり方に急激なブレーキをかけ、疑問符を投げかけた。今後、アンチグローバリズムの流れで地域主義が加速すると分析する 思想家の内田樹が、新著『 コモンの再生 』にこめた日本再建のビジョンを語る。(全2回目の1回目。 後編を読む )
 ◆ ◆ ◆   
――ポストコロナ時代における1つの大きな見立てとして、今後、「地域主義」が加速していくというのはどういうことでしょうか。
 内田 パンデミックによってヒトとモノの流れが停滞して、グローバル資本主義が事実上、機能不全になりました。クロスボーダーに人と商品と資本と情報が超高速で移動することを前提に制度設計されてるのがグローバル資本主義です。
 電磁パルスはこれからも国境を越えて移動するでしょうけれど、生身の人間は身動きがならない。そして、生身の人間が移動しないとどうにもならないことが世の中には思いがけなくたくさんあった。これから先も間欠的に新型ウイルスが発生して、その都度パンデミックが起きるとすると、早晩グローバル資本主義というシステムは破綻するでしょう。
 今回わかったことの1つは、「本当に必要なもの」が金で買えないことがあるということです。ビジネスマンたちは「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればいい」という「在庫ゼロ」を理想とするジャスト・イン・タイム生産システムにこれまでなじんできました。とくにアメリカではそれが徹底していた。ですから、感染拡大の初期には、防護服やマスクまで戦略的備蓄がほとんどなかった。その後「主要な医療器具と医薬品に関しては、輸入に依存せず、国産にする」と方針を切り替えました。
 事情はヨーロッパも同じです。イタリアは医療崩壊したときにドイツとフランスに支援を求めましたが、両国とも医療品の輸出を禁止した。危機的事態になると友邦さえ門戸を閉ざすということをそのとき世界の人々は学んだ。ですから、医療品やエネルギーや食料といった社会にとって必要不可欠なものは、たとえ国際価格より割高でも自国内で調達できる仕組みにどこの国も切り替え始めてゆくと思います。

 中産階級が没落し、市民の政治参加意欲が失われた日本
――日本でも深刻なマスク不足がおきて、国内での増産体制を強化しました。
 内田 グローバル資本主義では、メーカーは税金が安く、人件費が安く、環境保護規制がゆるいところに生産拠点をアウトソースしてきました。でも、そういう手荒なやり方自体がこれからはもう成り立たないでしょう。
 生産拠点を海外に移せば、国内の雇用が失われ、賃金が下がり、国内市場は縮小します。でも、企業は「国内の購買力が落ちたら、海外に市場を求めればいい」と考えて、国内市場を底上げする努力を怠ってきた。その結果、ブラック企業が増え、雇用条件は劣化し、中産階級が痩せ細り、消費は冷え込み、階層の二極化がさらに進んだ。
 でも、中間層の空洞化はもともとはビジネスサイドの要請に応じたらそうなってしまったということですけれど、実際にそうなってみたら、政治的に望外の結果が得られた。それは政権の安定です。国民が貧しくなったら、統治コストが安く上がるようになった。
 普通に考えると、中産階級が没落してプロレタリアート化すると、この「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」人々は収奪されたものを奪還するために立ち上がって、革命を起こすはずなのですが、そうはならなかった。貧困化し、権利を奪われた市民たちは、ただ無力化し、政治への期待を失っただけでした。考えてみれば、たしかにそうなって当然だったのです。
 近代史を振り返ると、中産階級が勃興すると、市民の政治意識が高まり、それが市民革命をもたらしました。ということは、逆から考えると、政治意識の高い中産階級が没落して、貧困化し、無力化すれば、むしろ市民の政治参加意欲は失われる。そんな歴史的実験をした先進国はこれまでありませんでしたが、日本ではそれが起きてしまった。
 実際に中産階級が痩せ細って、プロレタリア化したら、彼らは無力化して、政治参加意識を失い、むしろ消極的にではあれ政権を支持するようになった。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という手垢のついた事大主義的な言明を上から下まで、知識人から労働者までが唱和するようになった。「国民が貧乏になると、国民は統治し易くなる」という意外な命題が成立したのでした。
 振り返れば、1960~70年代の高度成長期、国民が「1億総中流」化した時代は「荒れた時代」でもありました。学生運動市民運動も労働運動もその時期が一番激しかった。革新自治体が日本中に広がったのもその頃です。経済がぐいぐい成長し、若い人たちが元気に走り回り、あらゆる分野でイノベーションが起き、国としての発信力が高まった時には、実は中央政府によるコントロールが難しい時期だった。国運の向上期には統治コストが嵩むということです。
 だから、その逆に、経済活動が非活性化し、貧困化が進むと、国民の権利意識は萎縮し、政治運動は沈静化する。統治する側から見たら、ありがたい話なんです。統治コストを最少化しようと思ったら、国民を無権利状態に落とせばいい。福祉制度を空洞化し、社会的弱者は「自己責任で弱者になったのだから、公的支援を期待すべきではない」と突き放す。国民たちは貧しくなればなるほど、口を噤んで、黙って下を向くようになる。なにしろ「現状を改革したければ、現状を改革できるくらい偉くなってから言え」という強者の理屈に社会的弱者たちが進んで拍手喝采するような世の中なんですから。

 国民を無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がない
――貧困化で統治コストが最少になるというのは、ドキリとする指摘です。
 内田 安倍政権の7年8ヶ月の成功体験だと思います。安倍政権は反対する国民については、これを「敵」と認定して、その意向をすべて無視しました。逆に、自分の身内や味方には公権力を使って便宜を図り、公金を使って厚遇してきた。ふつうはそんなことすれば国民が怒り出すはずですけれども、そうならなかった。あまりに当然のようにはげしい身びいきをしたせいで、国民はすっかり無力感に蝕まれてしまった。権力のある人は何をしても処罰されないのだ、権力者は法律より上位にあるのだと国民は信じ始めた。そのような圧倒的権力者に逆らっても仕方がない、大人しく服従しようということになった。
 その時の成功体験を踏まえて、菅政権もそれと同じことをしようとした。反対者を潰し、社会福祉制度は骨抜きにして、中産階級の無権利化をさらに進めるつもりでいると思います。
 お隣の中国は、監視カメラによる顔認証システムやSNSでの発言チェックやカード利用歴のビッグデータを利用した全国民監視システムを作り上げました。国民監視のために膨大な国家予算を投じている。治安対策費が国防予算を超えたと聞いています。それだけの統治コストをかけるのは、国民が中産階級化してきたからです。豊かになると市民の権利意識が高まり、政治的な動きが始まる。そのことを中国政府は恐れているのです。
――2億台を超える監視カメラによる顔認証システム「天網」が中国全土に導入されていますね。
 内田 ところが日本ではそんなことのために予算を使う必要がない。中国とは逆に、国民が貧しくなるにつれて、権利意識が希薄になり、政治参加意欲が減殺されているからです。うっかり反政府的なことを口走ると、すぐにお節介な奴らが「こいつ反日ですよ」とご注進に及んでくれて、公的な場から叩き出し、公的支援を止めるように陳情してくれる。だから、政府には国民監視の実務をする必要がない。官邸で寝転んでテレビを見て、「問題発言」をする人間をブラックリストに書き足すくらいの仕事で済む。マイナンバーとかほんとは要らなかったんです。別に大金をかけて国民監視システムを作るより、国民を貧乏で無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がないほど弱体化するんですから。今や統治コストの安さにおいて、日本は東アジアでは群を抜いていると思います。
 自民党西田昌司議員が「そもそも国民に主権があることがおかしい」と発言する画像がネットでは繰り返し流されていましたけれど、あれはまさしく自民党の本音だと思います。うっかり国民の意見を聞くと、国民の側に権利意識が芽生える。次々と要求してくる。1度でもそれを聞いてしまうと、病みつきになって、どんどん要求が増えてくる。だから、初めから「お前たちの要求は何も聞かない。お上が施してくれるものを口を開けて待ってろ」と、ピシッと言って聞かせた方がいい。そう考えている。

 社会的弱者を攻撃する「貧乏マッチョ」な人たち
 統治コストを最少化したければ、国民に権利を与えないのが一番いい。口には出しませんが、今の自民党の政治家はそのことがわかっている。とはいえ、国民がみんな死んだような顔になって、社会がどんより暗鬱なものになり過ぎるとそれはそれで困る。だから、ときどきは五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだと中味のない景気のいい話で気分を盛り上げる。そんなのは所詮「打ち上げ花火」で一過性の効果しかないことは仕掛ける側だってわかっています。本気でもう1度経済をV字回復させようと思ったら、戦後日本の成功体験は「1億総中流」しかない。でも、それだけはやりたくない。だから、国運が衰微することと、国民が無力化して統治コストが安く済むことのどちらがいいか天秤にかけて、安倍政権は国運の衰微を選んだのです。
――政権批判はかっこ悪い、デモに参加するなんて「ダサい」みたいな空気もここ数年で急に強まった印象があります。
内田 そうです。デモをしたりするのは社会的弱者であることをカミングアウトすることであり、それは恥ずかしいことだという考え方がもう深く広まっています。弱者に転落したのは自己責任だから、公的支援を期待してはならないと言い出したのは英国のサッチャー首相です。「ゆりかごから墓場まで」の高福祉社会から「小さな政府」への切り替えは70年代に始まりましたが、その時に「社会など存在しない」とサッチャーは公言して、労働者階級を攻撃しました。それに当の労働者たちが拍手喝采した。「福祉制度のフリーライダーは国民の敵だ」というアイディアを最も熱烈に支持したのは労働者階級でした。
 オレは貧乏になっても国には頼らない、自己責任で貧苦に耐えると宣言する「貧乏マッチョ」な人たちが福祉制度の受益者である社会的弱者を攻撃する先頭に立った。そうやって労働者階級は分断され、市民のアトム化が進行して、市民たちの権利意識は希薄化し、統治コストは削減されました。この新自由主義の流れはそれからずっと続いています。アメリカでも、日本でも、それは変わりません。トランプの最も熱烈な支持者はまさにこの「貧乏マッチョ層」ですから。
――たしかにみなが互いに協力して守り合うという感覚が現代社会では極めて希薄です。
 内田 相互支援のための互助的なネットワークの解体を進めたのは、マーケットと政治です。マーケットの側の理屈では、相互支援ネットワークが存在して、身内の間では市場を介さずに商品やサービスが活発に行き来すると、資本主義的には困ったことになります。ものが売れないから。だから、まず血縁・地縁共同体を解体した。市民を孤立させれば、生きるために必要なものは市場で、貨幣を投じて調達しなければならない。資本主義の発展のためには相互支援ネットワークは邪魔なんです。
 政治の側の理屈で言うと、市民を孤立させ、無力化させると統治コストは削減される。この点でマーケットと政治の利害が一致した。国民を分断して、誰からも贈与されず、誰からも支援もされない状態に置いた方が消費活動は活性化するし、統治はし易くなる。いいことずくめじゃないかという話になった。
 そういう歴史的文脈の中で、再び相互支援の公共性を再構築することが喫緊の課題だと僕は考えています。それが「コモンの再生」というこの本のテーマです。

 内田樹(うちだ・たつる)
 1950年東京生まれ。思想家、武道家神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の天皇論』『サル化する世界』『日本習合論』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。
 「僕が死んだあと、私有地も道場も“面倒な”コモンにする」 内田樹門徒に苦労させるワケ へ続く
 (内田 樹/ライフスタイル出版)
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🧣11〉─1─何時から現代の日本人は恥を捨てケチで小狡くなったのか。〜No.32No.33No.34 ⑨ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は、徳川家康江戸幕府の「10両盗んだだけで死刑」「放火すれば火炙り」という呪縛から解き放たれ、日本人本来の生き方をし始めただけである。
 日本人庶民の実像とは、戦国時代を逞しく生き抜いた庶民である。
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 良い日本人は2割、悪い日本人は3割、あやふやな日本人は5割。
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 2020年10月24日・31日号 週刊現代「持続化給付金詐欺、GoToクーポン詐欺、減免制度詐欺・・・
 『貰えるものは何でも貰う』『得するなら何でもいい』の心性を
 なんと小狡い人たち
 日本人はいつから恥知らずになったのか
 まさに火事場泥棒だ。国からの給付金やポイント還元策を悪用して、ここぞとばかりに儲けようとする輩が後を絶たない。困難なときこそ支え合う美徳の精神は、現代の日本人には残っていないのか。
 『70万円も儲かってん』
 浴の皮が張って、ケチで小狡い人のことを俗に『6日知らず』という。指を折りながら『1日、2日・・・』と数えると、5日で握りこぶしになる。6日目を数えるには、閉じた指を開かねばならない。つかんだモノを手放さないと6日目にならないから、欲張りは5日までしか数えられないというわけだ。
 大阪・北新地。商人の都だけに、6日を知らない人がひしめいている。
 『なんかよう知らんけど、70万円も儲かってん。コロナでシフトにも入らへん時期やったから、ほんまに助かったわ』
 胸元露(あらわ)なドレス姿で語るのは北新地のクラブで働くレイさん(27歳)。
 『6月に店に来た税理士のお客さんが、「コロナで困ってんねやろ。俺の言うとおりにしたらカネが貰えるで」って。クラブの女の子、みんな一緒に申請しました』
 レイさんが手にしたのは、持続化給付金だった。新型コロナウィルスの感染拡大により、大きな影響を受けた中小法人、個人事業者を支えるため、中小企業庁が給付している支援金で、法人は最大200万円、個人は100万円貰える。
 神戸に事務所を構えるある税理士は、『苦しい経営のところも多く、給付の対象になるべき店や人も多いが』と断りつつ、夜の繁華街が『給付金詐欺』の温床にもなっていると語る。
 『新地のクラブで元議員の肩書きを持つ税理士がグレーな申請代行を行っているという噂もあります。クラブ嬢の通帳や身分証を預かり、公認会計士行政書士と手を組んで外形的に問題のない申請書を作る。100万円の給付金が入れば、30万円を手数料としてピンはねするわけです。夜の仕事の人は確定申告もろくにしないことも多く、申請に必要な条件を操作するのはたやすいのです』(前出の税理士)
 もともとは経済活動をストップさせないために、急場しのぎで見切り発車した制度だ。申請の条件があいまいだったり、審査がゆるかったり、いろいろと問題が多いのはやむをえない事情もある。
 だが、その制度の穴をねらう小狡(こずる)い連中が大量に発生している点は見逃せない。千葉で活動する別の税理士の話。
 『コロナの影響がそれほどあるとは思えないのに、持続化給付金が欲しいと相談を持ちかけられるケースはとても多いですね。飲食店も多いですが、意外に多いのは農家です』
 常識的に考えれば、コロナの影響で売り上げが落ちたと証明できる農家は少ない。しかし、そんな常識を覆すトリックがあるという。
 『持続化給付金は、「前年同月比で収入が5割以下になった」ことだけを示せば、貰えます。一般に米農家は9月、10月にしか収入がありません。私のところに相談に来る農家は、昨年、それぞれの月に600万円ずつ、計1,200万の収入があり、それを月単位でならして月100万の収入と申告していました。
 給付金の対象になる今年の前半は、収穫もしていないので、収入はゼロと申請する。こうすれば、実際は収入が減っていないのに、簡単に国から100万円を貰えてしまうのです』(前出の税理士)
 バレなきゃ何やってもいい
 100%違法とはいえないが、このケースの厄介なところだ。良心はとがめるが、非があるのは制度のほう。『貰えるものは何でも貰う』と割り切ってしまえば、誰もが大金を受け取ることができる。
 さらに盗人猛々しい連中もいる。例えば、かんぽ生命の社員。保健の勧誘員は金融商品の販売成績に応じて給付とは別に、事業所得を得ている。しかし昨年、不正販売が横行していることが明らかになり、営業を自粛せざるをえない状況が続いていた。それを逆手にとって、持続化給付金を申請していた社員がグループ全体で100人以上もいたことが発覚したのだ。
 『自分が給付金を受け取る資格があるかは微妙だが、周りが次々申請しているので、受け取らないのは損と考えて相談に来る人が多いですね。「タダで貰えるカネがあるらしいけど、自分も資格があるんではないか」というわけです。
 そういう事業主に入れ知恵をして1~2割の手数料を取る税理士も多く、私の知り合いには月換算で去年より100万円も多く稼いでいる人もいます』(千葉の税理士)
 さすがに最近になって、行き過ぎた不正受給にストップをかける動きも出てきた。10月14日、広島県警は組織的に持続化給付金を騙しとったとして20~40代の男5人を詐欺の容疑で逮捕した。
 『給付金詐欺の逮捕者は全国で30人を超えています。しかし、これらは集団でおこなわれた本格的な詐欺。個人レベルの不正受給までは、警察も手が回らず、野放しです』(全国紙社会部記者)
 ……
 保険料も払いたくない
 さらにセコい猛者もいる。節約術に関するコラムを執筆するライターが、激安焼き肉店で『コチュジャン単品10円』だけ注文してポイント990円を手に入れる『コチュペロ』なる手法を紹介し、インターネット上の話題をさらったのだ。
 まさに『得するなら何でもいい』という心性。一体、いつから日本人はこんなさもしく、小狡いことを平気でするようになったのだろうか。作家の山本一力が嘆く。
 『鳥貴族の錬金術もようなことを考えるずる賢い人は、昔からいました。しかし、それはごく少数の人のあいだでしか共有されない手口だった。
 しかし、インターネットで誰もが情報発信できるようになって状況は変わりました。どれほど道理にもとる恥知らずな内容であっても簡単に発信できてしまう。
 以前は、情報の発信をするのに、それなりの弁(わきま)えや分別というものが求められました。下手なことを言えば、「お前は黙っていろ」と歯止めをかけられる空気もありました。しかし、現在は違う。人間はパンドラの箱を開けてしまったのです』
 貰えるカネだけではない。コロナの影響で『払わなくていいカネ』も生まれている。都内在住のデザイナー、長谷川靖さん(49歳、仮名)が語る。
 『税理士と相談したら、国民健康保険料の減免が受けられそうだと言われました。収入が3割以上減って、所得が1,000万円以下なら資格があるようで、私に場合も申告する数字を少し「工夫」すれば保険料を払わずに済むというのです。実はさほど収入は減っていないのですが、家族の分も合わせて、年間15万円ほど保険料が浮きました』
 幼い頃には雑草を食べるほどの困窮した生活を味わったが、のちにカレー店チェーンで成功した、CoCo壱番屋創業者の宗次徳二氏はこう語る。
 『世の中が豊かになった故に、汗水流して仕事をしなくても何とかなるものと勘違いしているようです。
 持続化給付金やポイント制度などで楽をして稼ぐことを「そもそも罪ではない」、「なにが悪いの?」と感じる人が増えている。この国の将来に不安を感じてしまいます。人生は自己責任と認識してほしいものです』
 文筆家の平川克美氏は『そんな狡い行為も人間らしく、むしろ涙ぐましい』と語る。
 『昔から、狡い人もいれば高潔な人もいました。ただ、貧すれば鈍するというか、日本という国が貧しくなってきて、自分本位でしか物事を考えられない人が増えてきているように感じます』
 悲しいことだが、小狡い価値観の沁みついてしまった人間に、『タダより高いものはないんだよ』と説教したところで、いまさら聞く耳を持ってはくれまい。6日もすれば忘れているだろう。」
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 昔の日本人は、言行一致で恥を知っていた。
 現代の日本人は、口では真っ当に恥を語るが、行動としては恥を気にしない。
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 戦後教育は、自己犠牲的に国家の為に一丸となって困難を乗り越えるという団結心を解体する為に、我欲による個人の権利追求は美徳とする教育を推し進めた。
 つまり、自分の権利・利益の為なら、他人を押し倒し、他人を踏みつけても構わないという考え方である。
 現代日本人を生み出したのは、戦後教育であり、現代のメディア・報道機関である。
 が、そういう日本人が増えたと言う事は日本人が頭の回転が良くなり賢くなった証拠である。
 知能犯的悪事は、頭脳明晰と決意したら実行するという勇気がなければできないからである。 
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 昔の気風・粋で生きていた江戸っ子や商才・機智で儲けていた上方商人ではできない芸当である。
 昔の日本人は、正しい事の為なら損を承知で行動した。
 損をしない為に正しい事をしない、それが現代日本の傍観者である。
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 日本人の偽らざる素の本性とは、恥を屁とも思わないケチでずる賢さで、美徳など持っていない。
 性善説は江戸時代に強制的に押し付けられたニセの本性で、本当の本性は性悪説である。
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 不正・悪い事と知りながら、他人がやるから自分もやる。
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 ジョン・F・ケネディが就任演説で語った言葉は日本では通用しない。
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 日本国と日本民族日本人は、寿命が尽きようとしている。
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 外国人移民(主に中国人移民)が増え日本民族色が薄まれば、日本は異常なまでに変貌していく。
 その兆候はすでに始まっている。
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 ブラック化した日本では、真面目な者は馬鹿を見る社会になりつつある。
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 現代日本人はシロアリのように、日本国・日本民族の倒壊を気にせず土台から食い荒らしている。
 日本人シロアリが活発に動けるようにメディア・報道機関や人権派が煽り立てる。
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 1,100兆円に国政赤字に、毎年約40兆円の赤字が膨らむ日本、そして少子高齢化で人口激減する日本、人生100年時代で若者(納税者)少なく老人(受給者)が多い日本で、経済が衰退する日本で、働き場の少ない(生産の空洞化の)日本で、日本国民全員、日本企業全てに、希望する金の100%を無条件で支給して助けるだけの国力は日本にはない。
 つまり、公助は見せ掛けに近い。
 もしあるとすれば、再建不能な企業が全ての資産を売却して解雇する社員に僅かな退職金を支給し、企業を倒産させ、国内外の他の企業・資本に売って消滅させる方法である。
 が、親会社の温情を得て運がよければ、社員が全員入れ替わっても昔の企業名(日本国名)が残る可能性はある。
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 若者は、給料の安い非正規雇用契約社員で抜け出せない貧困化が進む。
 ブラック度を強める日本で生きていく為には、日本人も善人を捨てブラック化しヤクザのように悪知恵を絞るし上手い汁を吸うしかない。
 日本は完全無欠ではなくザルのような構造をしていて、上手くやれば法の目を誤魔化して金を稼げるようになっている。
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 武漢コロナ対策として全国民に1万円を給付は、借金だけを増やした愚かな政策で、如何にも今の政治家の知恵なきかを証明している。
 同時に、スムーズに給付金を国民に支給した国に比べて、日本が先進国とは思えない程に混乱し支給が遅れて慌てふためき醜態をさらした。
 それは、発展途上国並みであった。
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 現代の日本人は、国に膨大な借金を押し付けても金が欲しい、子孫に返済不能な借金を残そうとも金が欲しい、自分の老後が安心できるだけの金が欲しい。
 どうせ、自分が返済しない借金である。
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 日本人で偉かったのは、1946年の敗戦後の何もない焼け野原から復興し、高度経済成長をとげ、1980年代のバブル経済までの戦前・戦中派と一部の団塊の世代である。
 それ以外の団塊の世代と今日に至る日本人の多くが偉かったわけではない、事実、日本を駄目にしたのはその世代であり、日本を立て直さなかったのもその世代である。
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🌁3〉─1─経団連とメディアがばらまく職務(ジョブ)型雇用のウソ。~No.6No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年11月5日 産経iRONNA「関連テーマ メディアがばらまく「ジョブ型雇用」のウソ
 職務を明確化した「ジョブ型」の雇用制度に熱い視線が注がれている。新型コロナで鈍化する経済の起爆剤になると期待されているが、耳慣れない制度だけに労働者の権利が守られるかを懸念する声は多い。一部のマスコミが報じる不正確な「ジョブ型雇用」像を労働問題の第一人者がぶった切る。(写真はゲッティイメージズ
 成果主義?解雇されやすい?思い込みが煽る「ジョブ型雇用」不安
 『濱口桂一郎』 2020/11/05
 濱口桂一郎労働政策研究・研修機構研究所長)
 経団連は今年1月に公表した『2020年版経営労働政策特別委員会報告』で、職務(ジョブ)を明確にした雇用制度「ジョブ型雇用」を打ち出した。新型コロナウイルス禍でテレワークが急増し、テレワークがうまくいかないのは日本的な「メンバーシップ型」のせいだ、今こそジョブ型に転換すべきだという声がマスコミやネットでわき上がっている。
 日本型雇用システムの特徴を、欧米やアジア諸国のジョブ型と対比させて「メンバーシップ型」と名付けたのは私自身であるが、昨今のジョブ型という言葉の氾濫には眉をひそめざるを得ない。
 というのも、最近マスコミにあふれるジョブ型論のほとんどは一知半解で、言葉を振り回しているだけだからだ。ここでは、その中でも特に目に余る2つのタイプを批判しておきたい。
 1つ目は特に日経新聞の記事で繰り返し語られる、労働時間ではなく成果で評価するのがジョブ型だという議論だ。あまりにも頻繁に紙面でお目にかかるため、そう思い込んでいる人が実に多いのだが、これは9割方ウソである。
 ジョブ型であれメンバーシップ型であれ、ハイエンドの仕事になれるほど仕事ぶりを評価されるし、ミドルから下の方になるほど評価されなくなる。それは共通だが、そのレベルが違う。
 多くの人の理解とは逆に、ジョブ型社会では一部の労働者を除けば仕事ぶりを評価されないのに対し、メンバーシップ型では末端のヒラ社員に至るまで評価の対象となる。そこが最大の違いである。
 ジョブ型とはどういうことかを基礎まで戻って考えれば当たり前の話だ。ジョブ型とは、最初にジョブがあり、そこにジョブを遂行できる人材をはめ込む。人材の評価は事前に行われるのであって、後は担当のジョブをきちんと遂行できているかだけを確認すればよい。
 多くのジョブは、その遂行の度合いを細かく評価するようにはなっていない。仕事内容などを明記した職務記述書(ジョブディスクリプション)に書かれた任務を遂行できたかどうかが焦点であり、できていれば定められた価格(賃金)を払うだけである。これがジョブ型の大原則であって、そもそも普通のジョブに成果主義などは馴染まない。
 例外的に、経営層に近いハイエンドのジョブになればジョブディスクリプションが広範かつ曖昧であって、仕事ができているか否かの判断がしにくく、成果を細かく評価されるようになる。これが多くのマスコミや評論が想定する成果主義であろうが、それをもってジョブ型の典型とみなすことはできない。米国の大学がすべてハーバード大並みの教育をしていると思い込むこと以上に現実離れしている。
 これに対し、日本のメンバーシップ型においては、欧米の同レベルの労働者が評価対象ではないのと正反対に、末端のヒラ社員に至るまで事細かな評価の対象になる。ただし、そもそもジョブ型ではないので、入社時も入社後もジョブのスキルで評価されるわけではない。
 では、彼らは何を基準に評価されているのかというと、日本の会社に生きる社員諸氏は重々承知のように、日本的な意味における「能力」を評価され、「意欲」を評価されているのである。
 人事労務用語で言えば能力考課であり、情意考課である。このうち「能力」という言葉は要注意であって、いかなる意味でも具体的なジョブのスキルという意味ではない。社内で「あいつはできる」というときの「できる」であり、潜在能力、人間力等々を意味する。
 情意考課の対象である「意欲」は、要は「やる気」であるが、往々にして深夜まで居残って熱心に仕事をしている姿がその徴表として評価されがちである。また、業績考課という項目もあるが、集団で仕事を遂行する日本的な職場では一人一人の業績を区分けすることも難しい。つまり、成果主義は困難である。
 このように、ハイエンドではない多くの労働者層を見れば、ジョブ型よりもメンバーシップ型の方が圧倒的に人を評価しているのだが、その評価の中身が「能力」や「意欲」に偏り、「成果」による評価が乏しいということである。
 問題は、この中くらいから末端に至るレベルの労働者向けの評価スタイルが、それよりも上位に位置する人々、経営者に近い側の人々に対しても適用されてしまいがちだということであろう。
 ジョブ型社会でのカウンターパートに当たる米国などの労働者「エグゼンプト」は、ジョブディスクリプションに書かれていることさえちゃんとやっていれば安泰な一般労働者とは大きく事情が異なり、成果を厳しく評価されている。日本の管理職はぬるま湯に安住しているという批判はここからくる。
 そしてその際、情意考課で安易に用いられがちな「意欲」の徴表としての長時間労働がやり玉に挙がり、労働時間ではなく成果で評価するのがジョブ型だという、日経新聞でお目にかかる千編一律のスローガンが生み出されるというわけだ。
 ハイエンドの人々は厳しく成果で評価されるべきであろう。その意味で「9割方ウソ」の残り1割は本当だと認められる。しかし、そういう人はジョブ型社会でも一握りにすぎない。
 ジョブ型社会の典型的な労働者像はそれとはまったく異なる。もし、ジョブ型社会では皆、少なくともメンバーシップ社会で「能力」や「意欲」を評価されている末端のヒラ社員と同じレベルの労働者までが成果主義で厳しく査定されるというのであれば、それは明らかな誤解であると言わなければならない。
 ジョブ型とメンバーシップ型の違いは、そんなところには全くない。「始めにジョブありき」が最初であり最後、ジョブ型のすべてである。ジョブディスクリプションに具体的内容が明示されたジョブが存在し、それぞれに、ほぼ固定された価格が付けられている。その上で人材を募集し、スキルを有する人間が応募する。ジョブインタビュー(面接)を通じて現場管理者が応募者を採用すれば、実際に就労してジョブを遂行できるかどうか確認し、賃金が支払われる。多く場合、ジョブ型とはこれに尽きるのである。
 もう一点、ジョブ型になれば解雇されやすくなるという趣旨の議論が推進派、反対派の双方で見られる。以前、出席した政府の規制改革会議でも、そのような質問を受けた。最近では東京新聞に解雇しやすいとジョブ型の導入に警鐘を鳴らす記事が掲載された。
 東京新聞(電子版)9月28日付の記事のイラストでは、日本型雇用の欄には「解雇規制あり」と書かれ、裁判官が「解雇ダメ」と宣告している一方、ジョブ型雇用の欄には「職務がなくなれば解雇」「能力不足でも解雇」と書かれていた。ジョブ型の推進派も反対派も同じようなメッセージを発しているだけに、そう思い込んでいる向きも多いのだが、これも8割方ウソである。
 「始めにジョブありき」のジョブ型は、日本を除く多くの国々で行われている。そのうち、ほとんどすべての国で解雇規制がある。どんな理由でも、あるいは理由なんかなくても解雇が自由とされているのは米国くらいである。
 確かに米国という国の存在感は大きい。だからといって、ジョブ型を取り入れている他の諸国を無視して「解雇自由」がジョブ型の特徴だなどと主張するのは、嘘偽りも甚だしい。米国以外のジョブ型の諸国と日本は、解雇規制があるという点で共通している。
 解雇規制とは解雇禁止ではない。正当な理由のない解雇がダメなのであって、裏返して言えば、正当な理由のある解雇は問題なく有効なのである。その点でも共通である。
 ただ、もしそれだけであれば、8割方ウソでは済まない。99%ウソと言うべきところだろう。実は、解雇については、法律で解雇をどの程度規制しているのかということだけではなく、雇用システムの在り方が大きな影響を及ぼしている。ある側面に着目すれば確かに、ジョブ型ではより容易な解雇がメンバーシップ型ではより困難になるという傾向はあるのだ。
 これは単純化すると大間違いをしかねない点であり、腑分けして議論をしていかねばならない。この腑分けを怠った議論が世間に氾濫しているのが現状だ。
 話が混乱したときは基礎の基礎に立ち返るのが一番である。繰り返しになるが、ジョブ型とは始めにジョブありきで、そこに人をはめ込むものだ。従って、労使いずれの側も、一方的に雇用契約の中身を書き換えることはできない。つまり、従事すべきジョブを変えることはできない。定期的な人事異動が当たり前で、仕事とは会社の命令でいくらでも変わるものだと心得ている日本人が理解していないのが、この点である。
 例えば、借家契約が家屋という具体的な物件についての賃貸借契約であって、「大家といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然」という人間関係を設定する契約ではないように、雇用契約もジョブという客観的に存在する「物件」についての「労働力貸借契約」なのである。具体的なジョブを離れた会社と労働者の人間関係を設定する契約ではないのだ。
 大家が借家を廃止して、その土地を再開発してマンションを建てると言われれば、少なくともその借家契約は終わるのが当たり前である。同様に、会社が事業を再編成して、ジョブを廃止するとなれば、その雇用契約は終わることになる。
 大家には、別の借家に住まわせる義務があるわけではなく、店子の方もそれを要求する権利を持たない。同じように、廃止されるジョブに従事していた人を別のジョブにはめ込む義務が会社にあるわけではないし、労働者もそれを要求する権利を持たない。もちろん、借家の場合でも新しい借家を探す間は元の家に住まわせろとか、その間の家賃は免除しろとか、さまざまな配慮は必要だが、原理原則からすればそういうことである。
 これが正確な意味でのリストラ(再構築)だ。解雇を規制している圧倒的大部分のジョブ型社会において、最も正当な理由のある解雇とみなされるのが、この種の解雇である。日本人にとって理解しがたいのは、日本では最も許しがたい解雇であり、極悪非道の極致とさえ思われているリストラが、最も正当な理由のある解雇であるという点であろう。ここが、ジョブ型の本質を理解できるかどうかの分かれ目である。
 日本ではリストラという言葉が、会社にとって使えない社員をいかに追い出すかという意味で使われる傾向がある。というよりも、雇用契約で職務が限定されていないメンバーシップ型社員にとっては、会社の中に何らかの仕事があれば、そこに配置転換される可能性を有しているのに、それを無視して解雇しようというのは許しがたい悪行だとなるのは必然的な論理的帰結である。言い換えれば、会社が縮小して、労働者の排除が不可避的という状況にならない限り、リストラが正当化されるのは難しいということになる。
 正当な理由のある解雇は良い、正当な理由のない解雇はダメ、というまったく同じ規範の下にありながら、ジョブ型社会とメンバーシップ型社会がリストラに対して対極的な姿を示すのは、こういうメカニズムによるものであって、それを解雇規制の有無で論じるのはまったくミスリーディングということになる。
 もう少し複雑で、慎重な手つきで分析する必要があるのが「能力不足でも解雇」という問題だ。雇用契約でジョブが固定されている以上、そのジョブのスキルが求められる水準に達していなければ、解雇の正当な理由になることは間違いない。
 ここでも基礎の基礎に立ち返って、ジョブ型の採用・就労を弁(わきまえ)えた上で議論をしないといけない。多くの人々は、ジョブ型社会ではあり得ないメンバーシップ型社会の常識を無意識裏に混入させて、能力不足を理由に解雇し放題であるかのように思い込んでいる。
 まずは、上司や先輩がビシビシ鍛えていくことを前提に、スキルのない若者を新卒で一括採用する日本の常識を捨てなければならない。メンバーシップ型社会における「能力不足」とは、いかなる意味でも特定のジョブのスキルが足りないという意味ではない。上司や先輩が鍛えても能力が上がらない、あるいはやる気がないといった、まさに能力考課、情意考課で低く評価されるような意味での、極めて特殊な、日本以外では到底通じないような「能力不足」である。
 そういう「能力不足」に対しては、日本の裁判所は、丁寧に教育訓練を施し、能力を開花させ、発揮できるようにしろと要求している。しかしそれは、メンバーシップ型自体の中にすでに含まれている規範なのだ。それゆえに、正当な理由のない解雇はダメという普遍的な規範が、メンバーシップ型の下でそのように解釈されざるを得ないのである。
 ジョブ型社会においては、ジョブという枠に、ジョブを遂行する能力がある人間をはめ込むのだから、「能力不足」か否かが問題になるのは採用後の一定期間に限られる。ジョブインタビューでは「できます」と言っていたのに、実際に採用して仕事をさせてみたら全然できないじゃないか、というような場合だ。
 そういうとき、さっさと解雇できるようにするために試用期間という制度がある。逆に、試用期間を超えて長年そのジョブをやらせ、5年も10年もたってから「能力不足」だ、などと言いがかりを付けても認められる可能性はほとんどないと考えられる。
 こういう話をすると「いやいや、5年も10年も経てば、もっと上の難しい仕事をしているはずだから、その仕事に『能力不足』ということはありうるんじゃないか」と言う人もいるだろう。そのこと自体が、メンバーシップ型の常識にどっぷり浸かって、ジョブ型を理解していないということである。
 5年後、10年後に、採用されたジョブとは別のジョブに就いているとしたら、それは社内外の人材を求めるジョブの公募に応募して採用されたからである。ジョブ型社会においては、社外から社内のジョブに採用されるのも、社内から社内の別のジョブに採用されるのも、本質的には同じことだ。今までのジョブをこなせていた人が、新たなジョブでは「能力不足」と判断されることは十分あり得る。その場合、解雇の正当性があるとはいえ、低いジョブに戻ってもらうのが一般的だろう。
 ジョブ単位で考えれば一種の「解雇プラス再雇用」と言えなくもない。ジョブごとに価格が設定されているのだから、日本流にいえば降格賃下げということになるが、それが不当だなどという発想は出るはずもない。
 以上が、解雇規制という規範は同じだが、雇用システムの違いによって解雇しやすさ、されやすさに差が出てくるという話だ。それでも、メンバーシップ型との比較において、ジョブ型の方が解雇されやすくなるというのは正しいのではないか、という意見が出てくるかもしれない。それは半分正しいが、残りの半分は正しくない。
 なぜなら、日本のメンバーシップ型社会では、ジョブ型社会におけるジョブと同じくらい重要な地位をメンバーシップが占めており、会社の一員としての忠誠心を揺るがすような行為に対しては、ジョブ型社会では信じられないくらい厳格な判断が下されるのである。
 解雇規制のあるジョブ型社会の人々に、日本の解雇に関する判例を説明すれば、「リストラ」に対する異常なまでの厳格さと並んで、企業への忠誠心に疑問を抱かせる行為をした労働者に対する懲戒解雇への極めて寛容な態度に驚くだろう。
 何しろ日本の最高裁は、残業命令を拒否し始末書の提出も拒んだ労働者の懲戒解雇も、高齢の母と保育士の妻と2歳児を抱えた男性労働者に神戸から名古屋への遠距離配転を命じ、拒否したことを理由とする懲戒解雇も、有効と認めている。日本とヨーロッパ諸国のどちらが解雇規制が厳しいか緩いかは、そう単純に答えが出る話ではないのである。
 最後に、最近の浮ついたジョブ型論が共通に示している、ある傾向を指摘しておきたい。それは、ジョブ型とメンバーシップ型は現実に存在する雇用システムを分類する学術的概念であり、良し悪しの価値判断とは独立しているにもかかわらず、あたかも「これからのあるべき姿」を売り込むための商売ネタとでも心得ているかのような態度である。
 日本人は「これが新しいんだ」と言われると、称賛されているように受け取る傾向が強いが、そういう意味で言えばジョブ型は全然新しくない。むしろ産業革命以来、先進産業社会における企業組織の基本構造は一貫してジョブ型であったので、戦後日本で拡大したメンバーシップ型の方がずっと新しい。
 1970年代後半から90年代前半までの約20年間、日本独特のメンバーシップ型の雇用システムが、日本経済の競争力の源泉だとして持て囃された。ほんの四半世紀前のことである。21世紀になり、日本経済の競争力がつるべ落としのように落ちていく中で、かつて日本型システムを礼賛していた多くの評論家諸氏が手のひらを返したかのごとく、日本型システムを批判し始めたのも、ついこの間のことである。
 今からちょうど35年前の1985年、日本型システムへの礼賛の声が世界中に広がっていた頃、雇用職業総合研究所がマイクロエレクトロニクス(微細電子工学、ME)と労働に関する国際シンポジウムを開催した。その場で当時、同研究所の所長であった氏原正治郎はこう述べた。
 「一般に技術と人間労働の組み合わせについては大別して2つの考え方があり、1つは職務をリジッドに細分化し、それぞれの専門の労働者を割り当てる考え方であり、今一つは幅広い教育訓練、配置転換、応援などのOJTによって、できる限り多くの職務を遂行しうる労働者を養成し、実際の職務範囲を拡大していく考え方である。ME化の下では、後者の選択の方が必要であると同時に望ましい」
 テクノロジーと労働について述べた第1センテンスは、今日でも一言一句そのまま用いることができる、雇用システムについての的確な描写である。ところが、情報通信技術(IT)や人工知能(AI)が産業に影響を及ぼすようになった今、第2センテンスついては逆の議論が圧倒的になっている。いわく「IT化の下では、あるいはAI化の下では、前者の選択の方が必要であると同時に望ましい」と。
 MEも、ITも、AIも発展段階が進んでいるだけで、先端技術を産業に応用するという意味では変わらない。それが35年前と今日とで、きれいに正反対の議論の根拠として使われることに皮肉を感じないとすれば、その鈍感さは度しがたいものがある。」
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