🌄8〉─1─グローバル化で、ローカルな多様性を持った日本文化は崩壊し、自然豊かな日本景観は破壊される。~No.29No.30No.31 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 耐えて我慢する事を止め始めた短気な日本人が増え始めた。
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 保守系政治家・官僚・企業家は、無意味と無見識で無計画な土木建築に公金を垂れ流して金儲けをし、財政赤字を悪化させ、自分のみの富を増やす事しか興味が無く、自分のみの幸せな生涯しか考えず、自分の欲得の為に子孫が苦しもうが死のうが一向に気にせず、喜々として日本の文化と自然を崩壊しつつある。
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 昔の日本経済は、里山がある田舎の地元に活気があった。
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 昔の日本人は、逃げ出せない自然災害多発地帯という過酷な島国で生きる定めと諦め、100年後、200年後の子々孫々為に、助け合いの和の精神で、山野の自然を守って来た。
 神道における自然崇拝・アニミズムとは、自分一人の幸せや豊かさの為ではなく、生まれてはいない子孫の為に今ある自然をそのままの姿で残そうとする自然保護であった。
 自然保護が行き過ぎ例としては、自然保護の掟を設けて、禁令を破れば殺すと定めた。
 ムラ共同管理の山野や神社の御神域である山林での許可なき伐採や薪拾いや食糧確保を行った者は、神々しい緑を荒し神聖な水を穢した者として村八分するかムラから追放した。
 自然を人の命より上に置き、生活が息苦しいほどに窮屈になろうとも自然保護に努めた。
 自分を犠牲にしてまでも自然を守り受け継ぐかという取り組みから、日本文明が生まれた。
 如何に自分の生活を楽しみ豊かにしながら自然と付き合いかという日常から、日本文化を編み出した。
 日本文明・日本文化・日本精神の中心にあるのは、自然であった。
 日本民族は、幾世代も、自然と相互補完共生で生きる道を模索してきた。
 日本の心とは、「自然」である。
 人と自然の共同作業を象徴が、人が手を加えて守ってきた里山である。
 日本の神社は、鎮守の杜の緑に囲まれ湧き水を神の池に導いて蓄えている。
 伊勢神宮でも、明治神宮でも、靖国神社でも、「緑と水と光」が変わる事のないありのままの姿を留めている。
 そうした自然を留める原風景は、東アジアでは日本だけで、儒教社会である中国や韓国・北朝鮮にはない。
 だが、金儲けの為に、豊かな里山は崩壊し、外国人に売り出されている。
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 日本のアニミズムとは、自然・郷土と生き物・人間が一心同体として不可分にあると理屈ぽい屁理屈の事で、奇跡や救済をもたらす不可思議な神秘的精霊信仰ではない。
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 現代日本には、見せ掛けの心なき空々しい自然保護という標語が溢れているが、民族として受け継いできた本当の心のこもった自然保護はない。
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 日本の文化とは、江戸時代の百姓・町人文化である。
 日本の文化は、江戸時代に完成した。
 耐えて我慢する事が、日本の美徳となった。
 江戸町人文化における服装文化は、浮世絵に描かれた歌舞伎役者や花魁の影響を受けていた。
 上方は、文化町・京の雅と商い町・大坂の影響で垢抜けた豪華さが流行った。
 関東は、政治町・江戸の粋で質素・簡素が流行った。
 日本文化は、上方の豪華な「雅」、関東の質素な「粋」、そして地方の地味な「野暮」が織りなして多種多彩であった。
 「雅・粋・野暮」が複雑に絡み丁度よい具合に保たれている時に、ケバケバしない燻し銀の様な嫌みの少ない穏やかな淡い中間色的光沢を放った。
 大名やお大尽といわれる豪商や豪農は、匠・名人と言われる職人の手による「淡泊」な美術品を収集した。
 玄人を自認する趣味人は、深み趣として「風流」を好み、「風情」のある芸術品を買い揃えた。
 総人口の8割以上である百姓町人は、現実主義者として安価な実用品を購入したが、そこに見栄としての面白いわずかな「遊び」を求めた。
 庶民にとって、面白おかしく笑える様な「遊び」が無ければ生きる意欲をなくしてしまう。
 庶民文化は、無骨な武士の文化でも抹香臭い宗教文化でも厳めしい学者文化でもなかった。
 江戸の文化・教養・芸能・芸術は、初期は京や大坂などの上方で生まれて日本全国に発信されていた。
 中期と後期は、江戸が情報発信の中心地となっていた。
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 司馬遼太郎「今すぐ、経済成長はもういらないから、これ以上自然を破壊しないという国民的合意を形成し、大切な国土を守らなければならない。やればできるし、今ならまだ間に合う。やらなければ、我々は子供や孫の世代にお詫びのしようがないじゃないか」
 宮崎駿「(トトロの森のような緑は)それがもう、描けないんです。今の人間達には描けない。毎日見ている緑はもうあの頃の緑と違い色なんですから」
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 欧米の観光客は、欧米風化した便利な日本より、非欧米風の不便なタイに魅力を感じている。
 西洋語が通用するしないではなく、異文化に驚き、好奇心が沸き、面白みがあるか、楽しさがあるか、満足できるかである。
 誰も、旅先で、自分が住んでいる町並みと瓜二つの町並みなど見たくはない。
 日本人の「おもてなし」は自己満足だけで、日本的価値観を共有できる日本人か外国人のみを対象とし、日本価値観を理解できない外国人には冷淡である。
 つまりは、クール・ジャパンは金儲けの手段にすぎず、日本を親しんでもらおうという気持ちは少ない。
 「仏作って魂を入れず」にすぎない。
 金目的のクール・ジャパンは、死んだ日本文化の陳列に過ぎず、惨めに失敗する。
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 槇文彦「我々、都市に関する建築家が次の世代にメッセージを残すとすれば、『東京の持つ穏やかさ』を継続して欲しいという事です。美しいと称賛されるパリも、実にガサガサしています。マンハッタンはいつでも喧噪の中にあります。東京の穏やかさは世界の都市の中では比類のないものです。雑踏でもお互いに距離を調整し合い、深夜も安全に歩く事ができ、自然も基本的に優しい。我々が昭和の時代も維持してきた東京の穏やかさを、次の世代にも、ぜひ継承していただきたいのです」
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 ニューズウィーク日本版 2013年9月3日
 レジス・アルノー「『建築のジェノサイド』に気付かない日本の不幸
 鎌倉を世界文化遺産に登録しないように─ユネスコ(国連教育科学文化機関)の諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)がそう勧告したことを受け、松尾崇・鎌倉市長と黒岩祐治・神奈川県知事は記者会見で無念さをにじませた。
 鎌倉市当局は中世の都市としての『物的証拠が不十分』と指摘されたことを認め、私にこう説明した。人類の遺跡として保護する価値があると世界に認めてほしいのは、鎌倉を取り囲む山々とその麓に点在する寺院や遺跡だ。そこに日本独自のサムライ文化がうと自分たちは考えているが、イコモスにはその意図が十分伝わらず、『武家の古都』とする根拠が不十分だと判断された、と。 
 ……そもそも県の誇る珠玉・鎌倉がじわじわ破壊されていることに気付かなかったとしたら、あまりにも無自覚だ。
 シャネル日本法人の社長で作家でもあるリシャール・コラスは長年鎌倉で暮らし、この古都をこよなく愛しているが、あえてこう苦言を呈する。
 『鎌倉の素晴らしい日本家屋の多くがこの10年ほどで姿を消した。良くてもあと30年で完全に失われるだろう。醜悪な近代的建築物の中に埋もれる大仏とわずかの寺社以外には、日本の古都の面影は消し去られ、鎌倉はディズニーランドのような作り物の観光地になる。だから、ユネスコは鎌倉の世界文化遺産登録にノーを突き付けたのだ』
 悲劇に気付かない政治家たち
 ……
 鎌倉市は地元住民の強い反対にもかかわず、観光客が集まり、商店が軒を並べる由比ヶ浜通りに火葬場を建てることを許可している。
 美しい日本の街並みが急速に失われつつあるのは鎌倉だけではない。京都でもこの30年ほど、『建築のジェノサイド』ともいうべき暴挙が行われてきた。取り壊された町屋はざっと10万軒に上る。おまけに昨年には、憩いの場である梅小路公園の真ん中に水族館が建てられた。サンディアゴにあってもマルセーユにあってもおかしくないような水族館を、よりによってなぜ京都に建てるのか。
 東京はもはや暮らしやすい都市ではなく、『洗練された平壌』を目指しているようだ。まるで行進するように超高層ビルが整然と立ち並ぶ都市である。私が住む新宿区富久町はかっては2階建ての家々が並ぶ、木立もなごませる住宅地だったが、今では55階建てn超高層マンションが完成している。
 こういう建物を建てる会社の経営陣は、高層建築が規制されている田園都市のような高級住宅地に住んでいる。よその地域の暮らしや文化を破壊して、自分たちは優雅に暮らしているわけだ。
 日本は『クールジャパン』と称して、独自の文化を盛んに世界に売り込んでいるが、独自の文化を本気で守る気はなさそうだ。今の政府は自国の伝統に誇りを持つことを旗印に掲げている。安倍晋三首相は『美しい国、日本』をつくると誓った。ならば、歴史的・文化的に価値ある地域を不動産開発から守るべきだが、政府はそうした努力を怠っている。
 このままでは美しい日本は跡形もなく消え去り、日本を訪れる外国人観光客はがっかりするだろう。悲劇としか言いようがない状況だが、日本の政治家はその重大さに気付いていないようだ」
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 2015年1月25日号 サンデー毎日「ナマコのからえばり 椎名誠
 汚い日本
 日本は汚い。先進国といわれる国々のなksで日本がいちばん汚いうおうに思う。
 中心地の都会もそれを囲むターミナル都市も、さらにそれを繋ぐ地方都市もその周辺の田園地帯も日本はどこを見ても汚い。
 たとえば、ぼくは今、渋谷区と中野区の境目あたりに住んでいるが、私鉄の駅にいくまでの道のまわりはどこを見回しても汚い。
 見たかんじ街並みはそんなに荒れていない。たとえばメキシコとかムンバイの裏通りを歩いているときのような気持ちがザワザワしてくるような荒れた汚さはない。道路はきちんと清掃されているし、わけのわからない血痕などもないし、死んだ犬が道端に横たわっているなんてこともまずない。
 それであっても、日本の道筋は視覚的になんだかとても疲れる汚い風景が続いている。見たくもないものがいきなり目に触れてくる〝ありふれた〟汚さ、というようなものがいっぱいあるからだろう。
 ……
 たとえば日本のある地域を歩いていくと、見渡すかぎり、といっていいくらいサラ金関係のポスターが並んでいるところがある。その地域に即座に現金を必要とするなにかの事情があるのだろうけれど、街の一角に一つのサラ金業者のポスターが50枚ぐらい並んでいたりする。
 ……
 こんな風景は世界にひとつ、日本だけしかない。
 日本だけ、という現象でいえば『野立て看板』の異様な多さもそうだ。道端や線路端に林立する看板。
 ……
 本来わたしたちは、自然な風景を美しいものとしれ享受する権利があるはずだ。でも、それはまったく守られていない。自然そのままの風景なんぞこの国に住む人々は誰も求めてやしないんだよ、といわんばかりに、日本の原野の風景は『金儲け』のための造形物によって陵辱され続けている。
 ある山野をクルマで行ったときに、いつのまにか自然そのままの恐ろしいくらいの山野の道路に入っていた。そこにひときわ目立つ看板があった。なんて書いてあったと思いますか。
 『自然がいっぱい!』
 と、大書きされていたのだ。
 そのときぼくはこの国は、国全部がバーチャルなのではないかと思った。
 ……
 日本人がそうであるように、もともと汚い環境下に生まれ、育っていたら、汚い風景、あるいは『異様な風景』に殆ど反応しなくなっていることがとても気になる。
 どんどん進んでいくこうした感覚不感症は、このままでいくと、見えないものを見る努力やその〝ちから〟が無くなっていく危惧に繋がっていくような気がする。
 今いちばん怖いのは『美しい日本』とかなんとかいっている政治家などにたぶらかされて『見えない』遺漏放射能への危機感がどんどん希薄になりつつあることだろう。それが一番危険で汚いものである筈なのに」 
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