¥8〉─1─経済成長優先の「シンガポール化」が日本をダメにする。~No.25No.26No.27 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年7月30日号 サンデー毎日「この国の近未来にある『荒涼』と『仄光』
 安倍政権は目先の経済発展と改憲にがかり執着しているように見えるが、この国がほかに深刻な問題を抱えているのは知られている通り。『少子高齢化と人口減』『地方再生』も喫緊の課題だ。このままだと、この国はどうなるのか?……
 知の巨人 思想家 内田樹
 先日、奈良の山奥の集落で、都市から移住してきた若者たちと話し合う機会だあった。
 都市住民の地方移住は3・11以来途絶えることなく続いているが、メディアはこれを特に重要なことだとは考えていないらしく、ほとんど報道されることがない。総務省国交省農水省も、この動きには特段の関心を示していない。そもそも今のところ、地方移住については公式な統計さえ存在しない。
 2015年末に毎日新聞明治大学の研究室と共同調査を行い、14年度に地方自治体の移住支援策を利用するなどして地方に移住した人が1万1,735人であることを報じた。それによると、09年度から5年間で地方移住者は4倍以上に増えたという。ただし、これは自治体の移住支援を受けた移住者だけの数であり、行政の支援を受けずに移住した人たちがおり、アンケート未回答の自治体もあるので、移住の実態は明らかにされないままである。
 私はメディアと政府のこの無関心にむしろ興味をそそられる。過疎化・高齢化による『地方消滅』という危機的事態の切迫を考えると、若者の地方移住をどうやって支援するかということは国家的な急務だと私には思われるからである。だが、そのような熱意を政府やメディアから感じることはない。なぜか。
 ……
 『まだ時間がある』と思えば、見ず知らずの部外者の助力を求めるまでもなく、自力で何とかしようと考える。『もう時間が残されていない』と感じる人は『藁をもつかみ』、『猫の手』も借りたいと思う。
 閉鎖的な村落共同体の扉が緩んだのは高齢者たちが抱くこの危機感ゆえである。
 だが、このような『チャンス』は長くは続かない。というのは、『脱都市』志向は文明史的な出来事だから、これからも続く者が出てくるだろうが、『限界集落消滅寸前』という事態にはタイムリミットがあるからである。
 このままでは地方が消えていく
 先日、私がある席で隣り合わせた岐阜県の人は、故郷の村はいま200戸あるが、子どもたちが引き続き村に住むと言っているのは2戸だけだと悲しげに語っていた。おそらくあと20年もすれば彼の故郷はほとんど住む人のない村になるだろう。
 まだ集落としての体をなしているうちは移住者の受け入れもできる。だが、ある時点で、受け入れる主体そのものが消えてしまう。だから、地方移住はある意味で時間との競争なのである。このまま高齢化・少子化が進めば、20年後には『地方移住希望者をぜひ受け入れたい』と切望する集落そのものがなくなってしまう。諸君は『村落共同体の扉が一時的に開き、たぶん永遠に閉じる前の、ごく限られた時間帯』に地方移住を果たしたのである。そういう話をした。
 気を付けなければいけないのは、地方の人口はなだらかな曲線を描いて減るのではなく、ある時点で一気に垂直に下降してゼロに近づくということである。先にあげた『200戸の集落が2戸になる』ケースを考えてみればわかる。
 2戸だけしか住人がいない集落にはもうバスも通らないし、学校もないし、病院もないし、警察もないし、消防署もない。住みたければ住んでもいい。『そういう生き方』を自己責任で続けたいという人を止めることはできない。だが、同じ地方自治体の他の地域の住民と同じクオリティーの住民サービスを行政に期待してはならない。住民が2戸だけの集落にバスを通したり、ライフラインを維持したりするコストを税金で分担することを、他の地域の住民は拒否するだろう。
 だが、家族の中に子どもがいる場合は学校が近くになければ困る。介護看護を要するものがいる場合には病院が近くになければ困る。だから、人口減によって行政サービスが劣化した地域の人々は、生業を捨てて、『地方都市』へ移住することを余儀なくされる。
 『コンパクトシティ(集約都市)』構想という国交省のプランは、この『里山から地方都市へ』という人口移動を利用しようとするものだと私は考えている。たしかに、里山の住人たちを地方都市に呼び集めれば、一時的に地方都市は人口を回復し、消費活動も活発になるだろう。
 だが、それも一時的なものに終わる。そもそも里山の人口減は高齢化によるものである。高齢者を地方都市へ集めれば、地方都市が高齢化するだけの話である。
 彼らは年金や貯金の取り崩しによって、しばらくの間はいくばくかの消費活動を行い、介護など高齢者対象の雇用を創出するだろう。だが、里山で営んでいた生業を維持することはもうできないし、新たに起業することも期待できない。
 『経済成長』一点張りの行方
 そして、何年か経(た)って、消費活動に特化したこの高齢者層が『退場』したあと、『コンパクトシティ』はかつての里山と同じステータスになる。住民たちは『採算が取れない』という理由で、それまで享受していた交通や通信や上下水道や医療や教育や防災や治安のサービスを打ち切られる。『採算が合わない行政サービスは廃止すべきだ』というロジックをかつて一度受け入れた以上、二度も三度も、受け入れ続けるしかない。
 かつて里山からコンパクトシティへ移住したように、今度は次の『もう少し大きい地方都市』への移住が促される。いずれそこも人口減になる。今度は『首都圏』への移住が促されるだろう。そして、最終的に首都圏に列島の人口の大部分が集まり、その外には『無住の荒野』が広がる。
 『採算が合う合わない』ということを唯一の物差しにして、公共サービスの打ち切り・縮小を続けていけば、100年後の日本は『そういう光景』になる。100年後の日本の人口は約5,000万人。今から7,000万人ほど減って、日露戦争の頃の人口にまで縮減するのである。
 その5,000万人が明治時代の日本のように列島各地に広く分布し、その頃のような穏やかな風景を取り戻すことになるのか、あるいは今私が描いたようなディストピアユートピアとは対極の社会。暗黒郷、地獄郷)的風景になるのか、それはまだわからない。だが、経産省国交省が描いている未来社会は『ディストピア』の方である。
 前代未聞の人口減局面に立ち至って、まだ『経済成長』というようなことを言っている人たちなのだから、これからも『選択と集中』を呪文のように唱え続けるだろう。五輪や万博を招致し、カジノやアミューズメントパークを作り、リニア新幹線のような不要不急の土木工事に巨額の国富を投じ、『一発大当たりしたセクターからのトリクルダウン』を約束して、国民には増税や低賃金や私権の制限を求める。
 私は個人的にこれらの政策を『日本のシンガポール化』と呼んでいるが、政官財が日本の『明日の姿』として合意しているのはその方向と断じて間違いない。
 シンガポールはご存じの通り、国是が『経済成長』であり、すべての社会制度は経済成長に資するか否かを基準に適否が決定される。だから、建国以来事実上の一党独裁であり、治安維持法によって令状なしで逮捕拘禁ができ、反政府的メディアも反政府的な労働運動も市民運動学生運動も存在しない『世界で一番ビジネスがしやすい国』である。
 然(しか)るべき筋に通じて、権力者によって『身内』認定されれば、面倒な手続きも審査も『岩盤規制』もなしに利益の多いビジネスを始められる環境のことをもし『ビジネスがしやすい国』と呼ぶのだとすると、本邦における森友学園・加計(かけ)学園のプレイヤーたちがどういう社会体制を理想としているかはおのずと知れる。
 地方移住は〝未来の解〟の一つ
 地方移住する若者たちになぜメディアも行政も関心を示さないのか、なぜ里山をもう一度豊かな故郷に蘇生させようとする彼らの願いに対して国を挙げての支援対策を整えようとしないのか、その理由は以上の説明でだいたいご理解頂けただろうと思う。
 地方移住者たちは直感的にそういう生き方を選んだ。それは経済成長が止まった社会において、なお『選択と集中』という投機的な経済活動にある限り国富を投じようとする人たちに対抗して、まだ豊かに残っている日本の国民資源、温帯モンスーンの豊饒(ほうじょう)な自然、美しい山河、農林水産の伝統文化、地域に根付いた芸能や祭祀を守ろうとする人たちが選んだ生き方である。
 先月号の『フォリーン・アフェアーズ・リポート』では、モルガン・スタンレーのチーフ・グローバルストラジストという肩書きのエコノミストが、経済成長は終わったという『経済の新しい現実を認識している指導者はほとんどいない』ことを嘆いていた。経済目標を下方修正しなければならないにもかかわらず、政治家たちは相変わらず『非現実的な経済成長を目標に設定し続け』ている。
 中でも質(たち)の悪い指導者たちは『人々の関心を経済問題から引き離そうと、外国人をスケープゴートにしたり、軍事的冒険主義に打って出たりすることでナショナリズムを煽っている』(『フォリーン・アフェアーズ・リポート』2017年 第6号、フォリーン・アフェアーズ・ジャパン、21〜22ページ)
 まるで日本のことを書かれているような気がしたが、世界中どこでも政治指導者たちの知性の不調は似たり寄ったりのようである。
 だが、このエコノミストのような認識が遠からず『世界の常識』になるだろうと私は思っている。今求められているのは、この後にはじまる『定常経済』(人口規模や資本が定常状態になる経済。経済活動が繰り広げられるものの、その規模は拡大しない)において世界基準となりうるような『オルタナティヴ(代案、新しい形)』を提示することである。若者たちの地方移住はその『オルタナティヴ』のひとつの実践である。
 海外メディアがこの動きを『超高齢化・超少子化日本の見出した一つの解』と報道する日が来るのはそれほど遠いことではないと私は思っている」
   ・   ・   ・   
 日本の衰退を止める唯一の手段は人口増加であり、それ以外の対策は一時しのぎず、一時は成功するが無駄に終わる。
 問題は、国内消費の回復である。
 今後しばらくは、預貯金のある高齢者消費者による消費で国内消費は維持で日本経済の崩壊は食い止められるが、余裕のある高齢者が死亡し蓄えのない中高年者や貧困化した若者が急増したとき日本経済は破綻する。
 少子化として増える日本人は、個人資産を持たない貧乏人である。
   ・   ・   ・   
 生産年齢人口が好ましい消費者とは限らない。
 人口激減期の生産年齢人口は、人口爆発期のような浪費を厭わない無節操な消費活動に暴走する事はありえない。
 無駄なモノを買わず痩せ我慢をする賢い消費者が生産人口を増やしても、内需を拡大させるどころか逆に縮小させるだけである。
 生産年齢人口が消費人口と必ずしも一致しない。
   ・   ・   ・   
 外国人移住者(移民・難民)を増やしても、日本人と同じ消費活動をするとは限らず、むしろ国内消費に役に立たず、消費拡大に貢献はしない。
   ・   ・   ・   
 日本の国内消費を維持・発展させるには、日本的な消費を行う日本民族日本人を増やすしかない。
 最善の方策が、子どもが産める日本民族日本人の子供たちを多産化させる事である。
 日本民族国家日本を救いたいのなら、子供達に3人といわず5人でも6人でも子どもを産んで貰う事である。
 それが嫌なら、このまま日本民族日本人を静かに死滅させる事である。
 現代日本の発展・繁栄を支えたのは、昔の人が多産化して子どもを産んで人口爆発を起こしたからである。
   ・   ・   ・   
 人口爆発が、途方も無い規模の内需を生み出した。
 それが、1868年の明治元年時総人口約3,000万人から1980年後半のバブル経済時総人口約1億3,000万人の現実である。
 日本の近代とは、約120年間で1億人という若く向上心のある貪欲な労働者と若く豊かさを求める強欲な消費者が出現した時代である。
 若者が多く年寄りの少ない、活力の漲った生き生きとした日本であった。
 今後は、そんな日本は二度と訪れない。
 何故なら、夢も希望も失せた「死」の老人が多く、夢も希望も持った「生」の若者が少ない少子高齢化社会になるからである。
   ・   ・   ・   
 人口爆発によって、日本は食糧・資源・エネルギーを輸入しないと生存できない脆弱な国となった。
 人口爆発期では外貨を稼いで食糧・資源・エネルギーを好きなだけ購入できたが、人口激減期では外貨は稼げず希望する食糧・資源・エネルギーが手に入らない可能性がある。
   ・   ・   ・   
 マルクス主義共産主義的政策は、人口爆発期では役に立たつが、人口激減期では無意味である以上に有害なだけである。
   ・   ・   ・   
 人口爆発期モデルと人口激減期モデルは正反対である。
 人口爆発期モデルは、よほどの馬鹿でなければ誰でも思いつく。
 しかし、人口激減期モデルはずば抜けた知能・知性を持つていても誰も思いつかない。
 何故なら、人口爆発期は先が容易く想像できるが、人口激減期は先が一切想像できないからである。
   ・   ・   ・   
 日本国家日本人の人口を維持するには、最悪、日本民族を捨て、民族国家の看板を下ろす事である。
   ・   ・   ・   
 人に寿命があるように、国家にも民族にも寿命がある。
 古代から今日に至るまで続いてる国家も民族も存在しない。
 今、日本民族も、人口激減という形で寿命が尽きようとしているのかもしれない。
   ・   ・   ・   
 国際の知的エリートの間では、人口激減期を迎えている日本を救うには大量の外国人移民しかないというのが常識となっている。
 外国人移民を受け入れる、のが世界常識である。


   ・   ・   ・   
[asin:B073RY8563:detail]