🌅17〉18〉─1─無宗教墓無用論。日本の伝統では、大多数の日本人は墓を持っていなかった。~No.76No.77No.78No.79No.80No.81 

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 2019年2月14日 msnニュース ハーバービジネスオンライン「 次の時代の価値観は「墓は要らない」「墓には入りたくない」
 俺は若い頃から、個人の考えとして「墓は要らない」「墓には入りたくない」という考えを持っていた。墓に入ること自体にも興味がないが、何よりも墓があることで次の世代に墓参りや管理をしてもらわねばならないことが嫌だからだ。それなりの労力と維持費がかかるのだから、次の世代のカネと時間を浪費したくない、というわけだ。
 親にも若い頃からそう伝えている。「お前は非常識なことを……そういうものなんだから」といつも返されていた。がしかし、最近は認めているようだ。実際に墓を持たない人も増えてきたからだろう。
 ◆伝統的・当たり前と思われているものを疑え
 伝統的とか当たり前とか思われているものについて「本当にそうなのか?」と考えることがよくある。俺の場合、その判断基準を明治初期以前の時代と照らしてみる。大量流通・大量生産・大量消費の社会になる前と比べて考えるのだ。
 例えば、正月に誰もが年賀状をたくさんやりとりする。これは本当に“伝統的”で“当たり前”のことなのか?
 7世紀頃から年賀状らしきものが生まれているが、それは宮中や権力者や富裕層が中心だった。しかもそれは返信が半年後といった例もあるようで、のんびりしたものだったようだ。
 庶民に手紙が普及したのは江戸の飛脚制度から。それでも正月に届くように、何十枚も何百枚も書いて送っていたわけではない。手作りの和紙がそんなに大量生産できるわけないし、生身の人間が走って日本の隅々まで手紙を届けていたということを考えれば、大量に出すのは無理だったことが容易に想像できる。
 庶民に年賀状が定着するのは明治20年過ぎだ。ということは、古い伝統でもなんでもない。年賀状には、コスト、手間、意味合い、その時期だけ輸送量が急増して配達員が必要になるなど、経済合理性も環境合理性もない。しかも、プリンターで印刷した年賀状には、俺はセンスも意味も見いだせない。だから年賀状を書かなくなった。もう30年になる。
 ◆歴史の中では、墓に入ることが“当たり前”ではなかった
 墓も同じだ。歴史の中で、すべての人が墓に入ってきたわけではない。よく考えればわかることだ。同じ東アジアでも、火葬して川や海に流していた例もあるし、屍をそのまま川に流す水葬とか、木々の上で風化させる風葬もある。それを不衛生とか野蛮とか可哀想と思うだろうか? 生態系の循環や食物連鎖で考えると、むしろ理にかなっている。
 日本では、墓に石塔を立てるようになったのは江戸時代以降。それ以前は各地によって違ったが、土葬が中心で、火葬の地域でも石塔を立てなかった。そのため墓参りの習慣もなかった。沖縄の一部では、海の岩場や洞窟で野にさらす「風葬」もあった。墓に入ることは、伝統でも、当たり前でも、常識でもない。
 田畑の後背地にある高台に墓を見かけることがよくある。現代では土葬ではないのだろうが、本来の自然の循環からすれば、合理的な場所に埋葬されている。違う生き物たちの肥やしとなって、自らの田畑を見渡せる永遠の循環に身を委ねるなんて、素敵じゃないか。
 俺も、死んだら自分の田んぼに埋めてほしいと思うことがあるから、納得がゆく。だが実際は、今の日本ではそうもいかない。だから焼いて骨を海に撒いてもらえばいいし、生前にその費用だけを誰かに託して死ねたら最高だ。
 人の体は自然の中の循環物だから、すべてを自然に戻すのが本当は当たり前のこと。土に触れる暮らしをしていると、不自然と自然の見分けがつくようになる。裏返せば、自然の摂理から離れるほど人は不自然な方向に向かう。
 江戸期に墓の概念が生まれたのは、一部の人々が兵農分離で土から離れたから。不自然を不自然と感じなくなる過程で形成されたであろうことが想像できる。権力者や富裕者が大きな墓に入りたがるのも、土や自然の摂理から離れた、不自然な愚かさに気づかなくなるからだろう。
 ◆人間だけが自然の循環の外にいていいわけがない
 そんなこんなで「墓はいらない」ということを自分のブログに書いたら、大手企業を辞めて京都府綾部市に移住して田畑を耕している、平田佳宏さんが次のような反応をしてくださった。
「亡骸はそのまま野原に晒して鳥や獣の餌にして、虫や微生物の手で土に還してもらいたい。そうして自然の循環の中に入りたい。子や孫やそれに続く世代に墓の守りをさせたくない。
 人間以外の生き物は墓など作ることはないが、だからといって成仏できないなんてありえない。これまで何億年と生命は弔われることなく自然に還って循環してきたのだ。
 昔は人が亡くなると川の上流の方に土葬した。そうすると下流の田畑や森がよく育ったのだと聞いた。きちんと土に還るというのはそういうことだ。
 人間だけが自然の循環の外にいていいわけがない。命を奪って生きてきたのなら、死んだのちは我が身をほかの生き物のために提供することが務めであり、自然の摂理だと思う」
 ◆自然回帰思考と低収入化で「墓を守る」は薄れてゆく
 人は二度死ぬという。一度目はその人が死んだとき、二度目はその人を覚えている人が死んだとき。ということは、思い出してくれることが墓参り以上の弔いだ。思い出してくれる人がいなくなって、誰も俺の存在を知らないのに墓の世話をさせるなんて迷惑なだけだ。
 本来、死の弔いは金をかけずともできたこと。すべて商業主義・消費主義に乗っ取られただけだ。日本消費者協会の調べによると、葬儀にかかる金は全国平均で195万円。これではお金がある人しか「ちゃんとした」葬儀はできない。今後も格差が解消されないのなら、逝った人を送るのがどんどん厳しくなる。
 しかし落胆しないでほしい。通夜、告別式、読経を省略して、火葬するだけなら十数万でできる。生活保護受給者なら自治体が最大で20万円まで補助する法律になっているので、負担はない。逝く側も送る側も、ちゃんとした葬儀なんてそもそもしなくていいじゃないか。
 政治と経済の愚行で格差が広がり、墓を買うとどころか、親や先祖の墓を維持できない人たちが増えている。墓や霊園など、何百年後にも存在しているだろうか。
 歴史の遺構物には何千年というものだってあるのだから、残っているものもあるだろう。しかしほとんどは、天変地異や環境破壊、戦争や開発などで失われることもあるだろうし、経済的に維持ができずに撤去することもあるだろう。おそらく、そのほとんどが残らない。いずれ結局は自然に還るのだ。
「墓に入りたい」「墓を大切にしたい」という人もいて当然だし、素晴らしいことだ。しかし、「生まれた場所で育ち、生き、死んでゆく」という時代は、ローカルに一生を生きる以外は先細りだ。遠い場所に墓があっては、時間的にも経済的にも墓を守ることは難しくなる。
 一方で、都心には墓を置く場所がないゆえに、郊外の山を削って大霊園を作る。それは環境破壊で、自然循環を壊し、麓に土砂災害を誘発することでもある。遠くの墓を住まいの近くに移すのも良いが、それにも相当の金がかかる。ゆえに、墓じまいも増えているし、無縁墓地も増えている。
 そんな矛盾に満ちた時代にあって、現世を充実して生き切るために「墓は要らない」「墓には入りたくない」と思う人は増え、次の時代の価値観になっていくに違いない。
 そして、俺ら貧乏人にとっては、そう考えたほうが都合がいい。
 【たまTSUKI物語 第13回】
 <文/髙坂勝>
 1970年生まれ。30歳で大手企業を退社、1人で営む小さなオーガニックバーを開店。今年3月に閉店し、現在は千葉県匝瑳市で「脱会社・脱消費・脱東京」をテーマに、さまざまな試みを行っている。著書に『次の時代を、先に生きる~まだ成長しなければ、ダメだと思っている君へ』(ワニブックス)など」
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