¥11〉─1─世界の「経済政策バブル」が弾けようとしている 「八方美人」という方針をとり続ける日本の末路。~No.34No.35No.36 

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 2022年10月9日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「世界の「経済政策バブル」が弾けようとしている 「八方美人」という方針をとり続ける日本の末路
 小幡 績
 © 東洋経済オンライン ドイツのエルマウで開かれたG7首脳会議。世界の「経済政策バブル」が弾けようとしている(写真:ブルームバーグ
前回の「ついに『日本が独り勝ちする時代』がやってきた」は多くの読者が読んでくれたらしい。今回は、前回のまとめとその続きである。ひとことで言えば、世界の経済政策バブルは弾ける一歩手前にあり、日本も例外ではないということだ。
 ついに「あとがなくなった」
 1990年前後以降、現代経済社会はつねにバブルであり、ぜいたく品という余計なものばかりを作るようになった。
 流行の終わったぜいたく品に飽きた消費者に、次々と新しいぜいたく品を欲望させ、消費させ、達成感を与え、豊かさを演出してきた。
 しかし、ただ無駄なぜいたく品はすぐ飽きられる。よって、企業として消費者を支配し続け、利益を拡大し続ける「必勝法」は、必需品と思わせるぜいたく品を生み出し、これを永続的に欲する消費者を大量に獲得することである。これが大成功すると、人々はそれを「イノベーション」と呼び、称賛する社会になった。
 本当は必要ないものを必要と思わせ、かつ永続的にそれを欲せさせるために、本能的欲望を刺激するような中毒性のあるものが継続的利益を生み出した。ゲーム、スマートフォンSNSなど、これら“麻薬”を買える余裕のある消費者が増えることが経済規模拡大となり、経済成長とされるようになった。
 しかし一方で、これが可能だったのは、経済全体がバブルであったからで、膨張する金(カネ)を次々と生み出す必要があった。社会主義の崩壊によるフロンティアとして生まれた移行経済と新興国を、ぜいたく消費経済市場に取り込んだ。
 このフロンティアがなくなると、今度はサブプライムバブルなどの金融資産バブルを作った。それが崩壊すると、中央銀行を動員して、量的緩和バブルを作り、それも使い尽くした。
 さらに「コロナショック」が起きると、最終手段として最後の財政出動を行った。中国という、欧米とは異質の経済のバブルと中国財政出動の助けも借りたが、欧米も中国もバブルは崩壊寸前となり、現在ではあとがなくなっている。もはや動員する資源が世界中のどこにもなくなった。
 一方、この「ぜいたく品、麻薬品バブル」の裏で起きていたことは、必需品の不足であった。
 企業は前述のような「イノベーション」競争に邁進していたから、皆が競って新しい流行のぜいたく品、あわよくば“麻薬”を生み出そうとした。
 その結果、誰もが必要とする必需品の生産は手薄になった。食料であれば、主食が不足し飢える人々が世界中にあふれていても、高級牛肉を生み出すために飼料作物を大量に生産した。
 歴史の教科書で習った自給自足から商品作物への生産シフトが、あらゆる場面で起きた。住居は、富裕層向けの高級住宅が土地、不動産価格をつり上げ、さらにそれが投資需要を呼び込み、世界中の大都市の不動産価格は高騰し、低所得者は賃労働を得るために大都市に流れ込んだが、住居は得られない状況となり、この苦境が多くの人々に広がっていった。
 成熟国では「単純労働者という必需品」が不足
 同様に、健全な精神と肉体を得るための必需品である「普通の良好な自然環境」は失われ、大都市での精神病は増え続けた。この結果、衣食住そして健康という必需品がすべて不足した。「衣」だけは大量生産に成功して余ったが、それを利益に変えるため、ファッション(流行)やブランドという「ぜいたく」なものにすり替えるか、使い捨てとして大量消費させることで、産業としては必需産業から程遠い存在となった。
 この問題に、有識者、とりわけ経済政策担当有識者は気づかなかった(目をつぶってきた)。なぜなら、必需品は世界経済全体では不足してきたが、それは政治的・言論的影響力のある先進国の中間所得者層とは無関係だったからだ。
 彼らは、むしろ新しいぜいたく品を消費し、同時に働き手として、それを生産して儲けることだけに関心があったからだ。こうしたぜいたく品消費、生産拡大を、どれだけほかの国よりうまくやるか、大規模に成功させるか、という問題に終始していたからである。ぜいたく品の過剰生産による必需品の絶対的な不足は、経済の問題ではなく、途上国の一部の問題であるとしか認識されてこなかった。
 しかし、この問題は徐々に世界のあらゆるところで顕在化してきた。まずは、必需品たる単純労働者不足である。これは、ある意味の必需品である子孫の繁栄をないがしろにして、ぜいたく品といえる自分たちの豊かな消費生活を享受することを優先させた結果とも解釈できる。
 そこで、ぜいたく品に手が回らない後進国から移民を受け入れることでごまかしてきたが、その移民の奪い合いと同時に、さらなるぜいたく品消費、ヘイト、移民差別といった問題が起き、単純労働者という必需品不足が世界中の成熟国で明らかになってきた。
 さらに、コロナショックにより、単純労働者が決定的に不足した。そして、新型コロナウイルスからの回復後も、かつての労働者たちは単純労働の市場には完全には元に戻らなかった。
 求人数は急増し、賃金が上昇したが、それでも集まらないようになった。「エッセンシャルワーカー」などと呼んで、今さら形だけの敬意を表しても、誰もその職には就こうとしなくなった。これこそ必需品不足である。
 マネジャーが増え、コンサルタントが増え、ぜいたく品を企画し、生産し、儲けようとする人々だけでは社会が成り立たないことに、ようやく人々は気づき始めた。そして、それは賃金上昇、必需品価格の上昇、インフレーションということで、社会全体のすべての人に直接影響するようになり、社会はパニック状態に陥った。
 社会は「価値保蔵手段」という必需品を失った
 ESG(環境・社会・ガナバンス)とかSDGs(持続可能な開発目標)などといった名ばかりのきれい事は、富裕層のナルシズムと自己満足にすぎない、ぜいたく品であったことが明らかになった。今さら脱炭素一辺倒ではダメだと言い出しても、原油天然ガスなどの必需品エネルギー価格は高騰・高止まりして、容易には元には戻らなくなった。
 そして、政府は票を得るために、有識者は社会にとってよいことをしたという自己満足というぜいたく品を得るために、何が何でもインフレを止める、という行動に出た。
 この結果、世界中で金利は上昇し、最大のぜいたく品である(麻薬かもしれない)“余剰資金をさらに増殖させようとする「資産運用」という営み”は、資産バブル崩壊により、悲惨な状況に陥った。
 インフレによって、老後や不遇に備えるための価値保蔵という機能が、現金(とくにアメリカのドル以外の通貨)や国債という安全資産からも失われた。もちろん株式からも失われ、これらの資産の代替と喧伝されていた暗号資産も暴落し、社会はあらゆる「価値保蔵手段」という必需品を失った。
 こうして、社会はパニック状態になり、どうしていいかわからない状態となった。
 ぜいたく品の最たるものである「戦争」という行為を消費する最後のチャンスとばかりに暴発した国もあるが、「愛国心のある兵士」という必需品が不足して、劣勢となっている。
 その他の国々では、さまざまな経済政策が取りざたされているが、いずれも行き詰っている。典型的なのが英国だ。
 「ブレグジット」(英国のEU離脱)の結果、移民により供給されてきた単純労働力が欧州で最も不足することとなり、世界で最も深刻なインフレに直面した英国は、苦しまぎれに、国民へのエネルギー支出支援のばらまき、富裕層への減税という、支離滅裂な政策を宣言した。しかし、その結果、自国通貨、自国債券、株式とすべてが急落して苦境に陥り、慌ててこの経済政策を撤回した。
 一方、日本の無秩序な経済政策は、この20数年間、英国をはるかに超えた、世界有数の非効率でかつ無駄極まりない、いやそれどころか、経済社会を破綻させる負の影響の大きな政策ばかり行われてきた。
 経済成長戦略は成功したことはないし、景気対策と称したばらまきで、このままだと財政破綻へまっしぐらである。しまいには、国家のもっと重要な通貨価値をインフレと円安で毀損させる政策を、政府と中央銀行がタッグを組んで全力で実現させてきたのである。
 なぜ日本は愚策を採り続けてきたのか
 今回の議論の焦点は「これらの政策がいかにひどいか」ということではない。「なぜこのように明らかに愚かな経済政策を、日本は採り続けてきたのか」ということである。
 それは、日本においては、経済政策は「ぜいたく品」であり、「麻薬品」であったからである。そして、「必需品」たる必要な社会政策をおざなりにしてきたのである。
 これが、日本が21世紀に世界の主要国から転落してきた理由である。日本の経済政策には、まったく対立軸がない。「小さな政府か大きな政府か」(効率的で妥当な規模の政府)、「自由か平等か」「規模か質か」などがあってしかるべきだが、結局何もないのである。
 アメリカは2つのはっきりした軸があった(大統領にもなったドナルド・トランプ氏の出現で、それが失われつつあることが明示的になった。それで現在の混乱が生まれている)。また英国は、新政権がエネルギー支出補助金ばらまき、富裕層減税と何でもやると表明したことが危機を招いた。
 だが、少なくとも中央銀行は、インフレ退治として、急激に厳しい引き締めを行う意思がある。一方の日本はどうか。何もない。
 日本にあるのは「八方美人」という方針だけだ。すべての人にいい顔をする。「彼が、彼女がかわいそうだ」と批判されれば、それにすべて対応しようとする(そのふりをする)。
 リスクに目をつむり、かえって安全性が低下する日本
 安全では足りず、全員が安心するように努力しているふりをする(なぜなら、全員が安心することはないから。思考停止して、リスクに目をつぶるしかない。そして、かえって安全性は低下する。0.01%を守ろうとして、90%いや100%を失うリスクを抱え込む)。万が一のことがあったらどうする、という懸念、指摘にも全力で対応するふりをする。これでは収拾がつかない。
 過去、政権交代しても、結局、八方美人だったので、ほとんど何も整理されなかった。ただ、政策はただただ肥大化し、効率性がさらに低下した。それに代わった「アベノミクス」は、リフレ政策という単なる膨張政策で、すべてをごまかし、目先の景気をよくし、株価を上げて、その場を取りつくろった。
 しかし、経済界は、自分の目先の負担は増えず、株価が上がり、利益が名目上円建てで増えたから、不思議なことに(思考停止していたのか?)文句は言わなかった。
 2020年春、新型コロナウイルス(COVID-19)が欧米に広まった当初は、まだ日本国内では、感染者数の広がりはそれほど深刻でなかった。なのに、異常な行動制限と異常な自発的(かつ積極的な)自粛により、経済は縮小した。困窮した一部の人を助けるために、彼らだけに金を配る手段がないと言い出して、国民全員に10万円を配った。10万円もらえるから、誰も(思考停止だから、将来のことは考えず)文句は言わなかった。
 これらの経済政策とは何なんだろうか。ぜいたく品である。明確なターゲットを定め、仮に政治的な下心からの政策であったとしても、ターゲットが定まっていれば、一定の必要に対応した政策、「必需品」としての政策となったはずだ。そうではなく、全員の支持を得るために、八方美人政策、ぜいたく品的な支持率、無風で確実に選挙に勝つ戦略をとった。いかなる決断、勝負も避けた。政治決断という政治の必需品をないがしろにし、とにかく支持率で過半数をとって、リスクなく勝とうする、ぜいたくな戦略を選んだ。
 英国のリズ・トラス首相が「growth,growth,growth(成長、成長、成長)」と叫んだ党の集会での演説を滑稽に思う資格は、日本のわれわれにはない。生活困難者対策、幼児児童のリスクを放置し、児童相談所も保健所もほとんど何の改革もせず、「予算もないし、人員もいない」と言いわけをして放置してきた。「労働市場改革」「一億総活躍社会」「女性なんとか」などと言いながら、最低賃金の上昇だけを行い、非正規というまるで違法であるかのような呼び名を放置し続けてきた(無認可託児所も、同じである)。
 正規、非正規の差別も区別もなくし、同一労働同一賃金、すべての労働者を平等に扱い、社会保障も同じ水準を担保することを一切行わずに、労働力不足をなげく経営者のために、海外労働者を何とか入手しようと議論している。
 議論が広がりすぎるので、最後にひとことで暫定的な結論を述べると、重要な社会政策というものに真剣に取り組まず、経済政策で景気をよくして、社会問題も将来不安も糊塗してごまかしてきたのだ。
 それを国民は、自ら思考停止して受け入れて(多くの場合、歓迎して)きたのだ。社会政策は「必需品」であり、社会問題をごまかす経済政策は、「ぜいたく品」である。そして日本の政治は、新しい「ぜいたく品」を競って次々と編み出し、ぜいたく品の上塗りを続け、政府債務を膨張させ、中央銀行の破綻リスクを積み上げてきたのだ。
 そして、まもなく、この経済政策バブルは、金融市場、経済のバブルとともに弾けるだろう(ここで本編は終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースや競馬論を語るコーナーです。あらかじめご了承ください)。
 競馬である。
 10月2日の日曜日、フランスで凱旋門賞が行われた。日本馬は大挙4頭が出走したが、日本国内では絶対王者のタイトルホルダーが11着。ダービー馬ドウデュース19着、ディープボンド18着、ステイフーリッシュ14着。大惨敗である。
 勝ちたいなら、もっと周到な準備が必要だ
 直前からの大雨で馬場が非常に重くなったことは不運だったが、この時期のロンシャン競馬場はいつも雨で、このくらいは想定内でないといけない。
 逃げ切ろうと誰もしないのには理由が当然ある。それを逃げて勝とうとするのはどうかしている。こんなやり方で勝てると思っているとは甘すぎる。「凱旋門賞勝利は日本競馬界の悲願」というのが口だけでないなら、もっと周到な準備が必要だ。
 まず、そもそも目標設定が誤っている。凱旋門賞は日本育成馬たちに最も向かないレースである。にもかかわらず、国内では重い馬場や、国内の長距離レース(春の天皇賞3200メートルや菊花賞3000メートル)も軽視しておきながら、突然、世界で最もスタミナとタフさが要求されるGIレースを目指すのは、つじつまが合わない。
 どんな強い欧州馬も、軽い馬場で速いタイムが要求される今のジャパンカップでは勝てないのは当然と思っていながら、一方で日本馬が重い馬場の凱旋門賞を勝とうとするなど、虫がよすぎる。
 また、これだけ向いていないレースに対して、直前輸送で対応しようとするのもどうかしている。馬場が違いすぎて、馬に慣れさせる必要がある。
 日本馬で勝てた可能性のあったのは、エルコンドルパサー(1999年)とオルフェーヴルの「1年目」(2012年)だけだが、エルコンドルは3歳でジャパンカップを勝ったあとは、すべてをフランスに捧げた。4歳のシーズンは春からフランスに滞在し、5月、7月、9月とレースを使って、凱旋門賞は4戦目だった。
 だから不良馬場、相手が化け物モンジューでも半馬身差の2着になったのである。またオルフェーヴルだが、彼は日本競馬史上最高の馬であり、その彼が絶好調だったので、勝つはずだった。だが、これは「準備不足」で負けた。
 池江泰寿調教師が正直に告白しているとおり、事前に鞍上のクリストフ・スミヨン騎手に、オルフェーヴルをもっと知ってもらうべきだった。あの狂気のオルフェーヴルなのだから当然なのに、それをまったくといっていいほど、していなかった。
 「価値があって勝てるレース」で勝利を
 しかも、今年はせっかく4頭も出走したというのに、それぞれの陣営がバラバラに準備した。日本競馬界の悲願というならば、「オールジャパン」で、チームで戦うべきで、それもできないのに勝てるはずがない。
 これ以上、「凱旋門賞にチャレンジだ」とか甘いことを言って、日本馬の評価を無駄に落とすのは競走馬の生産者の自滅である。どうしても欧州で勝ちたければ、「価値があるレースでかつ、勝てるレース」を使うべきだ。
 すでにタイキシャトルシーキングザパールが1998年に完勝したように、マイルG1戦を使うべきだ。さらに、欧州の中では固い馬場でスピードがより問われるアイルランドアイリッシュチャンピオンステークス、そして、現在は凱旋門賞よりも価値があると言われている英国のチャンピオンステークスを狙うべきである。
 それらを「これでもか」と勝つ。そのうえで、凱旋門賞をどうしても勝ちたければ、そのあとに、これらと一緒にオールジャパンで遠征・滞在し、「スタミナ凱旋門」に向く馬をぶつけるべきだ。
 さらに、日本国内においても対策を提案したいが、それはまた次回。
 (当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)」
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