🥓9〉─3─毒親の虐待を受けて親となった子供は毒親となる。~No.27 

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 2023年5月13日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「「毒親の親は毒親」両親も同じ"被害者"だと理解しつつ、毒の連鎖を断ち切りわが子誕生を望む娘の固い決意
 旦木 瑞穂
 © PRESIDENT Online
 「きみのお母さんのことをリスクに感じるので、結婚をやめたくなった」。女性は交際中の男性にこう言われ、「親子の縁を断ち切ろう」と決意した。毒親に育てられた自分の中には毒親の因子がある。だから、誕生したわが子に自分も不適切な対応をしてしまうかもしれない。そんな不安を抱きつつ、出産を望む女性の心情とは――。【前編のあらすじ】関東在住の町田朋美さん(仮名・30代・既婚)の両親はそれぞれ夜の飲食店に勤めていた。母親は平気で人格否定するような言葉で町田さんを責め、父親はとことん無関心だった。やがて町田さんは看護師になり、一人暮らしを始めたが、なかなか職場になじめない。29歳でプロポーズを受けた町田さんだが、稼ぎをパチンコと飲み代に使うなど金遣いの荒い父親とは絶縁状態。母親は町田さんを理解しようとはせず、両家顔合わせは中止になった。
 前編全文はこちら
 親子の縁を切る
 関東在住の町田朋美さん(仮名・当時29歳)にプロポーズした1歳上のIT企業勤務の男性は、町田さんと母親(当時49歳)の電話でのやり取りを聴いていた。町田さんはそれを承知していたが、あるとき衝撃的なことを言われた。
 「以前から彼は、私が母と連絡を取ると、私が精神的に不安定になることに気付いていました。だから私が母に電話をする時に側にいてくれたのですが、そのときの母のせりふに驚いて、『きみの親の言動はやくざのようだ』と言ったのです」
 彼の父親は公務員、母親は彼が学生の頃に病気で亡くなっている。この件があり彼は、「きみのお母さんのことをリスクに感じるので、結婚をやめたくなった」と言った。
 もちろん、好きだったからこそ2年ほど付き合ってきて、プロポーズまでした相手だ。そう口にするに至るまでには、かなりの葛藤があったに違いない。
 「彼が私の母を恐れる気持ちは、私自身も物心ついた頃から感じているものです。これまで一度も私の母のような人と関わってこなかった彼にとっては、大きなリスクに感じるであろうことは理解できました。だから私は彼の気持ちを尊重したいと思い、『母のことが嫌なら、私と結婚しなくていいし、別れてもいいよ』と伝えました。そのうえで、彼が安心できるように行動で示そうと決断し、彼が感じる不安に対する対処法を私が以前から受けていた心理カウンセラーに聞き、彼に伝えるようにしました」
 やがて町田さんは、カウンセラーのアドバイスを受けて、両親の戸籍を抜け、自分が筆頭者となる「分籍」をした上で、彼の戸籍に入籍。悩んだ末に彼は、「きみのお母さんのことは嫌いだけど、自分が結婚するのはきみだから、お母さんは関係ない」という結論に至ったのだ。
 義父も、「嫁に来てもらえば、あなたはこちらの身内になるのだから、これまでの家庭のことは気にしなくてもいいんじゃないか。それに結婚は息子が決めたことだから、父親が口を出す必要はない」というスタンスだった。
 また、母親が以前送りつけてきた、町田さんと父親が写っている幼い頃の写真や、町田さんが書いた文集なども、カウンセラーの助言に従い、すべて母親に送り返した。
 その後、母親からも、父親からも、連絡はない。どちらにも、「私のことを尊重するなら、私が連絡をするまではしてこないでほしい」と手紙で伝えたのが最後だ。
 「分籍は、戸籍を分けるだけで、法律上の影響はありません。相続権もありますし、民法の親の扶養義務もあります。でも、精神的に『自分の意志で親から離れる』という行動をとったという証しになるので、親に対してというよりも、“自分のため”にするのであれば、良い手段だと思っています」
 町田さんは、「分籍」「返送」「絶縁宣言」という一連の行動を経て、ようやく両親から、物理的にも精神的にも距離をとることができ、心の荷が軽くなるのを感じた。
 連鎖する毒
 町田さんは、彼に「きみの親の言動はやくざのようだ」と言われたことをきっかけに、「このままではいけない」と思い立ち、親子関係についての書籍を読みあさり、懸命に学んだ。その中で、「毒親の親は毒親」という言葉を何度も目にしてきたという。
 「私にとって両親は“加害者”ですが、昔は両親も私と同じ“被害者”だったのだろうと今は考えています。両親はどちらも、偏った家庭で育ったようなので……」
 父方の祖父は自衛官、祖母は専業主婦だった。自衛官の祖父は、幼かった父をパチンコに連れて行くこともあった。祖母は3人姉妹の末っ子で、とても甘やかされて育ったせいか、金遣いが荒かった。祖母は父親をかわいがっていたが、父自身を見ないような溺愛ぶりが嫌だったようだ。父親は実家に帰ることを避けていた。
 母方の祖父は、母親にとって継父だった。祖母が妊娠中に実父は病気で亡くなり、母親が3歳ごろに祖母は再婚していた。母親いわく、継父は箸の持ち方など、マナーに厳しい人で、祖母は「ジャイアンのお母さんのような人」だったという。なんでも、祖母が怒ると洗濯板で叩かれるため、怒られる兆しがあると、母親は靴を持って窓から逃げた。冬でも朝まで家の中に入れてもらえないこともあり、飼い犬と一緒に犬小屋の中で夜を明かした。部屋を散らかしたままにすると、散らかしてあるものを片っ端から窓から投げ捨てられた。思春期になると、母親はある女性アイドルを好きになったが、祖母はそれを執拗にバカにしたという。
 やがて結婚し、町田さんが生まれ、町田さんが祖母の憧れの高校に合格すると、「鳶が鷹を生んだ!」と言って喜んだ。
 「当時は私もうれしくて気付きませんでしたが。今思えば、母に対してかなりデリカシーのない発言ですよね? 祖母は祖父に対しても当たりがキツくて、孫の私から見ても祖父をバカにしたような発言がよくありました」
 母方の祖母は再婚後、男の子(母親にとっての異父弟)を産んだが、20代後半ごろからひきこもりになり、40代で自死した。祖父(母親の継父)はとても悲しんだが、祖母は「早く忘れたい」と言って、祖父を冷たくあしらっていた。
 「両親も私と同じ“被害者”だったと分かったからといって、両親を助けることは私の役割ではありません。それこそ『共依存』の関係に戻ってしまうので、今は『関わらない』関係がベストだと思っています。両親と離れてみたら、『手のかかる子育て』が終わったような不思議な感覚があります。自分のことだけ集中して生きられることが、『こんなに楽なんだ』と感じています。きっと、ようやく『自立』できたのだと思います」
 町田家のタブー
 筆者は、家庭にタブーが生まれるとき、「短絡的思考」「断絶・孤立」「羞恥心」の3つ要素がそろうと考えている。
 町田さんの両親は“できちゃった婚”だった。母親は町田さんが生まれた後も、夜や土日の仕事を継続し、仕事中は自分の実家などに預け、小学校に上がると夜から翌朝まで一人で留守番をさせた。父親は長く仕事が続かず、稼ぎを飲み代やパチンコにつぎ込み、借金を繰り返す。両親ともに「短絡的」な人だったことは自明の理だ。
 また、2人は夜の仕事で多忙にしていたため、ほとんど仕事以外の人間関係は構築されていなかったと思われる。もしかしたら、仕事の人間関係さえも希薄だったかもしれない。小学生までの町田さんは、ひたすら孤独に留守番する生活を送っており、町田家が社会的に「孤立」した状況だったことは容易に想像がつく。
 「振り返ると、無意識的に、家庭環境が良さそうな人に対しては、自分の家庭の話をしないようにしていました。周りやテレビなどで観る家庭と比べて、『自分の家庭は普通ではないのだろう』と、違いを感じていたからだと思います」
 町田さんが“家庭環境が良さそうな人に、自分の家庭の話をしないようにする”のは、おそらく、驚かれたり、引かれたり、同情されたりすることが予想できたからだろう。その感覚は、「羞恥心」に似ている。
 「それでも、母は母なりに、父は父なりに愛情はあったのだと思っています。ただ私にとっては、父の愛情は『無関心』のように見えていましたし、母が言う『愛情』は重くて、苦しくて、不自由で、『支配』のように感じていました。母の『愛情』を受け入れれば受け入れるほど、私が奪われるような感覚がありました。今、私は『愛情』とは、『相手を相手の形のままで受け入れること』だと思っています」
 町田さんの父親は、町田さんを受け入れるどころか、幼い頃は無関心で、少し成長すると転職相談相手、大人になってからは金を無心する相手として自分の都合良く捉えてきた。母親に至っては、さんざん自分勝手に振る舞っておきながら、町田さんが思うようにならないと不機嫌をまき散らし、自分を棚に上げて容赦なく攻撃してきた。そこに愛情があったかどうかは甚だ疑問だ。
 「親と縁を切れずにいた頃は、自分が大人になることも、恋愛も結婚も、子どもを持つことも、何一つ希望が持てずに生きていましたが、今は結婚して、これから子どもと過ごす日を夢見ています。夢や希望を持って生きることができるようになったこと。それが親との関係を絶って得たものでした」
 結局、両家顔合わせができないまま、入籍だけを済ませた町田さんは、近々夫側の親族と夫婦の友人知人を招いて、結婚式を挙げる予定だ。
 幼い頃から「子どもは家庭のために犠牲になって当たり前」と思わされてきた町田さんだが、今はそんな家庭から抜け出して、自分の価値観を否定されず、自分を搾取されず、尊重し合うことのできる人に囲まれて、「幸せ」だという。
 「看護学生時代、実習でお産に立ち会ったことがあるのですが、同級生たちは口々に『感動したね!』と言っているのに、私は、『こんな世界に生まれてしまって本当に幸せなのかな?』と考えていました。そのときに私は、『自分は人生に失望している。みんなと違うのだな』と寂しく思いました。でも今は、友達からの出産の知らせを聞くたびにとてもうれしく感じています。あの頃と違い、生きていることに幸せを感じることができるようになったのだと思います」
 毒の連鎖を断ち切る
 両親との縁を切り、幸せを得た町田さんだが、その決断をしたとき、皮肉なことに「両親のことが大好きだった」ということに気付いたという。
 カウンセラーのアドバイスに従い、両親に手紙で「今後は自分の意思で会わない」と伝えた後、しばらくは心の葛藤があった。
 「幼い頃の私が、今の私を責める声がするのです。『どうしてこんなことしてくれたの? 今までどんなにつらくても、大好きなママを傷つけないように、愛されるために、認められるために頑張ってきたのに! 全て壊しちゃったじゃない!』と。だからこそ私は、もしも自分の元に子どもが来てくれるならば、自分がされたような扱い方は絶対にしたくないと思っています。そのために一番大切なのは、私自身が自分で自分を大切にすること。自分の機嫌は自分で取り、子どもやパートナーに機嫌を取ってもらおうとか、幸せにしてもらおうと求めないことだと思っています」
 改めて、「(両親のことを大好きだった)私と両親は共依存でした」と振り返る。
 「実家で暮らしていた頃は、『家族だから』『親子だから』『娘だから』と言われて、家のため、親のために生きることを望まれ、親の望みをかなえるのは、子どもである自分の役目であると思っていました。また、『親だから私が正しい。子どもだからあなたが間違っている』という母の世界で生きていたので、私は、『常に間違えている存在』という認識で生きているほうが楽でした」
 母親は常に、「正しいことを言っていれば、間違っている相手には何を言っても良い」「間違ったことを指摘されて傷つくのは、傷つくほうが悪い」という態度で町田さんに接した。
 しかし町田さんが社会に出てみると、母親のような人には出会わなかった。町田さんは、「私は常に間違えている存在」という思い込みのせいで職場になじめず、転職を繰り返し、思い込みを払拭するのに8年も費やした。
 「その期間、私は仕事でたくさんの『家族』を看ることと並行し、専門家に頼ったり、心の安定した人に支えられたりして、少しずつ歪んでいた価値観を“普通”に合わせることができるようになりました。そして、ようやくマイナスからゼロになって、穏やかな日々を過ごすことができています。そのせいでしょうか、今では正論を言う人が苦手です。『正しいこと』を言う人が『正しい人』とは限りませんから……」
 「自分の子供に不適切な対応をする可能性が高い」
 町田さんは現在、「子どもがほしい」とは思っているが、自分が「子どもにとって不適切な対応をする可能性が高い」ことも承知している。
 「私は、『安心できる家庭』で育つことができなかったからこそ常に学び続け、柔軟性を失わず、信頼できる相談先を持っておくことの大切さを知っていますし、すでに“洗脳”されている私が、“毒親の連鎖”を絶つのは、自分1人の力では難しいと思っています。だからこそ、両親は何かあるとすぐに子どもである私を頼る人でしたが、私は夫とチームを組んで子育てに挑みたいと思っています」
 町田さんの両親は、町田さんが家を出た途端に別居し、その後、離婚した。子どもなしでは家庭を維持できなかったからだ。子どもを“かすがい”にしないこと。子どもがいてもいなくても夫婦として機能することが重要だ。
 現在、町田さんは、
・自分の感情を自分で受け入れること
・自分の感情を相手のせいにしないこと
・自分が嫌なら離れる、好きなら一緒にいる
・「愛情」「あなたのために」といって自分を傷つけてくる人からは距離を取ること
・自分の選択や意思を大切にすると同時に、相手の選択や意思も尊重すること
・家族であっても子どもであっても別の人間。違いを楽しむ心を持つこと
 を肝に銘じながら生きている。
 「『自分で自分のことを大切にする』そう決めて、『親しき仲にも礼儀あり』『相手と自分は別の個体』と理解して言動すること。それが、自分が“毒親”にならないための方法かなと思います」
 筆者は最後に、「両親に介護が必要になったらどうするか?」と町田さんに質問してみた。
 「私は一人っ子なので、親の介護はとても大きな悩みの種でした。『介護は子育ての通信簿』と言われますが、もし私が両親を介護したら、自分が子どもの頃にされていた通りにしてしまうと思います。職場のケアマネさんにも相談しましたが、事情があれば、直接介護をしない方法もあるそうです。介護や生活に関わることを一通り請け負ってくれる民間のサービスがあることも分かりました。私は社会保障セーフティーネットを利用して、自分は介入しないつもりです」
 「私は子どもができても、『親』ではなく、一緒にいて心が温かくなるような『人』になりたい」と話す町田さん。それは、子どもと自分が“対等でありたい”という気持ちの現われだろう。人は、子どもができて初めて親になる。子どもとともに成長していくものなのだ。
 毒親と連絡を絶っている子どもは少なくないが、分籍までしている人は多くはない。だが、さほど費用もかからず、手続きも難しくないため、親との共依存関係に悩まされているなら、自分の人生を生きるための選択肢になるかもしれない。

                    • 旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ) ライター・グラフィックデザイナー 愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。 ----------

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