🎴4〉─8─2040年には人口の半分が独身。ソロ社会で子供達に居場所がない。〜No.36No.37 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年4月18日 YAHOO!JAPANニュース HugKum「2040年には人口の半分が独身!?確実にやってくる〝ソロ社会〟。子どもたちに「居場所がない」と言わせないためには?
 確実にやってくる〝ソロ社会〟へ適応するためのヒント
 2040年には人口の半分が独身者になるとのデータもある
 2022年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)が統計開始以降初めて80万人を下回ったことが厚生労働省の人口動態統計(速報値)で分かり、これまでの推計より10年ほど早いペースで少子化が進んでいるとニュースになりました。当然ですが、少子化は人口減少を促し、2040年には人口の半分が独身者になるとのデータもあります。生まれたばかりの子が高校生になる頃、私たちは誰も見たことのない〝ソロ社会〟を生きることになるのです。
 それでも人は、何らかのカタチでコミュニティにつながり、幸福だと思える人生をおくりたいもの。では私たち大人は、その方法をどう体得し、子どもたちに見せ、伝えていけばいいのでしょうか?
 もはや家族をもつとかもたないとか、産むのか産まないのかといった、従来のコミュニティへの固定観念や考え方を手放すタイミングに、私たちはいるのかもしれません。確実にやってくる〝ソロ社会〟へ適応するためのヒントを、最新著書『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』を上梓したばかりの荒川和久さんに聞いてみました。
 「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではない
 日本は「高齢者」よりも「独身者」が多い
 私は以前より「ソロ社会での生き方」について言及してきており、企業や自治体から「人のつながり」というテーマで講演依頼をいただくことが多いんです。「一人で生きる」ではなく、「人とつながる」・・・・・不思議に思われますよね。
でも実は、「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではないんです。そもそも「人とつながる」ということも、必ずしも「誰かと一緒に生きる」ということと同義ではありません。
 日本に限らず、多くの国で、人々の生活基盤として「所属するコミュニティ」があります。大きな分類でいえば、「地域」「職場」「家族」という3つのコミュニティです。
 地域とは、かつてムラ社会と呼ばれたように、ひとつのムラに住む者同士が互いに親密に、いわばひとつの家族のように助け合って生きてきました。しかし、今でも一部の地方で名残りがあるものの、都市への人口流出や高齢過疎化によって、ムラ自体の多くが消滅に向かっています。
 地域に代わって、コミュニティの中心的役割を果たしたのが、職場です。かつては多くの企業で独身寮が完備され、既婚者や家族のためには全棟借り上げの社宅まで用意されていました。また会社は社員を家族同然の終身雇用で厚遇し、社員はそれに報いるために滅私奉公するという、「家族」的なコミュニティの意味合いも含まれていました。しかし、それも平成から令和へと変遷する中で、地域コミュニティ同様、一部の中小企業を除けば、ほぼ消滅しかかっています。むしろ、「社員のプライベートに立ち入ってはいけない」という風潮の方が強まってきました。
 この2つのコミュニティの変遷により、「家族」のカタチも変わりました。かつて昭和の時代は、ひとつのテレビで家族全員が同じスクリーンを観ていましたが、今では個人がスマホというスクリーンを所有し、個人の部屋で個人がバラバラのスクリーンを観ています。
 つまり、代表的な3つのコミュニティすべてが、現在では崩壊しつつあるのです。別のいい方をすれば、「今まで提供されてきた安心な居場所の崩壊」です。
 「所属するコミュニティ」に共通するのは、「囲われた中の安心」でした。その囲いの中に自分の身を置き、居場所を得ることこそが安心でした。
 しかし「囲われた中だけは安心だ」という信念が強すぎるがゆえに、唯一の居場所に固執し、依存するという弊害も生みます。同時に、安心と引き換えに、所属員としての掟やしきたりに従うという制限を受け入れることにもなります。そう、「所属するコミュニティ」とは、自由と引き換えに安心を手に入れるものであり、対立と引き換えに身内の結束を強固にするものなのです。
 肝に銘じておかなければいけないのは、「所属するコミュニティ」は決して永続的なものではないということです。退職すれば職場の所属からは離脱しなければならないし、家族であっても離婚や死別はあり得る。子どもとて、いつまでも親元にいるわけではありません。
 個人化する社会においては、誰もがいつか「一人」になる
 「居場所がない」と嘆く人がいます。学校や家庭の中に居場所のない若者のほかに、職場や地域の中に居場所を見出せない高齢者もいるでしょう。場合によっては、家の中に居場所のないお父さんもいるかもしれません。しかし、そうした人にとって本当の解決策とは、居場所があればいいということなのだろか? と私は思うんです。
 これまでの居場所=コミュニティでは、一定の枠内という制限があるにせよ、進むべき安全な道が提示されていました。ところが居場所が崩壊した今、人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくします。
 私たちが迎えつつある社会は、そういう「個人化する社会」そのものなんです。昨今の非婚化や離婚の増加は、まさに「選択の自由を個人が得た」結果でしょう。独身者だけに関わる話ではありません。好むと好まざるとにかかわらず、結婚しても家族がいても、誰もがいつかは一人に戻る可能性があるわけなのですから。
 ではどうやって、人、またはコミュニティにつながればいいのか?そこで私が提案したいのが、「接続するコミュニティ」という視点です。
 コミュニティには「所属」ではなく「つながり」に行く
 は? と思いますよね。コミュニティとは、所属するものであって、その帰属意識が人々に安心を提供するものだと考えられているから。でも、そうでしょうか? 本当に所属をしなければ、人とのつながりは生まれないのでしょうか?
 私の答えは、否、です。
 たとえば、趣味のコミュニティなら、趣味を行う時だけそのメンバーと接続していますよね。それ以外の時間に相手がどんな仕事をしているとか、どんな生活をしているとかは気にしないでしょう。ところが趣味の集まりの時間は、協力したり、共に喜びを分かち合ったりしているはず。これが「接続」です。
 こういうつながり方なら、ひとつのコミュニティがなくなっても、自分自身を見失うことはなくなります。むしろ時間が経つにつれて、「接続するコミュニティ」がすべて入れ替わることもあるでしょう。さらに、「所属するコミュニティ」とは違って単発的な関わりもOKですし、継続性すらなくてもいい。必要なのは、接続するために自ら出向くこと、そう、その「場所」に「出かける」ことだけです。そこに行くという行動をすることで、ちょっとだけ前向きになっていることって、ありませんか?  私はそれを「居場所」に対して「出場所」と呼んでいます。
 友達や趣味がなくても、誰かと接続する機会は案外たくさん見つかる
 場所に縛られる必要もありません。散歩や読書、という行動もそう。その際、できれば、自宅で本を読むより、ファミレスでもカフェでも公園でもいいので、どこかいつもの居場所と違う場所に「出かける」ことで、より一層「出場所」感が増します。同様に、映画館で映画を観ることも、コンサートやライブ、寄席などに行くことも「出場所」になる。「人と会う、人と話す」という行動もそれ自体が「出場所」になります。「そんな友達などいないし・・・・」と悲観する必要はありません。必ずしも、気心のしれた友達である必要はないのです。むしろ、まったく知らない赤の他人との刹那のつながりが、結果として自分に刺激をもたらす場合も多いはず。
 友達がいなくても、趣味などなくても、誰かと接続する機会は案外たくさんあります。重要なのは、静的な「安心な居場所」を作ることではなく、動的な行動をするための「出場所」の方なのです。
 どこかのコミュニティに所属することで、安心な居場所を求めることだけに固執するのではなく、接続点を多く持ち、自分自身の「出場所」を作っていく。その「出場所」において、誰かと出会ったり、何かと触れ合うことが、結果的に自分自身の内面に安心な別のコミュニティを次々と築いていくことにつながる。行動した分だけ、地層のように、それは自分の内面に積み重なっていく。行動し、体験したからこそ「あなたの中にたくさんのあなたが充満」することになります。
 「居場所がない」という子どもたちが増えているのだとしたら、それは大人たち自身が自分の「安心な居場所」だけに依存して、そこだけに子どもたちを閉じ込めようとしているからではないでしょうか。何より自分自身が「居場所」の呪縛にとらわれ、「居場所に独りぼっち」になってはいないでしょうか。
 ※本稿は、『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』の内容を一部修正加筆したものです。
 記事監修
 荒川和久(あらかわ・かずひさ)
 広告会社にて、自動車・飲料・ビール・食品など幅広い業種の企業業務を担当。独身生活者研究の第一人者として、国内外のテレビ・ラジオ・新聞・雑誌・WEBメディアに多数出演。著書に『結婚しない男たち』(ディスカヴァー携書)、『超ソロ社会』(PHP新書)、『結婚滅亡』(あさ出版)など。
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 4月19日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「日本は2040年には「人口の半分が独身者」になる…これから確実に到来する「超ソロ社会」という現実
 ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/maroke
 これからの日本社会はどうなるのか。独身研究家の荒川和久さんは「将来の日本は人口の半分が独身者となる超ソロ社会になる。未婚化と少母化が進む限り、この流れは止められない」という――。
 【図表】高齢者より独身者のほうが多い日本
 ※本稿は、荒川和久『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』(小学館新書)の一部を再編集したものです。
■高齢者以上に「独身者」が増え続けている
 「日本は、人口の半分が独身者となる超ソロ社会になる」
 もちろんそれは決して「オオカミが来るぞ」というデマを流しているものではない。事実、そうなるからだ。
 日本が世界一の超高齢国家であることは周知のことと思うが、2020年時点の国勢調査段階における65歳以上の高齢人口は約3600万人である。しかし、15歳以上の配偶関係別人口(不詳補完値)から、未婚・離別死別を合わせた全独身人口を割り出すと、約4930万人になる。約5000万人が独身なのだ。
 高齢人口より独身人口が多い「超独身国家」なのである。国勢調査1920年からであるが、それ以前に人口が今より多かったことはないので、これは、日本史上はじまって以来、独身人口がもっとも増えた最高記録を打ち立てたことになる。
■将来、既婚者と独身者はほぼ半々になる
 国立社会保障・人口問題研究所(以下、「社人研」という)の2018年時点の推計では、2040年は有配偶者53%に対して、独身者47%とほぼ半々となるとしている。
 有配偶人口が2000年をピークに減少しているのとは対照的に、独身人口は1980年代から急速に増加している。若い未婚人口の増加だけではなく、長寿化による高齢独身の増加もあるからだ。「日本はソロ社会になる」が決してデマでも大袈裟でもないことがおわかりいただけるだろう。
 有配偶人口が減るのは致し方ない。それでなくても、2020年の生涯未婚率(50歳時未婚率)は男性が28.3%、女性17.8%とこれも過去最高である。
 婚姻件数は、もっとも多かった1972年の約110万組に対して、2021年は約50万組と半減以下である。結婚が少なくなれば出生数も減る。2021年の合計特殊出生率は1.30であり、出生数は約81万人と、これも1899年以来の人口動態統計の中の最低記録である。
■「子育て支援」をしても子どもは増えない
 政府は少子化対策と称して、「子育て支援の充実」を声高に叫ぶが、残念ながら、子育て支援少子化対策にはならない。今までも徹底して子育て支援の政策メインにやってきたが、出生数は右肩下がりであることが何よりの証拠である。
 何も子育て支援に反対や否定をしているのではない。むしろ、子育て支援少子化があろうとなかろうと常時やるべきものであり、未来を担う子どもたちに投資をするのは当然だ。しかし、子育て支援をどんなに充実化させても、出生数を増やすことは物理的に無理なのである。
 現在の母親が決して子どもを出産していないわけではない。今でも結婚した夫婦は2人以上の子どもを産んでいる。一人の母親が産む子どもの数の比率は1980年代とほぼ変わっていないし、むしろ3人以上の出産の比率は、第二次ベビーブーム期の1970年代より多いくらいだ。私が「少子化ではなく少母化だ」と繰り返し言っているのはそのことである。
 出生数が減るのは、子を産む対象である49歳以下の女性の絶対人口が減っているからで、その直接の原因は、1990年代後半に来るはずだった「消えた第三次ベビーブーム」による。ただでさえ未婚化で結婚する女性の数が減っているのに加えて、絶対人口そのものが減っているのだから、どう逆立ちしても出生数が増えるはずがないのである。
■未婚化、少母化、高齢者の多死化は止められない
 少子化による人口減少の危機が叫ばれるが、そもそも日本の総人口自体がすでに減少しはじめており、その大きな要因は少子化よりも高齢者の多死化によるものでもある。
 長寿国家日本では、昭和~平成にかけて、世界でも稀に見る死亡率の低い「少死国家」であった。とはいえ、不老不死ではないわけで、いつかは天寿を全うする。
 こちらも、社人研の推計によれば、今まで長生きしてきた高齢者たちが毎年150万人以上50年連続で死んでいく多死時代に突入する。日本の出生は今後も最大で年間約80万人程度だとするなら、生まれてくる数の倍の死亡者がいることになる。人口が減るのは当然なのだ。実際、2100年には日本の人口は今の半分に減るだろう。
 未婚化、少母化、高齢者の多死化という3つの要素によって「ソロ社会」は不可避な現実となる。これは、子どもの数の減少であるとともに、家族の数の減少にもなる。婚姻減、出生減なのだから当然の帰結だ。単身世帯が増え、独身が増える。まさに社会の個人化である。
 この流れは止められない。政府の政策でなんとかなるものでもない。我々の価値観や意志によって変えられるものですらない。これはある意味では「パンデミック」と言えるかもしれない。2020年春に、瞬く間に全世界に感染爆発したコロナウイルスとは違い、長い世代時間をかけて、徐々に広がっていく。「ソロ・パンデミック」というものかもしれない。
■ソリッド(固体)社会からリキッド(液状)社会へ
 ドイツの社会学ウルリッヒ・ベックは、すでに1990年代において「家族は、資本主義社会での心のよりどころだった。だが、個人化によって家族はリスクの場に変わりつつある」と分析し、従来の伝統的な共同体であった家族は、「すでに死んでいるが、依然として形だけは生き残っているゾンビカテゴリー(死に体カテゴリー)」とまで表現している。日本の高度経済成長を支えた終身雇用はすでに崩壊しているが、家族もまた「終身家族」ではなくなっていくのだ。
 ベックと並び称される社会学ジグムント・バウマンも同様に、「社会の個人化」について言及している。かつては、地域や職場や家族といった安定した共同体の中でまとまって暮らすソリッド(固体)社会の仲に個人は属していたが、現代の社会は、各個人が動き回るリキッド(液状)社会となったと表現した。
 地域・職場・家族という固体的集団共同体で生きるソリッド社会では、相応に制限や我慢が必要で、不自由を感じることもあったであろう。しかし、そうした不自由を補って余りある安心・安全・安定が提供されていたことも事実である。
 リキッド社会においては、人々は自由に動き回れる反面、つねに選択や判断をし続けなければいけない自己責任を負わされることになる。まさに現代において各個人に突き付けられた問題といえる。
■居場所さえあれば安心できるのか? 
 「居場所がない」と嘆く人たちがいる。しかし、居場所さえあれば安心なのだろうか。そもそも、かつてのような安心を提供してくれる居場所や所属先など、今となっては存在しない虚構や昔話になってないだろうか。「どこかに所属すれば、どこかに居場所があれば安心だ」という幻想に縛られ、ゴールも何もない荒野をたださまよい歩いてやしないだろうか。
 「所属するコミュニティ」が崩壊する過程の中で、個人主義化が進み、婚姻制度や家庭の価値観が崩壊していと予言したのはチェコ生まれの経済学者ヨーゼフ・シュンペーターである。彼はそれを「社会のアトム化」と呼んだ。
 確かにその通りに、日本だけではなく、世界で未婚化や少子化が進んでいる。シュンペーターは、その原因を資本主義体制による功利主義や競争心によるものだとして、資本主義は崩壊するだろうとも予測したが、その予測は現在もなお的中はしていない。
 もちろん、行き過ぎた資本主義による歪みは至る所で顕在化している。経済的な格差は存在するし、その経済的格差が親から子へ遺伝するという世代を超えた「親ガチャ」と呼ばれる不平等もある。
■土地、労働、資本の新たな組み合わせが求められている
 しかし、だからこそいみじくもシュンペーター自身が資本主義を定義した時に使用した「イノベーション」の概念が重要になってくる。このイノベーションという言葉はシュンペーターが用いたことで有名なのだが、通常ビジネス的には「技術革新」などと訳されている。
 革新という言葉から、古い技術や考え方を壊して、新しいものへと刷新するというスクラップ&ビルドのような印象があるが、シュンペーターの定義はそうではない。彼の主著『経済発展の理論』によれば、「資本主義経済においては、土地、労働、資本という生産要素の組み合わせで財やサービスを生み出す。この組み合わせのあり方を変化させることが新結合というイノベーションである」と言っている。
 彼はこれを資本主義の経済発展をもたらすものとして使っているが、この「新結合」という考え方は、これからの我々のひとりひとりの生き方や「個人化する社会」における人とのつながりという面において、流用可能な考え方だと思う。
■唯一の「居場所」ではなく、複数の「出場所」を増やす
 何も昔のものをすべて破壊も否定もする必要はない。全く新しいものをゼロから発見、発明しなくてはいけないものでもない。すでに存在するものを従来の概念とは違った視点でとらえなおし、本来組み合わせるものではないものを組み合わせてみたり、何かを付加することで、より良いものへと新結合していくという考え方である。グレードアップでもアップデートでもなく、シュンペーターの言葉通り「新結合」である。
 世界的な少子化や人口減少は不可避である。しかし、それは絶望の未来ではない。「社会の個人化=ソロ社会化」が進むからといって、個人がバラバラに生きる社会になるわけではない。人とのつながりは「所属するコミュニティ」だけではない。
 所属から「接続するコミュニティ」へ。唯一の「居場所」だけに依存するのではなく、複数の選択できる「出場所」の充実へ。我々の周りの外敵環境そのもの構造変化が待ったなしの未来に向けて、どう適応していくべきか?  そろそろ一人一人が考え、動き出す時が来ているのである。
 「できもしないことをさもできるかのように言う」政治家もいるが、台風が来るとわかっているのにその準備をしないまま見過ごすことの方が絶望の未来への道だろう。

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 荒川 和久(あらかわ・かずひさ)
 コラムニスト・独身研究家
 ソロ社会論及び非婚化する独身生活者研究の第一人者として、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・Webメディアなどに多数出演。海外からも注目を集めている。著書に『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』(小学館新書)、『知らないとヤバい ソロ社会マーケティングの本質』(ぱる出版)、『結婚滅亡』(あさ出版)、『ソロエコノミーの襲来』(ワニブックスPLUS新書)、『超ソロ社会』(PHP新書)、『結婚しない男たち』(ディスカヴァー携書)、『「一人で生きる」が当たり前になる社会』(中野信子共著・ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。

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