¥4〉─3─国家・集団をダメにする原因は無能なリーダーではなく成功パターンである。~No.12No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昭和54(1979)年 『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)著者 社会学エズラ・ヴォーゲルで、日本人は低脳になった。
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 2023年4月23日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「無能なリーダーよりも「集団をダメにする」意外な原因
 ヘンリー・ジー,竹内薫
 「この成功法則の通りにやれば、うまくいきます」。この世には、そんな「ハウツー」や「メソッド」があふれている。それらを習得することは、仕事や人生をうまくいかせる上で、ある程度は有効だ。しかし、次に何が起こるか予測不可能な今の社会では、「成功パターン」に頼りすぎることはむしろリスキーだと、サイエンス作家・竹内薫さんは語る。
 今回は、「地球の誕生」から「サピエンスの絶滅、生命の絶滅」まで全歴史を一冊に凝縮した『超圧縮 地球生物全史』(王立協会科学図書賞[royal society science book prize 2022]受賞作)の翻訳を手がけた竹内薫さんに、ビジネスパーソンが抱く悩みを、生物学的視点から紐解いてもらうことにした。
 生命38億年の歴史を超圧縮したサイエンス書として、ジャレド・ダイアモンド氏(『銃・病原菌・鉄』著者)にも「著者は万華鏡のように変化する生命のあり方をエキサイティングに描きだす。全人類が楽しめる本だ!」と言わしめた本書を読み解きながら、人間の悩みの本質を深掘りしていく。あらゆる困難に直面しながら絶滅と進化を繰り返してきた生命たちの奇跡の物語は、私たちに新たな視点を与えてくれるはずだ。本稿では、「コミュニティを成功に導くリーダーの定義とは?」をテーマに、お話を伺った。(取材・文/川代紗生)
 © ダイヤモンド・オンライン
 「理想のリーダーがいればOK」という勘違い
――こういう個体がリーダーになると、そのグループは生き残りやすい、というような、成功パターンのようなものはあるのでしょうか?
 竹内薫(以下、竹内):「これさえあれば」という成功パターンを断言するのは、なかなか難しいと思います。
 たとえば、小さな群れを作って行動する動物も、狩りで怪我をしてしまったとか、他のグループとの縄張り争いで、一匹欠けてしまったとか、あるいは、いつも使っている水飲み場が干上がってしまったとか、偶然が重なり、グループの力が急激に弱くなってしまうこともありますよね。
 彼らのそういう様子を見ていると、「理想のリーダーがいて、ある程度優秀なメンバーが揃っていればうまくいく」というものではないような気もするんです。
 つまり、グループがうまくいくか、うまくいかないか、というのは、比較的、偶然の要素が大きいのではないかと。
――なるほど。偶然の要素ですか。
 竹内:人間社会でも、新型コロナウイルスの影響で潰れてしまった企業はたくさんありますよね。きちんと運営できていて財務上の問題もなかったはずが、コロナ禍を経て、急激にうまくいかなくなってしまった。
 僕たちは、なんとなく、「理想的なリーダーがいて、メンバーが真面目にやっていればうまくいくんだ」というふうに思いたいわけですが、実は、外部要因の影響は思っている以上に大きく、それに抗うのは難しいと思うのです。
 「成功パターン」にこだわる集団は消えていく
――どうしても、再現性の高いメソッドや、「こうしたらうまくいく」みたいな成功法則を探したくなってしまうものだと思うのですが、そういう考え方そのものが危うい、ということでしょうか?
 竹内:たしかに、ある一定の時期は、その成功パターンでうまくいくと思います。ですが、その成功パターンが使い物にならなくなるタイミングは、意外と早くやってくるんですよね。
 たとえば、ほとんどの会社が、100年も経たないうちに潰れてしまいます。2022年に倒産した企業の平均寿命は23.3年で(東京商工リサーチ調べ)、たいていは、100年も経たないうちに倒産してしまう。
 それはなぜかというと、いったん成功すると、その成功パターンにこだわり続けたくなってしまうからです。
 うまくいった事例があるのだから、これに則って行動すれば間違いはない、むしろ、その成功パターンから外れたやり方をするほうが、リスクが高いように思えてしまう。そうやって、過去のやり方に固執しているうちに、世界の変化に乗り遅れてしまうのです。
 逆に、100年以上続いて、まだ勢いがある会社というのは、異業種に打って出るなど、どこかで大きな改革をやっているわけです。
――最近はとくに世の中が変化するスピードがすさまじく速いですよね……。
 竹内:僕は、「成功パターン」とは諸刃の剣だと思っています。たしかに、一つの成功パターンで、10年、20年程度はうまくいくだろうけど、そればかりやっていると、あっという間に時代に取り残されてしまう。
 だから、そのときの環境に合わせて臨機応変にやっていくしかないのではないかな、と。動物たちを見ていても、そうですよね。
 リーダーの頭が硬く、「今までここでうまくいってたんだから、この狩り場でずっとやっていくんだ」と過去の成功パターンに固執していたら、水を飲む場所も獲物もいなくなり、結果的にはみんな死んでしまう。
 別の場所に行ったところで、当然、別の縄張りを持つ他のグループと戦ったりもするでしょうけど、結局、常にサバイバル意識を持って柔軟に動けるボスがいる集団ほど、生き残りやすい。
 矛盾するようですが、グループを成功に導くリーダーに必要なのは、「過去の成功パターンをすぐに捨てられる」柔軟さなのではないか、と思います。
 生物学から「フラットな視点」を学ぶ
――「成功パターン」に頼りすぎない、フラットな視点を磨くためにも、生物学を学んでおきたいな、とあらためて思いました。
 竹内:人間社会でも、「いい大学に入って、大企業に入れば人生安泰」みたいな成功パターンが、どんどん崩れてきていますよね。
 人間はどうしても、そういう過去の成功パターンで動いてしまう人が大部分なんです。でも、実際には「成功パターン」って、「未来の成功パターン」ではないわけです。必ずしも未来に当てはまるとは限らない。
 その点、生物学の世界をのぞいてみると、動物たちは成功パターンに頼るよりも、「今、この環境で自分たちはどう生きていくべきか」をとてもシビアに見ているんです。
――繁殖に成功した生物たちが、あっという間に絶滅したりしていますよね。
 竹内:地球の広大な歴史を知ると、世界の見え方が変わるはず。「これから、自分が何をするべきか」も、よりクリアに見えるようになるのではないかと思います。
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🌅2〉─8・B─檀家制度は人口激減で崩壊し始めた。それは第8次宗教改革の始まりである。〜No.15 

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 2023年4月20日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「「過疎化で檀家減少」が寺だけの問題で済まぬ事情 ガバナンス欠如で脅かされる「信教の自由」
 中島 隆信
 人口減少による過疎化でお寺の経営は危機的状況にあるようです(写真:IYO/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 人口減少による過疎化で檀家が減少し、地方では経営危機に直面しているお寺もある。人口減少による経営危機は地方の商店なども同様だが、お寺に限っては、単に1つのお寺がなくなるというだけでは終わらないという。
 『お寺の行動経済学』の著者、中島隆信氏が、「お寺の経営問題とそれが私たちの生活にどのように影響するか」を解説する。
葬儀や法事をしない人が増えている
 経済ダーウィニズム(Economic Darwinism)という言葉をご存じだろうか。自然界の自然淘汰(natural selection)と同様、環境の変化に適応できない経済主体は社会から消え、適応可能な主体へと切り替わっていく現象のことをいう。
 【グラフ】「女性の生涯未婚率」東京を抜き1位の「意外な県」
 もちろん、その過程ですべての事業者が姿を消していくわけではない。時代の変化を的確にキャッチし、組織変革を怠らない事業者は自然淘汰の波に飲み込まれることはない。
 ただ、そのためには組織を統治するしくみ、すなわちガバナンス・システムがしっかり機能していなければならない。
 いまの日本が直面している最大の環境変化のひとつは、人口減少とそれに伴う地方の過疎化と都市部への集中といっていいだろう。
 産業によっては、人間の頭数が減っていくことの影響をもろに受けるところも多いはずだ。葬儀や法事といった仏事を事業の中心とする日本のお寺はその最たるものだろう。
 「日本は高齢者が多いから仏事が減ることはない」と考える人もいるが、それは大きな間違いだ。なぜなら、葬儀や法事は亡くなった人ではなく、遺された人たちが行う儀式だからである。
 実際、近年、引き取り手のない遺骨を自治体が無縁納骨堂に安置するケースが増えているという報道もある。
 以下では、現在の環境変化によってお寺の経営が大きく揺らぎ、それが社会に深刻な影響を与える可能性について述べる。そして、その背景には、組織改革をはばむ日本の仏教界特有のガバナンス・システムがあることを指摘したい。
 跡継ぎのいないお寺はどうなる
 お寺をとりまく環境の変化は、地方と都市に分けて考える必要がある。地方の過疎化は出生率の低下よりも都市部への人口の流出によって引き起こされている。これは檀家によって支えられているお寺の経営を直撃する。
 よくある人口流出のケースは、進学のために地元を離れた子どもたちが卒業後に戻ってこないというものだ。だが、それだけでは檀家の寺離れは起きない。実家がまだ残っているからだ。
 お寺にとって大事なことは、実家の両親が他界したあと、子どもが実家に戻ってくるかどうかである。もし、子どもが都市の公営墓地などと契約すれば、実家の墓はほぼ放置された状態になってしまう。
 こうした現象は檀家数の減少につながるため、お寺の経営を悪化させる。一般に、住職がお寺の運営一本で生計を成り立たたせるためには、200軒ほどの檀家が必要とされる。
 現在の檀家寺の住職はほとんど世襲になっているため、実家のお寺の経営が傾けば、その子どもは後を継がず別の仕事に就くだろう。
 跡継ぎがいないお寺のとるべき選択肢は、以下のいずれかである。
①所属する宗派に跡継ぎを派遣してもらう
②知り合いの住職に代表役員を兼任してもらう
③寺仕舞いをする
 このとき、最も一般的なのは檀家を説得しやすい②である。これらのいずれもできなければ、檀家ゼロ、住職不在、境内荒れ地、建屋ボロボロで、宗教法人格だけ亡霊のように残ることになる。
 都市部では人口が減ることはないので、お寺の経営も安泰と思われがちだがそうではない。都市は地方と違って住民の定着率は低く、地域住民のつながりが希薄である。したがって、住民同士が必要なサービスを提供し合うより、市場に任せる傾向が強くなる。
 こうした傾向はお寺の経営基盤の弱体化につながる。元来、お寺は地域コミュニティの中心であり、住職はそのなかで「顔役」的な役割を果たしてきた。そのため、仏事は檀家と住職の人間関係の上に立って行われるやりとりであって、その内容や金額は両者の「阿吽の呼吸」で決まっていたのである。
 ところが、都市部におけるサービスは、人間関係に頼るよりも、後腐れのないドライな市場経済に委ねられる。たとえば、地元の商店街で店主とあれこれ世間話をしながら買い物をするのではなく、スーパーに出かけて値札を見ながら必要な物を買ってくるという感じだ。この図式が葬儀にもそのままあてはまるようになったのである。
 そうなると「布施はお気持ちで」などと言ってくる住職と面倒なやりとりをするよりも、「イオンのお葬式」などに頼んだほうがわかりやすくて便利と考える人が増える。宗派や予算を伝えれば、業者が相応しい葬儀の形を整え、僧侶も呼んでくれる。仏式葬儀といいながらも本来主役である僧侶は業者の下請けのようになっているのだ。
 都会のお寺のなかには、こうした市場化の流れに乗ろうとするところも出てきている。日本では墓地の経営は、自治体、宗教法人、公益法人に制限されている。つまり、葬儀と違って民間の営利業者が参入してくる心配はない。
 しかも、都市部は人口密度が高いため、墓地や墓苑のための土地が不足している。そこで、お寺の立地を生かしてビルを建て、そこに機械式の納骨堂を入れれば顧客ニーズと合致するだろう。
 さらに、対象を広くするため、宗派は不問とし、専修念仏を唱えた法然開宗の浄土宗だろうが、その法然を『立正安国論』で散々こき下ろした日蓮開宗の日蓮宗だろうが一切関係なく、取引に応じるとしている。ビルの建設費は葬儀社や墓石店が肩代わりし、お寺は納骨堂の販売代金で返済するというしくみである。
 ガバナンスの脆弱性がもたらす問題
 宗教法人は他の非営利組織と異なり、憲法20条【信教の自由】によって行政の介入が制限されている。つまり、何か問題が起きたときには自助努力で解決しなさいということだ。
 過疎化による寺院活動の消失は、単にお寺が1カ寺消えるだけの話ではない。なぜなら、実体のない宗教法人格がそのまま残っているからである。
 たとえば、ある宗教法人の代表役員を務める住職が、衰退する寺の運営を諦め、その法人格を売りに出したとしよう。宗教法人には法人税や固定資産税の免除規定があるが、その認証を受けるためには自治体からの厳しいチェックを受ける必要がある。
 だが、売りに出された法人格を手に入れれば、面倒な認証を回避して免税の特典を手に入れることができてしまうのである。
 この問題をさらにややこしくしているのは、宗教活動に税法上の定義がないためである。先に述べたビル型納骨堂についても、宗派不問と宣言した時点でもはや宗教活動といえるかどうか疑問である。遺骨を預かり管理料を徴収するだけならば、トランクルームと業務内容はほぼ同一と思われても仕方ない。
 ガバナンス・システムの崩壊がもたらす悪影響
 このように、お寺が宗教法人格の売却や宗派不問のビジネス展開など好き勝手をやっていることに対して、そうしたお寺の所属する宗派は何の手立ても講じないのだろうか。宗派の本部の話では、苦々しく思ってはいるものの注意喚起を促す程度しかできないという。
 その背景には、明治以降に肉食妻帯が許されたために住職の世襲化が進み、さらに戦後の宗教法人法によってすべての寺院に法人格が与えられたことがあげられる。その結果、宗派の本部といえども所属寺院の所有する財産に対する請求権や住職の人事権を持っていないのである。
 仮に本部が厳しい態度で臨んだとしても、お寺には「単立化」という奥の手がある。要するに、宗派を離脱するということだ。こうなると本部は手出しができない。
 信仰の内容を勝手に変えていいのかと疑問を持つ向きもあるだろうが、憲法の定めた信教の自由を盾とすれば、自治体の介入を阻止することができるのだ。これは「糸の切れた凧」ともいうべきガバナンス・システムの崩壊である。
 憲法20条【信教の自由】は、戦時中に国家神道への帰順を強制されたことへの反省を込めて制定された。そして、私たちは誰に遠慮することなく、自らの望む信仰心を持つことができるようになった。
 だが、日本の環境変化がお寺の経営基盤を揺るがしたことで、この条文を都合よく解釈する法人が次々と現れている。もし、この状態を放置すれば、行政の介入を許し、憲法によって保障された信仰上の選択の自由を失いかねない。私たちはこのことを肝に銘じておかなければならない。
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 徳川幕府の宗教統制政策である檀家制度と寺請制度は、キリスト教禁教令とキリシタン弾圧そして日本式仏教寺院から信仰宗教としての敬虔的布教意欲を奪い退廃的葬式宗教へと堕落させた。
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 歴史的大事件として、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルクス主義共産主義キリスト教会が廃止しようとした世界で唯一の民族的檀家制度が、今ようやく崩壊し消滅しようとしている。
 戦後民主主義教育は、日本を解放する為に、日本民族の家・家制度を象徴であった檀家制度を否定してきた。
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 ウィキペディア
 檀家制度(だんかせいど)とは、ある寺院がそれぞれの檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた寺と檀家の関係をいう。寺請制度(てらうけせいど)、あるいは寺檀制度(じだんせいど)ともいう。江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つ。
 概要
 檀家とは檀越(だんおつ)の家という意味である。檀越とは梵語ダーナパティ(dānapati)の音写であり、寺や僧を援助する庇護者の意味である。例えば飛鳥時代において、蘇我氏秦氏といった有力な氏族または一族が檀越となって寺院(氏寺)を建立し、仏教・諸宗派を保護した。ここで特に檀家という場合には、それまで有力者の信仰対象であった仏教が、広く社会に浸透し、氏族単位が家単位になったということである。檀家という言葉自体は鎌倉時代には既に存在していたが、現在の意味合いになるのは荘園制の崩壊によって寺院の社会基盤が変化してからである。そして江戸時代の宗教統制政策の一環として設けられた寺請制度が檀家制度の始まりである。

 禁教令と寺請制度
 詳細は「禁教令」および「寺請制度」を参照
 江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる。武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がった。また、後に仏教の中でも江戸幕府に従う事を拒否した不受不施派も寺請制度から外され、信徒は仏教徒でありながら弾圧の対象にされることになる。
 これら寺請の任を背負ったのは、本末制度における末寺である。1659年(万治2年)や1662年(寛文2年)の幕法では、幕府はキリシタン改の役割の責任を檀那寺と定めている。後にはキリシタンと発覚した人物の親族の監視も、檀那寺の役割と定められた。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていくことになった。
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 寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。
 その目的において、邪宗門とされたキリスト教不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。
 内容
 具体的には、仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。
 一方、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなった。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。
 また、民衆の側からすれば、世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で寺請制度が受け入れられたとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域で江戸時代に存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として社会へ定着していったとみられている。
 寺請証文
 寺院は檀家に対して自己の檀家であることを証明するために寺請証文(てらうけしょうもん)を発行した。寺請状(てらうけじょう)、宗旨手形(しゅうしてがた)とも呼ばれる。
 寺請制度では、毎年1回の調査・申告によって宗門人別改帳が作成された。これに基づいて寺請証文が発行され、人々が奉公や結婚その他の理由で他の土地に移る場合には、移動するものの年齢・性別・所属・宗旨などを記載して村役人の送一札とともに移転先にある新たな檀家寺に送付して移転の手続とした。移動元から移動先に送る証文を宗旨送・寺送状と呼び、本人確認後の証明として移転先から移転元に送る証文を引取一札(ひきとりいっさつ)と呼んだ。
 ただし、檀徒が信徒としての責務を果たせないと寺から判断された、あるいは逃散ないし逃亡し消息不明となった場合は、寺は寺請証文の発行を拒否することができた。事実上の檀徒除名であり、後日、宗門人別改帳からも削除されて無宿や非人となり、社会生活から除外された。
 詳細は「除名#檀家の除名」および「檀家制度#檀家制度の確立」を参照
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 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師囲碁将棋師に関する事項をも扱った。

 江戸幕府では初め、慶長17年(1612年)に以心崇伝(僧侶)・板倉勝重(還俗者)に社寺に関する職務にあたらせたが、具体的な役職は設置しなかった。将軍徳川家光時代の寛永10年(1633年)、板倉勝重の没後、専任で社寺に関する職務にあたっていた崇伝が死去し、社寺の担当者が不在となった。そのため寛永12年(1635年)、社寺や遠国における訴訟担当の諸職として寺社奉行が創設された。諸職ははじめ将軍直轄であったが、老中制の確立とともに老中の所管となり、将軍徳川家綱時代の寛文2年(1662年)に将軍直属に戻る。定員は4名前後、自邸が役宅となり、月番制。勘定奉行町奉行と並んで評定所を構成した(いわゆる三奉行)。
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 諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)とは、寛文5年7月11日(1665年8月21日)に江戸幕府が仏教の諸宗派・寺院・僧侶の統制を目的として出された法令。将軍徳川家綱の朱印状の形式がとられた「定」9か条と、老中連署の下知状の形式とられた「条々」5か条から成る。
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 寺院諸法度(じいんしょはっと)は、江戸時代に、江戸幕府が仏教寺院に対して定めた諸法度の総称である。ただ、定まった呼称はなく、文献によっては「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」・「諸宗諸本山法度(しょしゅうしょほんざんはっと)」などの呼称が用いられる事もある。
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 諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)とは、江戸幕府が寛文5年(1665年)7月に、宗教統制政策の一環として全国の神社や神職を統制するために下した、全5条からなる法令である。諸宗寺院法度と同年に発布された。神社条目とも。
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 2019年10月21日 東スポWEB「“坊主丸儲け”は今や昔…檀家制度崩壊で寺院消滅危機
 “坊主丸儲け”という言葉があるが、檀家制度の崩壊、お布施ダンピングによる収入減などで、寺院消滅危機を迎えているという。
 宗教ジャーナリストは「文化庁調査で現在、日本国内の寺院は約7万7000。そのうち、地方を中心に約2万寺が住職がいない無住寺。無住寺は年々増え続け、20年後には896の地方自治体で寺院が消滅すると言われています。檀家制度の崩壊が引き金になってますよ」と語る。
 檀家とは、特定の寺に属し、葬祭供養や墓の管理を行ってもらう家のこと。檀家が寺を経済的に支援するのが檀家制度だ。寺を維持する檀家数のボーダーラインは300軒前後と言われているが、地方の過疎地では300軒以下の寺が約8割を占めるという。
 冠婚葬祭業者は「過疎地に限らず、地方から関東圏に移り住んだ人たちの中には、墓参りの出費や維持費などの経済的な理由から、先祖代々受け継がれてきた墓を改葬(墓から遺骨を取り出して別の場所に移すこと)して、離檀するケースが増えているんです」と明かす。
 厚生労働省の衛生行政報告例によると、20年近く前に6万6634件だった改葬数が、17年度には10万4493件と増加の一途。改葬後は、経済的理由から「納骨堂」に納めるケースが大半だという。
 「離檀だけではありませんよ。寺院収入のメインになるお布施の額が、僧侶派遣業者の出現でダンピングしているんです」(都内の元住職)
 お布施の額は宗派や地域で異なるが、通夜、告別式、戒名代を含めた葬儀一式で約30万~50万円が相場。しかし、大手僧侶派遣業者は最安値で3万5000円。10分の1の金額で葬儀ができる。
 前出の冠婚葬祭業者は「檀家が減ったことでお寺を手放した僧侶が急増しています。僧侶は雇用保険に加盟しているわけでもなく、退職金もない。フリーランスとして僧侶派遣業者に加盟するしかないんです」と言う。
 僧侶派遣業者はお布施の3割を手数料として取るが、中には5割以上取る業者もいて、貧困僧侶が続出している。日本人の“仏教離れ”が進んでいるだけに寺院消滅危機は深刻だ。
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🎴4〉─8─2040年には人口の半分が独身。ソロ社会で子供達に居場所がない。〜No.36No.37 

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 2023年4月18日 YAHOO!JAPANニュース HugKum「2040年には人口の半分が独身!?確実にやってくる〝ソロ社会〟。子どもたちに「居場所がない」と言わせないためには?
 確実にやってくる〝ソロ社会〟へ適応するためのヒント
 2040年には人口の半分が独身者になるとのデータもある
 2022年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)が統計開始以降初めて80万人を下回ったことが厚生労働省の人口動態統計(速報値)で分かり、これまでの推計より10年ほど早いペースで少子化が進んでいるとニュースになりました。当然ですが、少子化は人口減少を促し、2040年には人口の半分が独身者になるとのデータもあります。生まれたばかりの子が高校生になる頃、私たちは誰も見たことのない〝ソロ社会〟を生きることになるのです。
 それでも人は、何らかのカタチでコミュニティにつながり、幸福だと思える人生をおくりたいもの。では私たち大人は、その方法をどう体得し、子どもたちに見せ、伝えていけばいいのでしょうか?
 もはや家族をもつとかもたないとか、産むのか産まないのかといった、従来のコミュニティへの固定観念や考え方を手放すタイミングに、私たちはいるのかもしれません。確実にやってくる〝ソロ社会〟へ適応するためのヒントを、最新著書『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』を上梓したばかりの荒川和久さんに聞いてみました。
 「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではない
 日本は「高齢者」よりも「独身者」が多い
 私は以前より「ソロ社会での生き方」について言及してきており、企業や自治体から「人のつながり」というテーマで講演依頼をいただくことが多いんです。「一人で生きる」ではなく、「人とつながる」・・・・・不思議に思われますよね。
でも実は、「一人で生きる」ことと、「人とつながる」こととは、別物ではないんです。そもそも「人とつながる」ということも、必ずしも「誰かと一緒に生きる」ということと同義ではありません。
 日本に限らず、多くの国で、人々の生活基盤として「所属するコミュニティ」があります。大きな分類でいえば、「地域」「職場」「家族」という3つのコミュニティです。
 地域とは、かつてムラ社会と呼ばれたように、ひとつのムラに住む者同士が互いに親密に、いわばひとつの家族のように助け合って生きてきました。しかし、今でも一部の地方で名残りがあるものの、都市への人口流出や高齢過疎化によって、ムラ自体の多くが消滅に向かっています。
 地域に代わって、コミュニティの中心的役割を果たしたのが、職場です。かつては多くの企業で独身寮が完備され、既婚者や家族のためには全棟借り上げの社宅まで用意されていました。また会社は社員を家族同然の終身雇用で厚遇し、社員はそれに報いるために滅私奉公するという、「家族」的なコミュニティの意味合いも含まれていました。しかし、それも平成から令和へと変遷する中で、地域コミュニティ同様、一部の中小企業を除けば、ほぼ消滅しかかっています。むしろ、「社員のプライベートに立ち入ってはいけない」という風潮の方が強まってきました。
 この2つのコミュニティの変遷により、「家族」のカタチも変わりました。かつて昭和の時代は、ひとつのテレビで家族全員が同じスクリーンを観ていましたが、今では個人がスマホというスクリーンを所有し、個人の部屋で個人がバラバラのスクリーンを観ています。
 つまり、代表的な3つのコミュニティすべてが、現在では崩壊しつつあるのです。別のいい方をすれば、「今まで提供されてきた安心な居場所の崩壊」です。
 「所属するコミュニティ」に共通するのは、「囲われた中の安心」でした。その囲いの中に自分の身を置き、居場所を得ることこそが安心でした。
 しかし「囲われた中だけは安心だ」という信念が強すぎるがゆえに、唯一の居場所に固執し、依存するという弊害も生みます。同時に、安心と引き換えに、所属員としての掟やしきたりに従うという制限を受け入れることにもなります。そう、「所属するコミュニティ」とは、自由と引き換えに安心を手に入れるものであり、対立と引き換えに身内の結束を強固にするものなのです。
 肝に銘じておかなければいけないのは、「所属するコミュニティ」は決して永続的なものではないということです。退職すれば職場の所属からは離脱しなければならないし、家族であっても離婚や死別はあり得る。子どもとて、いつまでも親元にいるわけではありません。
 個人化する社会においては、誰もがいつか「一人」になる
 「居場所がない」と嘆く人がいます。学校や家庭の中に居場所のない若者のほかに、職場や地域の中に居場所を見出せない高齢者もいるでしょう。場合によっては、家の中に居場所のないお父さんもいるかもしれません。しかし、そうした人にとって本当の解決策とは、居場所があればいいということなのだろか? と私は思うんです。
 これまでの居場所=コミュニティでは、一定の枠内という制限があるにせよ、進むべき安全な道が提示されていました。ところが居場所が崩壊した今、人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくします。
 私たちが迎えつつある社会は、そういう「個人化する社会」そのものなんです。昨今の非婚化や離婚の増加は、まさに「選択の自由を個人が得た」結果でしょう。独身者だけに関わる話ではありません。好むと好まざるとにかかわらず、結婚しても家族がいても、誰もがいつかは一人に戻る可能性があるわけなのですから。
 ではどうやって、人、またはコミュニティにつながればいいのか?そこで私が提案したいのが、「接続するコミュニティ」という視点です。
 コミュニティには「所属」ではなく「つながり」に行く
 は? と思いますよね。コミュニティとは、所属するものであって、その帰属意識が人々に安心を提供するものだと考えられているから。でも、そうでしょうか? 本当に所属をしなければ、人とのつながりは生まれないのでしょうか?
 私の答えは、否、です。
 たとえば、趣味のコミュニティなら、趣味を行う時だけそのメンバーと接続していますよね。それ以外の時間に相手がどんな仕事をしているとか、どんな生活をしているとかは気にしないでしょう。ところが趣味の集まりの時間は、協力したり、共に喜びを分かち合ったりしているはず。これが「接続」です。
 こういうつながり方なら、ひとつのコミュニティがなくなっても、自分自身を見失うことはなくなります。むしろ時間が経つにつれて、「接続するコミュニティ」がすべて入れ替わることもあるでしょう。さらに、「所属するコミュニティ」とは違って単発的な関わりもOKですし、継続性すらなくてもいい。必要なのは、接続するために自ら出向くこと、そう、その「場所」に「出かける」ことだけです。そこに行くという行動をすることで、ちょっとだけ前向きになっていることって、ありませんか?  私はそれを「居場所」に対して「出場所」と呼んでいます。
 友達や趣味がなくても、誰かと接続する機会は案外たくさん見つかる
 場所に縛られる必要もありません。散歩や読書、という行動もそう。その際、できれば、自宅で本を読むより、ファミレスでもカフェでも公園でもいいので、どこかいつもの居場所と違う場所に「出かける」ことで、より一層「出場所」感が増します。同様に、映画館で映画を観ることも、コンサートやライブ、寄席などに行くことも「出場所」になる。「人と会う、人と話す」という行動もそれ自体が「出場所」になります。「そんな友達などいないし・・・・」と悲観する必要はありません。必ずしも、気心のしれた友達である必要はないのです。むしろ、まったく知らない赤の他人との刹那のつながりが、結果として自分に刺激をもたらす場合も多いはず。
 友達がいなくても、趣味などなくても、誰かと接続する機会は案外たくさんあります。重要なのは、静的な「安心な居場所」を作ることではなく、動的な行動をするための「出場所」の方なのです。
 どこかのコミュニティに所属することで、安心な居場所を求めることだけに固執するのではなく、接続点を多く持ち、自分自身の「出場所」を作っていく。その「出場所」において、誰かと出会ったり、何かと触れ合うことが、結果的に自分自身の内面に安心な別のコミュニティを次々と築いていくことにつながる。行動した分だけ、地層のように、それは自分の内面に積み重なっていく。行動し、体験したからこそ「あなたの中にたくさんのあなたが充満」することになります。
 「居場所がない」という子どもたちが増えているのだとしたら、それは大人たち自身が自分の「安心な居場所」だけに依存して、そこだけに子どもたちを閉じ込めようとしているからではないでしょうか。何より自分自身が「居場所」の呪縛にとらわれ、「居場所に独りぼっち」になってはいないでしょうか。
 ※本稿は、『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』の内容を一部修正加筆したものです。
 記事監修
 荒川和久(あらかわ・かずひさ)
 広告会社にて、自動車・飲料・ビール・食品など幅広い業種の企業業務を担当。独身生活者研究の第一人者として、国内外のテレビ・ラジオ・新聞・雑誌・WEBメディアに多数出演。著書に『結婚しない男たち』(ディスカヴァー携書)、『超ソロ社会』(PHP新書)、『結婚滅亡』(あさ出版)など。
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 4月19日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「日本は2040年には「人口の半分が独身者」になる…これから確実に到来する「超ソロ社会」という現実
 ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/maroke
 これからの日本社会はどうなるのか。独身研究家の荒川和久さんは「将来の日本は人口の半分が独身者となる超ソロ社会になる。未婚化と少母化が進む限り、この流れは止められない」という――。
 【図表】高齢者より独身者のほうが多い日本
 ※本稿は、荒川和久『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』(小学館新書)の一部を再編集したものです。
■高齢者以上に「独身者」が増え続けている
 「日本は、人口の半分が独身者となる超ソロ社会になる」
 もちろんそれは決して「オオカミが来るぞ」というデマを流しているものではない。事実、そうなるからだ。
 日本が世界一の超高齢国家であることは周知のことと思うが、2020年時点の国勢調査段階における65歳以上の高齢人口は約3600万人である。しかし、15歳以上の配偶関係別人口(不詳補完値)から、未婚・離別死別を合わせた全独身人口を割り出すと、約4930万人になる。約5000万人が独身なのだ。
 高齢人口より独身人口が多い「超独身国家」なのである。国勢調査1920年からであるが、それ以前に人口が今より多かったことはないので、これは、日本史上はじまって以来、独身人口がもっとも増えた最高記録を打ち立てたことになる。
■将来、既婚者と独身者はほぼ半々になる
 国立社会保障・人口問題研究所(以下、「社人研」という)の2018年時点の推計では、2040年は有配偶者53%に対して、独身者47%とほぼ半々となるとしている。
 有配偶人口が2000年をピークに減少しているのとは対照的に、独身人口は1980年代から急速に増加している。若い未婚人口の増加だけではなく、長寿化による高齢独身の増加もあるからだ。「日本はソロ社会になる」が決してデマでも大袈裟でもないことがおわかりいただけるだろう。
 有配偶人口が減るのは致し方ない。それでなくても、2020年の生涯未婚率(50歳時未婚率)は男性が28.3%、女性17.8%とこれも過去最高である。
 婚姻件数は、もっとも多かった1972年の約110万組に対して、2021年は約50万組と半減以下である。結婚が少なくなれば出生数も減る。2021年の合計特殊出生率は1.30であり、出生数は約81万人と、これも1899年以来の人口動態統計の中の最低記録である。
■「子育て支援」をしても子どもは増えない
 政府は少子化対策と称して、「子育て支援の充実」を声高に叫ぶが、残念ながら、子育て支援少子化対策にはならない。今までも徹底して子育て支援の政策メインにやってきたが、出生数は右肩下がりであることが何よりの証拠である。
 何も子育て支援に反対や否定をしているのではない。むしろ、子育て支援少子化があろうとなかろうと常時やるべきものであり、未来を担う子どもたちに投資をするのは当然だ。しかし、子育て支援をどんなに充実化させても、出生数を増やすことは物理的に無理なのである。
 現在の母親が決して子どもを出産していないわけではない。今でも結婚した夫婦は2人以上の子どもを産んでいる。一人の母親が産む子どもの数の比率は1980年代とほぼ変わっていないし、むしろ3人以上の出産の比率は、第二次ベビーブーム期の1970年代より多いくらいだ。私が「少子化ではなく少母化だ」と繰り返し言っているのはそのことである。
 出生数が減るのは、子を産む対象である49歳以下の女性の絶対人口が減っているからで、その直接の原因は、1990年代後半に来るはずだった「消えた第三次ベビーブーム」による。ただでさえ未婚化で結婚する女性の数が減っているのに加えて、絶対人口そのものが減っているのだから、どう逆立ちしても出生数が増えるはずがないのである。
■未婚化、少母化、高齢者の多死化は止められない
 少子化による人口減少の危機が叫ばれるが、そもそも日本の総人口自体がすでに減少しはじめており、その大きな要因は少子化よりも高齢者の多死化によるものでもある。
 長寿国家日本では、昭和~平成にかけて、世界でも稀に見る死亡率の低い「少死国家」であった。とはいえ、不老不死ではないわけで、いつかは天寿を全うする。
 こちらも、社人研の推計によれば、今まで長生きしてきた高齢者たちが毎年150万人以上50年連続で死んでいく多死時代に突入する。日本の出生は今後も最大で年間約80万人程度だとするなら、生まれてくる数の倍の死亡者がいることになる。人口が減るのは当然なのだ。実際、2100年には日本の人口は今の半分に減るだろう。
 未婚化、少母化、高齢者の多死化という3つの要素によって「ソロ社会」は不可避な現実となる。これは、子どもの数の減少であるとともに、家族の数の減少にもなる。婚姻減、出生減なのだから当然の帰結だ。単身世帯が増え、独身が増える。まさに社会の個人化である。
 この流れは止められない。政府の政策でなんとかなるものでもない。我々の価値観や意志によって変えられるものですらない。これはある意味では「パンデミック」と言えるかもしれない。2020年春に、瞬く間に全世界に感染爆発したコロナウイルスとは違い、長い世代時間をかけて、徐々に広がっていく。「ソロ・パンデミック」というものかもしれない。
■ソリッド(固体)社会からリキッド(液状)社会へ
 ドイツの社会学ウルリッヒ・ベックは、すでに1990年代において「家族は、資本主義社会での心のよりどころだった。だが、個人化によって家族はリスクの場に変わりつつある」と分析し、従来の伝統的な共同体であった家族は、「すでに死んでいるが、依然として形だけは生き残っているゾンビカテゴリー(死に体カテゴリー)」とまで表現している。日本の高度経済成長を支えた終身雇用はすでに崩壊しているが、家族もまた「終身家族」ではなくなっていくのだ。
 ベックと並び称される社会学ジグムント・バウマンも同様に、「社会の個人化」について言及している。かつては、地域や職場や家族といった安定した共同体の中でまとまって暮らすソリッド(固体)社会の仲に個人は属していたが、現代の社会は、各個人が動き回るリキッド(液状)社会となったと表現した。
 地域・職場・家族という固体的集団共同体で生きるソリッド社会では、相応に制限や我慢が必要で、不自由を感じることもあったであろう。しかし、そうした不自由を補って余りある安心・安全・安定が提供されていたことも事実である。
 リキッド社会においては、人々は自由に動き回れる反面、つねに選択や判断をし続けなければいけない自己責任を負わされることになる。まさに現代において各個人に突き付けられた問題といえる。
■居場所さえあれば安心できるのか? 
 「居場所がない」と嘆く人たちがいる。しかし、居場所さえあれば安心なのだろうか。そもそも、かつてのような安心を提供してくれる居場所や所属先など、今となっては存在しない虚構や昔話になってないだろうか。「どこかに所属すれば、どこかに居場所があれば安心だ」という幻想に縛られ、ゴールも何もない荒野をたださまよい歩いてやしないだろうか。
 「所属するコミュニティ」が崩壊する過程の中で、個人主義化が進み、婚姻制度や家庭の価値観が崩壊していと予言したのはチェコ生まれの経済学者ヨーゼフ・シュンペーターである。彼はそれを「社会のアトム化」と呼んだ。
 確かにその通りに、日本だけではなく、世界で未婚化や少子化が進んでいる。シュンペーターは、その原因を資本主義体制による功利主義や競争心によるものだとして、資本主義は崩壊するだろうとも予測したが、その予測は現在もなお的中はしていない。
 もちろん、行き過ぎた資本主義による歪みは至る所で顕在化している。経済的な格差は存在するし、その経済的格差が親から子へ遺伝するという世代を超えた「親ガチャ」と呼ばれる不平等もある。
■土地、労働、資本の新たな組み合わせが求められている
 しかし、だからこそいみじくもシュンペーター自身が資本主義を定義した時に使用した「イノベーション」の概念が重要になってくる。このイノベーションという言葉はシュンペーターが用いたことで有名なのだが、通常ビジネス的には「技術革新」などと訳されている。
 革新という言葉から、古い技術や考え方を壊して、新しいものへと刷新するというスクラップ&ビルドのような印象があるが、シュンペーターの定義はそうではない。彼の主著『経済発展の理論』によれば、「資本主義経済においては、土地、労働、資本という生産要素の組み合わせで財やサービスを生み出す。この組み合わせのあり方を変化させることが新結合というイノベーションである」と言っている。
 彼はこれを資本主義の経済発展をもたらすものとして使っているが、この「新結合」という考え方は、これからの我々のひとりひとりの生き方や「個人化する社会」における人とのつながりという面において、流用可能な考え方だと思う。
■唯一の「居場所」ではなく、複数の「出場所」を増やす
 何も昔のものをすべて破壊も否定もする必要はない。全く新しいものをゼロから発見、発明しなくてはいけないものでもない。すでに存在するものを従来の概念とは違った視点でとらえなおし、本来組み合わせるものではないものを組み合わせてみたり、何かを付加することで、より良いものへと新結合していくという考え方である。グレードアップでもアップデートでもなく、シュンペーターの言葉通り「新結合」である。
 世界的な少子化や人口減少は不可避である。しかし、それは絶望の未来ではない。「社会の個人化=ソロ社会化」が進むからといって、個人がバラバラに生きる社会になるわけではない。人とのつながりは「所属するコミュニティ」だけではない。
 所属から「接続するコミュニティ」へ。唯一の「居場所」だけに依存するのではなく、複数の選択できる「出場所」の充実へ。我々の周りの外敵環境そのもの構造変化が待ったなしの未来に向けて、どう適応していくべきか?  そろそろ一人一人が考え、動き出す時が来ているのである。
 「できもしないことをさもできるかのように言う」政治家もいるが、台風が来るとわかっているのにその準備をしないまま見過ごすことの方が絶望の未来への道だろう。

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 荒川 和久(あらかわ・かずひさ)
 コラムニスト・独身研究家
 ソロ社会論及び非婚化する独身生活者研究の第一人者として、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・Webメディアなどに多数出演。海外からも注目を集めている。著書に『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』(小学館新書)、『知らないとヤバい ソロ社会マーケティングの本質』(ぱる出版)、『結婚滅亡』(あさ出版)、『ソロエコノミーの襲来』(ワニブックスPLUS新書)、『超ソロ社会』(PHP新書)、『結婚しない男たち』(ディスカヴァー携書)、『「一人で生きる」が当たり前になる社会』(中野信子共著・ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。

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🥓22〉─7・B─日本には「女性差別」がまだまだ残っている。〜No.111 ⑰ 

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 2023年4月18日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本には「差別」がまだまだ残っている…その「残念すぎる実態」が明らかになった! 経済的にも非合理的
 週刊現代
 「男女差別」が可視化される
 '23年3月期決算から、「人的資本の開示」が義務化されたことをご存知だろうか。
 有価証券報告書(有報)を発行する上場企業など約4000社が対象で、「女性管理職比率」「男性育児休業取得率」「男女間賃金格差」の3つの開示が義務となったのだ。有報は企業の事業内容や経営状況、リスクなどを記載し、投資家に対して情報を提供するものだ。近年、欧米の企業を中心に「男女差別」という観点に基づいた情報公開が広がっており、日本も追随する形となった。
 すでに'22年4月から、「管理職に占める女性労働者の割合」などに関する情報公開の対象範囲が広げられている。かつては「労働者数301人以上の企業」が対象だったが、より規模が小さい「101人以上の企業」まで拡大された。企業における「男女差別」を可視化する方向に、政府は動いている。
 ではなぜ、企業が「差別」と向き合わなければならないのか。その答えは'92年にノーベル経済学賞を受賞したゲイリー・S・ベッカー(元シカゴ大学教授、'14年没)の言葉から見出すことができる。ベッカーは差別の本質を、こう指摘した。
 「偏見を満足させるために、利益を自発的に放棄すること」
 偏見とは「男性は女性より知能が高い」「男は仕事、女は家庭」といった思い込みのことだ。こうした偏見は、女性管理職が増えず、一方で男性が育休を取りにくい原因となってきた。
 © 現代ビジネス
 しかしそもそも性別と知能差に関する因果関係について、学術的な決着はついていない。空間認識能力は男性のほうが高い傾向があるが、記憶力では女性のほうが高いといった研究成果もあり、IQに関しても大きな差があるとは言えない。
 人口の概ね半分を占めるのは女性だ。ベッカーが指摘するように、「偏見を満足させる」ことは、優秀な女性の能力を活かすことができずに「利益を自発的に放棄する」ことに他ならない。
 日本はまだまだ偏見が多い
 欧米諸国では「知能と性差は結びつかない」という認識が広がりはじめている。'20年の国際データを比較すると、管理職に占める女性の割合は、アメリカ41.1%、イギリス36.6%、フランス35.5%となっている。
 一方、日本の女性管理職比率はわずか13.3%しかない。女性が企業で活躍できないことは、日本経済停滞の一因にもなっている。
 少子高齢化で労働力が不足する日本では、性別に関係なく能力を発揮できる社会を構築することがますます重要になってくることは間違いない。
 © 現代ビジネス
 この視点から言えば、「年齢」に関する差別についても議論する必要があるだろう。例えば、アメリカでは雇用や労働条件などを年齢で差別することを禁止する法律があり、労働者が自ら退職する年齢を決めている。
 高い能力を持つ人が年齢だけを理由に「ご隠居」になってしまうのは、日本経済にとっても大きな損失だ。ここでも「一定の年齢を越えたら仕事を辞めるべきだ」という「偏見」を乗り越えて、制度を柔軟に変えていくことが重要だ。
 日本が再び飛躍するためには、経済政策だけでなく、一人ひとりの心に巣くう「差別」を克服していくことも欠かせないのだ。
 「週刊現代」2023年4月15・22日合併号より
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🚷33〉─4・C─衰退ニッポンの現実。70歳定年、70歳以上も働き続ける社会。~No.148 

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 2023年4月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「70歳以上も働き続ける社会」が確実にやってきているという「衰退ニッポンの現実」
 現代新書編集部
 〈年収は300万円以下、本当に稼ぐべきは月10万円、50代で仕事の意義を見失う、60代管理職はごく少数、70歳男性の就業率は45%、80代就業者の約9割が自宅近くで働く――。〉
 9万部突破のベストセラー『ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う』では、多数の統計データや事例から知られざる「定年後の実態」を明らかにしている。
 年収は200万円台、持ち家が正解、月10万円稼げばOK…意外と知らない「定年後の真実」
 © 現代ビジネス
 70歳まで働く未来
 日本企業において、会社員は65〜70歳まで働く人が増える未来は確実にやってくる。
 〈2021年4月に施行された高年齢者雇用安定法では、現状義務化されている65歳までの雇用確保に加え、65歳から70歳までの就業機会を確保するための高年齢者就業確保措置が企業の努力義務とされた。
 ここでは雇用の提供というこれまでの選択肢に加え、70歳まで継続的に業務委託契約を締結する制度の創設などの選択肢も提示されている。
 同改正法は、雇用であれ、業務委託であれ、70歳までの従業員の生活を保障してほしいという政府から企業への要請となっている。〉(『ほんとうの定年後』より)
 そうした状況のなか、60代で管理職に就いている人はほとんどいなくなる。
 〈部長職の構成比率は、50代前半で26.6%、50代後半で26.9%と50代でピークを打った後は急速に減少し、60代前半には8.8%、60代後半には2.7%までその数を減らす。
 特に、大企業においては、部長職にまで上り詰めることができる人はごく一部である。そのごく一部の人も年齢を重ねるなかでいずれその役職を降りることを余儀なくされる。
 課長職ではさらに状況は厳しい。課長職の年齢構成をみると、60代前半でその職に就く人の比率は2.9%、60代後半は0.5%となる。50代後半以降、多くの人は役職定年や定年を経験して役職をはく奪される。
 60歳を過ぎて、部下を多数有する常勤の役職者で居続けることは、多くの日本企業では不可能になっている。〉(『ほんとうの定年後』より)
 年金の支給開始年齢引き上げ
 国は多くの人を長く働かせるように政策を進めている。
 定年後の収入の柱の一つにもなる、年金の支給開始年齢が引き上げられていることも大きい。
 〈少子高齢化によって日本財政がひっ迫するなか、将来の世代が過去の世代が給付されてきた高額な年金を受け取ることは、もはや不可能に等しい。
 これまで行われてきた厚生年金の支給開始年齢引き上げの影響も大きい。過去は60歳時点で受け取れた厚生年金保険であるが、男性受給者については、2022年時点において定額部分が65歳から、報酬比例部分は64歳からの支給となっている。
 報酬比例部分の支給開始年齢は現在引き上げの最中であり、男性は2025年、女性は2030年をもって65歳で統一される。〉(『ほんとうの定年後』より)
 70歳まで働かなければいけない現実をどう考えるか。
 余裕を持ち、豊かに自由さを確保しながら働くにはどうすればいいか。
 できるだけ早く準備をして、高齢労働社会に備えたい。
 年収は200万円台、持ち家が正解、月10万円稼げばOK…意外と知らない「定年後の真実」
 © 現代ビジネス
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 4月14日 MicrosoftStartニュース All About「70歳定年の時代に? 長く働くためにできること
 井戸 美枝(ファイナンシャルプランナー社会保険労務士
高齢化・長寿化が進む日本。寿命が延びた分、必要なお金も増えました。今回は60歳以降の働き方について考えてみましょう。できるだけ長く働くために、今からできること、その考え方や注意点をご紹介します。
 © All About, Inc.
 再雇用・再就職しやすくなる?
 皆さんご存じの通り、日本人の平均寿命は延びています。60歳で退職して退職金や年金で暮らす……こういったロールモデルは今後通用しないかもしれません。
長くなった老後の生活費を工面する方法はいくつかあります。たとえばiDeCoに加入したり、年金の受給開始を遅らせたりして、年金を上乗せする方法がありますが、これらに加えて「できるだけ長く働く」という選択肢もあります。
 国もできるだけ長く働くことを後押ししています。「高年齢者雇用安定法」により、希望者に対しては65歳までの雇用が義務化されていますし、令和3年4月に行われた改正では、さらに踏み込んで、定年制の廃止や引き上げ、70歳までの継続雇用制度の導入などの努力義務を企業にもとめています。
 同改正では、直接雇用だけでなく、業務委託での契約も、いわゆる「継続雇用」に含みました。フリーランスとして複数の企業と取引をする・業務をすることも想定されたことになります。
 同じ会社で引き続き働く「再雇用」
 60歳以降の働き方には、主に「継続雇用で同じ会社で働く」「転職して別の会社で働く」「フリーランスとして働く」の3つがあります。
 継続雇用は、一度退職した後に再び同じ企業(子会社やグループ企業も含む)で雇用される、いわゆる「再雇用」が一般的です。あくまで定年退職した後に再び雇用契約を結ぶため、退職金を受け取ることができます。
 継続雇用・再雇用される際は、「嘱託」や「契約社員」として採用されるケースが多いようです。よって、賃金は定年前より少なくなるかもしれません。
 雇用形態が変わることで給与はどうなるのか、正社員時の手当や処遇が受けられるのか、など、あらかじめ情報収集しておきたいところです。会社が行う退職セミナーなどがあれば、参加しておきましょう。
▼「継続雇用・再雇用」のメリット・デメリット
 継続雇用・再雇用のメリットはやはり実現性の高さです。勤め先が制度を導入していれば、高い確率で働き続けられます。
 くわえて、他の企業に転職するよりも仕事の内容もイメージしやすいでしょう。慣れ親しんだ環境で働き続けられるため、勤務している会社に愛着がある人、環境の変化にストレスを感じる人にとってメリットが大きいといえます。
 ただ注意したいことは、継続雇用・再雇用の契約は65歳で終了する可能性があるということ。65歳以降も働きたい場合は、この先どう活動してきたいかを考えて準備しておく必要があります。
 また、再雇用後は責任や権限が減ることが多いようです。場合によっては、後輩の上司に仕えることも。人によっては、やりがいを感じられないこともあるかもしれません。再雇用で働く際は、自分の役割をよく確認しておくこともポイントの1つになりそうです。
 「転職」も1つの手
 「新しい仕事にも積極的に挑戦したい」「自分のスキルは他社でも生かせそう」「環境の変化や仕事内容を変えることに抵抗がない」といった人は、転職するのも1つの手です。
転職すれば、前職に関係なく、自分の希望に沿った仕事を選ぶことができます。職場が変われば、人間関係も一新されます。多くの人と知り合えるというメリットもありますね。
 また、転職・再就職の場合、65歳以降も雇用を継続できる可能性があります。継続雇用・再雇用では、基本的に65歳までの雇用しか保証されていませんので、長く雇用されたい場合は転職した方がよいケースもありそうです。
 ただし、思ったような仕事がない可能性もあります。あるいは、実際に転職した後に、イメージしていた仕事内容とは異なることもあるかもしれません。自分の専門領域だけにとどまらず、何事にも柔軟に対応する心構えが必要です。
 「フリーランス」になる前に、まずは副業で試してみよう
会社に勤めずに、フリーランスや自営業として働く選択肢もあります。経済産業省の2017年「中小企業白書」によれば、男性で起業した人のうち、35%が60歳以上の人でした。全ての世代の中でもっとも多くなっています。
 筆者の友人にも、自営業者・フリーランスとして活動している人がいます。その友人は、とにかく動物が好きで、現在ペットシッターとして活躍しています。ペットシッターとは、ベビーシッターのペット版ですね。
 飼い主が旅行などで不在の間、犬や猫の食事の世話、散歩、掃除などを行います(猫は散歩はしませんが……)。体調を崩した飼い主から一時的に世話を依頼されることもあるようです。
 この友人は会社員として働きながら、副業として、ペットシッター会社にアルバイトに行っていました。ゴールデンウイークや夏休み、正月も遊ばすに働いていたようです。最初のうちは、先輩のペットシッターに同行。手順を覚え、徐々に1人で仕事を任されるようになりました。
 その後、会社の解散を機に独立。ノウハウがわかっているため、最初から事業は順調だったようです。ペットの世話をしている記録を残したり、写真を飼い主に送ったりするなど、気の利いたサービスが好評を得て、現在も繁盛しています。
 上の例のように、自営業やフリーランスとして働く場合は、まず、副業・ダブルワークからはじめてみるとよいかもしれません。昨今、副業を推奨する企業も増え、本業の会社員をしながら、空いた時間で別の仕事をする働き方も珍しくなくなってきました。
 忙しくなりますが、他に収入源があるため、やりたいことにチャレンジできます。ビジネスとして成り立つか、実験することもできるでしょう。複数の収入があれば、本業が傾いたときのリスク回避にもなります。
 初期投資・在庫管理なしがおすすめ
 また、起業をする際は、「初期投資が少ない・かからない」「在庫管理が難しくない・いらない」職種を選ぶとリスクが少なくなります。
 たとえば、手作りの雑貨を売りたいと思ったとき、実店舗をかまえるのではなく、オンラインショップをひらいて商品を売ってみることもできます。
 そういった意味でリスクが高いのは、飲食店経営です。一般的に、飲食店は利益率が低いうえ、初期投資に多くのお金が要ります。
 メディアなどで「退職して田舎で手打ちのそば屋をはじめた」「海の見える場所にレストランをひらいた」など、成功例が紹介されています。が、実際の運営はなかなか厳しそうです。事前の準備をしっかり行い、最悪の場合を想定した事業計画を作る必要があります。
 年金を受け取りながら働くなら、気楽に考えよう
 60歳以降の働き方について、いくつかのパターンをご紹介してきました。
長く働き続けるためには、今の働き方や仕事内容を60歳以降も続けられるか、想像することが大切です。専門性がない、または体力勝負の仕事であれば、長く続けることは難しいかもしれません。その場合、キャリアチェンジへの道は50代までに探っておいた方がベターです。これまでのキャリアを生かせるような働き方、職種から探してみてもよいでしょう。
 とはいえ、65歳からは年金が受け取れるため、フルタイムで働く必要はありません。年金や退職金を使いつつ、毎月の赤字分を補填できれば、十分なケースがほとんどです。気楽にどういった仕事であればできそうか、考えてみるとよいかもしれません。
 文:井戸 美枝(ファイナンシャルプランナー社会保険労務士
 関西と東京に事務所を持つ、CFP・社会保険労務士。経済エッセイストとしても活動し、生活に身近な経済問題をはじめ、年金・社会保障問題を専門とする。講演や執筆、テレビ、ラジオなどにも多数出演。
 執筆協力:ファイナンシャルライター 瀧 健
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🌄20〉─1─何故、日本の街中が「ゴミ・犬の糞・嘔吐だらけ」になったのか。~No.95No.96No.97 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 「日本人は、衛生観念が高く、綺麗好き」は、ウソである。
 日本人と言っても、現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
   ・   ・   ・   
 2023年4月16日 YAHOO!JAPANニュース All About「日本の街中が「ゴミだらけ」になった? 海外在住の日本人が3年ぶりの帰国で驚いた日本の変化
◆日本の街中にゴミが増えた?
 年金制度改革に対するストライキによって、フランス・パリの街は回収されないゴミであふれ返ったと聞きます。3年ぶりに帰国した2022年、筆者も日本の都市部がゴミだらけで衝撃を受けました。
 フランスでは年金制度改革に対するストライキが勃発し、パリの街は回収されないゴミであふれ返ったと聞きました。それで思い出したのが、以前に東京在住のブラジル人から「日本の街はゴミが落ちていなくてキレイね!」と褒められ驚いたこと。ずっと日本に住んでいると、清潔な風景は当然のことと捉えがちですが、海外に出かけるとあらためてそのありがたさに気付きます。
 しかし3年ぶりに帰国した2022年に日本の都市部で目にしたものは、ゴミ、ゴミ、ゴミ! さすがに住宅街はこぎれいな地区が多かったものの、繁華街には壊れた傘や空き缶、小さなゴミが点々と転がっており、その荒れ具合に「日本、どうしちゃったの!?」と衝撃を受けました。
 清潔さと民度の高さは日本の売りだというのに、なぜこうなったのか。2022年秋までは、まだ外国人観光客の入国が解禁されていなかったので、彼らの仕業とも思えません。では各自治体の施策が迷走しているのか。それともコロナ禍に関連するなにかしらの後遺症か、日本人のゴミ捨てマナーの問題なのか?
◆ヨーロッパの都市はゴミだらけ
 市民の憩う公園(スイス・バーゼル市)
 ……ときに、筆者の住むスイスのバーゼル市はとても清潔で、ゴミもほとんど見かけません。ドイツ・フランスとの三国の境に位置しているので、日常的に隣国へ越境する機会があるのですが、国境を越えた瞬間に、ガラッと景色が変わるのが実感できます。
 隅々まで清潔感が漂うスイスの街並みから、ガラクタが散乱する薄汚い景色へと一変するのです。パリやロンドン、イタリア主要都市などを訪れたことのある人は目撃したこともあるでしょうが、あの、ゴミが多く不衛生な都市の多いヨーロッパにおいて、スイスの街は一体どのように清潔さを保持していられるのでしょう?
◆スイス人は「意識が高い」
 まず第1に考えられるのは、スイス人の多くがモラルを守り、マナーも良いということ。
 「街にゴミがあふれ返るのは、テロ行為の頻発以来、ゴミ箱が削減されたからだ」という意見がよく聞かれます。確かにそれも一理あるのでしょうが、実はバーゼルの街にはあまりゴミ箱がありません。私が以前長く住んだ隣国オーストリアのウィーンでは、街角ごとに必ずゴミ箱が設置されていましたが、それと比べてバーゼルはゴミ箱が圧倒的に少なく、不便な環境です。それにもかかわらず、公共の道路や公園だけでなく森や野山を散策していても、ゴミは数えるほどしか落ちていません。
 また、スイス人たちの中には、「落ちているゴミを見たら拾わずにはいられない」「定期的にボランティアでゴミ拾いをしている」という人が少なからずいますし、総じて意識が高いのでしょう。
◆「潤沢な資金」にものをいわせる
 毎日巡回する風圧洗浄機と清掃車。大通りは大型清掃車、住宅街は小回りのきく小型(写真)と使い分けられています
 クレディ・スイスの年次報告書「グローバル・ウェルス・レポート 2022」にもあるように、スイスは成人1人当たりの純資産がトップを独走し続ける非常に裕福な国家です。その資金力は、もちろん清掃分野でも遺憾なく発揮されています。
 バーゼル市中心街の道路や広場は365日、毎日2回ずつ清掃されており、約950個のゴミ箱の廃棄物が回収されない日はありません。
 清掃は、風圧洗浄機と清掃車による毎日のドライクリーニングに加えて、市街地全体の水洗浄も定期的に行い、粉塵の発生を防いでいます。特にサッカーの試合などのイベント後や、年に1度のファスナハト祭(スイス最大のカーニバル)開催中には清掃サービスが臨時追加され、街が徹底的にきれいにされるのですが、これが可能なのも潤沢な資金があってこそでは。
◆「罰金」設定、厳しい管理も一役買っている
 清潔な街並みを維持するためには、厳しい処罰もいといません。バーゼルシュタット条例によると、以下が罰金対象となります。
・ポイ捨て:100フラン(約1万4000円)
・公共のゴミ箱への家庭ゴミ廃棄:100フラン(約1万4000円)
・家庭ゴミ・大型ゴミ・電化製品の不法投棄:200フラン(約2万8000円)
・時間外のゴミ出し:50フラン(約7000円)
(※為替レートは2023年3月時点のもの)
 2021年統計では、バーゼル市で合計784件の罰金が科されたそうです。
 これらは州警察および、環境エネルギー局の廃棄物検査官によって管理されており、ポイ捨て対策の市内パトロールや、市の清掃部門および住民からの通報(という名のチクり)に基づいて、不法投棄や時間外のゴミ出しの詳しい調査がなされています。
 以上3点がうまく補完しあって、スイスはあれだけの清潔さを保っているように考えられます。日本も住民の道徳心が強く、厳しい法整備なしでもうまく回っていた時代は良かったのでしょうが、残念ながら現在はそうではなくなってきている様子。スイスのように潤沢な財源にものをいわせることも非現実的ですし、どうすれば事態が好転するのでしょう。
 日本には「お掃除風水」という考え方がありますが、国を挙げて清掃事業を推し進めるスイスの金満ぶりを目の当たりにすると、掃除と金運が結びついているのはあながちうそではないような気もしてきます。日本の自治体も清掃費を節約するのではなく、そこに大きく投資することで街がきれいになるばかりか景気回復の起爆剤に……なってほしいものです。
 ライジンガー真樹のプロフィール
 元CAのスイス在住ライター。日本人にとっては不可思議に映る外国人の言動や、海外から見ると実は面白い国ニッポンにフォーカスしたカルチャーショック解説記事を中心に執筆。All About オーストリアガイド。
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🚷2〉─2・C─「少子化は最悪だ」という日本人は間違っている。~No.3 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年4月16日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「「少子化は最悪だ」という日本人は間違っている
 「異次元の少子化対策」を唱える岸田首相。だがそのほとんどは間違っているかもしれない(写真:Yoshikazu Tusno/Getty Images)
 「日本はもっと少子化対策をしっかり実行して、一刻も早く縮小均衡状態から脱すべきだ」
 今、有識者、メディア、政治家は、皆こぞって「この国の縮小均衡を壊すことが必要だ」と力みまくっている。
 だが、これは間違いだ。なぜなら、均衡は理由があって均衡となっているのであり、その理由を理解、特定せずに、ただ都合が悪いからぶっ壊すというのは、社会を壊すことにすぎないからだ。
■「少子化のそもそも論」として重要な3つのこと
 そもそも、なぜ人口が減っているのか。なぜ人口減少は悪いことなのか。「今が危機を回避するラストチャンスだ」というが、では「今起きている危機」とは何なのか。
 これらを議論せずに「少子化は困る、だから全力で回避する」という正義感は、社会を壊し、日本社会を不幸にすることになるだろう。
 「そもそも論」として、3つ重要なことがある。
 「そもそも①」少子化は経済発展の結果である。所得水準が上がれば、少子化が進む。これは人類の歴史において動かしがたい、変えようのない事実である。だから、そもそも少子化を止めることは不可能である。
 「そもそも②」少子化が悪いとは決めつけられない。むしろ1970年代は、人口爆発が地球上の最大の問題と言われ、それを止められなかったアフリカは非難され、それを止める気がなかった中南米諸国は経済が停滞し、一人っ子政策を無理矢理行った中国は、この点に関しては成功だと思われ、経済も発展した。
 しかし、今や一人っ子政策は間違った政策とされ、アフリカはHIV感染症で人口が減少し、21世紀には「人口を増やせ」という話に180度変わった。すなわち、人口に関する常識は、時代の状況の都合に合わせて、変わるのである。そして、人口政策の影響は、時代の状況の変化を超えて何百年間も続く。だから、一時の政治家の情熱はつねに危険だが、人口に関する議論の場合、とくに注意が必要なのだ。
 「そもそも③」仮に少子化が止めるべき課題だとしても、現在行われている、あるいは行われようとしている政策は、ほとんどすべて効果がない。なぜなら、ほとんどの政策が現金のバラマキであり、出生数を増やす理由はないからである。
 そもそも経済的理由が少子化の原因ではない。「最大のそもそも」として、少子化の原因は特定できない。誰も、なぜ少子化が起きているのか確信がないままに、「カネを配って悪いことはない」と、ひたすらバラまいている。
 結果として、ただの票の買収活動になっている。だから、所得制限を外して対象者をひたすら増やすなどしている。バラマキで出生率が上がろうか否かなどは関係ないのである。給付と出生率の上昇の検証などに関心がないのである。そして、その流れをメディアも国民も無検討に受け入れ、大きな潮流をつくってしまっている。
■なぜ人口は増加し始めたのか
 この3つの根本的な問題をもう少し議論してみよう。まずは「そもそも①」の「少子化は経済発展の結果」と、「そもそも③」の「仮に少子化が止めるべき課題だとしても、現在行われている、あるいは行われようとしている政策は、ほとんどすべて効果がない」から、である。
 例えば、欧州の人口は18世紀半ば以降にテイクオフ(離陸)した。一方、中国をはじめとするアジアでは、はるか前、約1000年(11世紀)前後から農業生産力が上昇し、経済が発展、人口が増え始める兆しがあった。だがその後、周辺の遊牧民族の席巻や、欧州から持ち込まれたともいわれるペストなどの感染症の流行で、人口は押し下げられ、増加は目立たなくなった。
 しかし、要は世界的に見れば、人類の歴史上、経済発展と生活水準の上昇は、まずは人口を増やしたのである。これは、マルサス人口論的な増加である。皮肉にも英国のT・R・マルサスが18世紀の末において「人口増加は不可能だ」と宣言した直後から、欧州の人口は目に見えて増え始めたのである。
 このとき、人口が増加した理由は、食料の入手量が増加したからである。また19世紀以降の増加は、衛生面の改善や医薬の進歩などにより、乳幼児死亡率が低下したためである。当時の平均的な生活水準は「生存維持以下、またはギリギリ」であった。だから、経済水準が上がると人口は増加したのである。
 だが、この反転が始まる。19世紀後半以降の欧州では、経済水準の上昇は出生率を低下させるほうに働くようになった。これは20世紀にそのほかの地域にも広がり、21世紀には世界的な現象になったのである。
 理由は、子供が死ななくなったことにより、少数の出産でも十分な数の子息を残せることになったからであり、同時に、賃金水準が上昇、所得機会が増えたことから、出産育児に時間を使うよりも、働く時間を増やすことで所得が増加するようになったからである。
 さらに、賃金の上昇、所得機会の増加は、高等教育による生涯所得の増加をもたらしたから、子供にかける教育期間と費用を増加させた。教育投資を増やしたのである。
 経済水準の上昇が、労働への投資と教育への投資を可能にし、家族全体で人的投資をしたのである。これが、さらなる所得水準の上昇、経済発展をもたらし、少子化は傾向として完全に定着したのだった。
■所得水準を上げるだけでは少子化を深刻化させるだけ
 これを逆流させる力は、どこにも存在しない。不可能なのである。さらに働きやすい環境を作り、またカネをばらまき、教育コストを低下させれば、さらに少数精鋭の子供たちを育てるようになるだけだ。すなわち、むしろ少子化を促進させる効果のほうが明確に存在する。
 つまり、「そもそも①」=少子化は経済発展してきた以上、止められないのである。少子化を止めようとして行われている政策は、むしろ少子化を進めるものだ。また「そもそも③」、つまり、所得水準を上げることは少子化の解決策であるどころか、深刻化させるのである。
 では、なぜ有識者も政治家も、カネをバラまくことが少子化対策となると主張しているのだろうか。票のため、少子化対策にならなくても、バラまく口実があればいいという理由は明らかに存在する(子供を増やすことと無関係な経済補助がほとんどである)。しかし、良心的な政治家たちや有識者たちまで、なぜ「経済的な支援が子供を増やすことになる」と盲信してしまっているのであろうか。
 それは、アンケート調査で「なぜ結婚しないのか」と聞かれて、「所得が安定しないから」という答えが一定数あるからだ。また、結婚している夫婦に「なぜ子供を持たないか」あるいは「もう一人持たないか」と聞くと、「カネがかかるから」と答えるからである。
 これは大きく誤ったアンケート結果の解釈である。
 第1に、経済的理由はアンケート結果で最多の回答ではない。結婚しない理由で一番多いのは「結婚の必要性を感じない」であり、第2位は「自分の時間、自由な生活を優先したい」ということであり、ようやくその次の第3位が「経済的理由」である。
 子供を持たない、あるいは多くを持たない理由を見ても、確かに「カネがかかるから」という回答が1位になることもある。だが、これはインタビューを受けて「子供を持つのが面倒だ」とか「自分の時間が欲しい」と言うのがはばかられるからである。なぜなら、アンケートもインタビューも「なぜあなたは子供を持たないのか」という非難のニュアンスを含むからである。
 さらに、自分をよく見せようと意識していない人々も「カネがかかるから」と答えるのと、「カネをもらったら子供を持つ」とでは、まったく別のことだからである。
 この2つは、アンケート調査の経験があれば、誰でも知っていることだ。①アンケートの回答は本音ではない、②アンケートという仮定の回答と現実行動は異なるという、基本中の基本の事実である。
 つまり、最も多い回答は経済的要因でないし、回答が経済的要因であったとしても、彼らの実際の行動は異なるのである。そして、「カネをあなたに配る」と言われて「いりません」と断る人はいないし、「ありがたい」と答えるに決まっている。一方、子育てを自分ではしない人間がバラまきに反対すると、子育てをする人々の敵と見なされてしまうので、反対しにくいのである。
■所得と結婚率の相関関係の誤解
 さらに、このような行動経済学的な議論ではなく、「所得水準と子供の数や所得と結婚率の関係が正である」という実証研究結果も、その多くについてはそのまま日本の現状には当てはめられないし、無理して適用するのは、ほとんどの場合、間違いだと言える。
 なぜなら、第1に「所得の高い人ほど結婚している」という所得と結婚率の相関関係は、「所得が増えれば結婚するようになる」という因果関係とはまったく別であるからである。
 所得水準が低い人が結婚しないのではなく、社会の中で他人と交流する機会が少ない人(交流したくない人)は、所得水準の高い仕事に就く機会が少なく、それとは独立の現象として、出会いが少ないということがありうる(そして、実際にそうであろう)。
 第2に、フランスやハンガリーなどではマネーインセンティブを与えたら子供が増えたという事実があったとしても、日本でも同じことが起こるとは限らない。むしろ、起こると考えることは難しい。
 なぜなら、社会環境が違いすぎるし、価値観も違いすぎるからである。世界で日本だけが出生率が低いのではなく、中国をはじめ、ほとんどのアジア諸国で低下し続けている。韓国の極端に低い出生率も、つとに有名である。
 アジアでは社会のあり方、とくに男女の役割分担のあり方が急激に変わってきている。出生率の低下はその移行期の中で、経済的な理由とこの社会の急激な変化が絡み合っているから起きているのであり、過去にそれが終わっている欧米とは異なる。
 また、例えば「アメリカでは出生率が日本より高い」といっても、白人系の出生率はそのほかの人々よりも低いし、欧州の多くの国でもこの現象が存在する。
 さらに、例えば北欧諸国は少子化問題解決の優等生のように思われているが、出生率は低下を続けている。所得水準が上がっても、子供関連、教育関連の政府支出が極めて高くても、少子化は進んでいるのである。
 第3に、日本のB村が子ども手当などを大幅に増やしたら、出生率が大幅に上がった「奇跡の村」などと言われ、もてはやされている。だが、これは子供を産もうとした夫婦が「どこで子育てをしたら得か」を考えて、単にA町からこのB村に移住した要因が大きいのである。B村で出生率が奇跡のように上がったように見える一方、その他の町ではさらに出生率が絶望的に下がっただけなのである。
 そして、百万歩譲って、経済的な理由が一部の家庭にとって子供を持たない理由であるとしよう。しかし、その場合の経済的理由とは、5万、10万、100万円などではなく、2億円などというレベルの話なのである。
 すなわち、女性が大学を出て会社に就職した場合、30歳前後で会社勤めを退職し、子育てをして、数年後に賃労働を再開し、パートタイムや非正規社員として働いた場合、子育てをせずに大卒後に就職した会社で定年まで働いた場合に比べて生涯所得が2億円前後少ないというシミュレーション結果を、多くの調査が示している。
少子化の原因は社会のあり方の問題
 だから、働く夫婦に子育てのための所得支援をするのであれば、各夫婦に2億円ずつ配らなくてはならないのである。すなわち、少子化の原因は、社会のあり方の問題であり、その一部は経済的要因であるが、その要因をもたらしているのは日本社会における都市部での企業での働き方にある。
 それは政府の責任ではないうえに、政策で直接子育てを支援したり、現金をバラまいたりしても、解決できる次元のものではないのだ。「異次元の少子化対策」などと言っているが、その最低100倍、3次元ぐらい違わないと無理なのだ。
 しかし、解決策はあるし、簡単だ。女性が子育てのために退職し、その後転職したときに、その女性の人的資本の価値に見合った、以前の給料と同等の水準で働けるような民間労働市場に、日本の労働市場が変わればいいだけだ。
 「そんなに革命的に労働市場が変わるのは難しいのではないか」という意見が多そうだが、本当だろうか。
 そもそも、その退職女性はもともと働き手として有能だ。もし退職前の価値よりも安い賃金でパートとして働いていたら、それは超掘り出し物だ。ただでさえ人手不足なのだから、彼女には求人が殺到するだろう。単純なごく普通の経済原則、企業の利益最大化行動で、すぐに解決してしまう。これが私の自然で「普通の」少子化対策だ。
 なぜ、これを実現するのが難しいのか。それは日本の企業が阿呆であるからである。日本社会が意味不明だからである。逆に言えば、そんな異常な企業と社会においては、何をしようとも問題は解決しないのだ。
■「日本にとっての少子化問題」とは何か
 最後に「そもそも②」の「少子化が悪いとは決めつけられない」である。少子化は本当に問題なのか。なぜ問題なのか。一般的な答えは「当たり前だ。子供が少ない社会は、まともな社会でない。活力がなくなってしまうではないか」ということなのだろう。
 しかし、それならば、日本のほとんどの社会はすでに壊れている。壊れていないのは、東京、名古屋、そのほかごく一部の大都市だけで、ほとんどの地域社会は少子化どころか、中年もおらず、高齢者だけになり、さら高齢者までも減り始めている。社会は壊れ、消失しているのである。
 もし「健全な社会を維持する」ということが少子化対策の目的なら、まず、大都市以外の地域社会を一刻も早く立て直さなければいけない。少子化対策のラストチャンスというが、地域社会にとっては子供が減るというのが問題なのであれば、何十年前にもうゲームオーバーになっているのである。
 しかし、私がこんなことを主張しても相手にされない。「地域社会はもう無理に決まっている。とにかく日本全体で人口を増やせ、それが日本にとっての問題だ」というだろう。しかし、しかし、だ。ここでの「日本の問題」とは一体何のことだろうか。
 それは人口が減ると経済規模が小さくなり、日本市場に依存している企業の売り上げが減るという問題であり、勤労者層が減ると社会保険料を払う人が減り、年金も医療も介護も破綻するからであり、日本人の存在感が減ると、国際的に日本代表の政治家といっても世界では大して影響力がなくなるからであり、人口が減れば兵力が減るからである。
 すなわち、それは少子化問題ではなく、企業利益の問題であり、社会保障システムの問題であり、プライドの問題であり、覇権争いの問題なのである。
■経済主体が個別課題に正面から向き合うしかない
 これらの問題を解決するのはとても難しい。「人口が減ったことが問題なのだから、人口が元に戻ってくれれば、問題は存在しなくなるはずだ」――。こうした課題の裏返しを解決策とするのは、まったく無意味なことだ。
 これらの社会問題を直接解決することでしか、日本の問題は解決しない。現在人々が「人口減少こそ最大の課題」と言っているのは、実は社会の変化に対応できない、経済主体や経済システム、社会制度が機能不全を起こしているにすぎない。これらの制度をリフォームして、それぞれの経済主体が自分自身の個別の課題に正面から向き合うことでしか解決しないのである。
 つまり、少子化対策とは、課題設定も解決策もすべて間違っている。このままでは、あえて日本社会の傷を拡大し、破綻させることにしか貢献できないのである。
 (当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)
 小幡 績 :慶應義塾大学大学院教授
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