🚷2〉─2・B─日本の少子化が止まらない本当の理由。理想社会が「子どものいない社会」。~No.3 

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 現代のおじさんやシニアは、子供が騒々しく走り回って遊ぶ騒々しさが嫌いで、子供の甲高い笑い声は消し去るべき騒音であった。
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 2023年2月22日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」
 解剖学者の養老孟司さん - 撮影=津田聡 
 なぜ日本の少子化は止まらないのか。解剖学者の養老孟司さんは「現代の人は、お金にならない自然は価値がないとして消していっている。先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっているのだ」という――。
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 ※本稿は、養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)の一部を再編集したものです。
■学問をすると、自分が「違う人」になる
 『論語』の「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。朝学問をすれば、夜になって死んでもいい。学問とはそれほどにありがたいものだ。普通はそう解釈されています。でも現代人には、ピンとこないでしょう。朝学問をして、その日の夜に死んじゃったら、何の役にも立ちませんから。
 私の解釈は違います。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。
 前の自分がいなくなる、たとえて言えば「死ぬ」わけです。わかりやすいたとえは、恋が冷めたときです。なんであんな女に、あんな男に、死ぬほど一生懸命になったんだろうか。いまはそう思う。実は一生懸命だった自分と、いまの自分は「違う人」なんです。一生懸命だった自分は、「もう死んで、いない」んです。
■変わりたくない人は知ることはできない
 人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれていると言っていいでしょう。それを繰り返すのが学問です。ある朝学問をして、自分がまたガラッと変わって、違う人になった。それ以前の自分は、いわば死んだことになります。それなら、夜になって本当に死んだからって、いまさら何を驚くことがあるだろうか。『論語』の一節は、そういう反語表現だというのが私の解釈です。正しいかどうかはわかりません。
 確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。
 でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません。
 都会人が「空き地」と呼ぶ空間にあるもの
 現代の人たちは、偶然を受け入れることが難しくなっています。なぜか。都市化が進んできたからです。私の言葉で言えば「脳化」です。
 戦後日本の特徴を一言で言えば、都市化に尽きます。戦後の日本社会に起こったことは、本質的にはそれだけだと言ってもいいくらいです。都会の人々は自然を「ない」ことにしています。
 木や草が生えていても、建物のない空間を見ると、都会の人は「空き地がある」と言うでしょう。人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。
 空き地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。
 それなら、木も鳥も虫もモグラも、「いない」のと同じです。なにしろ空き地、空っぽなんですから。要するに木が生えている場所は、空き地に見える。そうすると、木のようなものは「ないこと」になってしまうわけです。
■なぜ樹齢八百年のケヤキを切ってしまうのか
 なぜ自然がないことになるのかというと、空き地の木には社会的・経済的価値がないからです。都会で「ある」のは、売り買いできるものです。売れないものは、現実に「ない」も同然。だから「空き地」と言われるのです。
 岡山県の小さな古い神社で、宮司さんが社殿を建て直したいと思いました。その宮司さんが何をしたかというと、境内に生えている樹齢八百年のケヤキを切って売った。その金で社殿を建て直しました。八百年のケヤキを保たせておけば、二千年のケヤキになるかもしれません。大勢の人がそれを眺めて心を癒すことでしょう。でも、それを売ったお金で建てた社殿は、千年はぜったいに保ちません。これがいまの世の中です。
 社会的・経済的価値のある・なしは、現実と深く関わっています。いまの社会では、自然そのものに価値はありません。観光業では自然を大切にしていると言いますが、それはお金になるからです。お金にならない限り価値がないということは、それ自体には価値がないということです。
 なぜ価値がないかというと、多くの人にとって、自然が現実ではないからです。現実ではないものに、私たちが左右されることはありません。つまり、現実ではない自然は、行動に影響を与えないのです。
■「現実ではない」ものは消されてしまう
 不動産業者にとっても、財務省のお役人にとっても、地面に生えている木なんて、切ってしまうだけのものです。誰かに切らせて、更地にする。どうして切るかというと、本来「ない」はずのものだからです。
 そこに木が生えているから、家の建て方を変えよう。川や森があるから、町のつくり方を工夫しよう。そう思うなら、木や川、森はあなたにとって現実です。でも、更地にする人にとっては、木は「現実ではない」。現実ではないのですが、実際には生えていますから、邪魔物扱いをして切ってしまう。まさしく木を「消す」のです。
 頭の中から消し、実際に切ってしまって、現実からも消すのです。不動産業者もお役人も、自分が扱っているのは「土地そのもの」だと思っている。土地なんですから、更地に決まってるじゃないですか。まして地面の下に棲んでるモグラや、葉っぱについている虫なんて、まったく無視されます。「現実ではない」からです。
■都会人にとって、幼児期の子どもは必要悪
 こういう世界で、子どもにまともに価値が置かれるはずがありません。子どもの先行きなど、誰もわからないからです。子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません。だから、自然と同じように、子どももいなくなるのです。
 いや、子どもはいるじゃないか。たしかに、子どもはいます。しかし、それは空き地の木があるのと同じです。いるにはいるけれど、子どもそれ自体には価値がない。現実ではないもの、つまり社会的・経済的価値がわからないものに、価値のつけようはないのです。
 木を消すのと同じ感覚で、いまの子どもは、早く大人になれと言われています。都市は大人がつくる世界です。都市の中にさっさと入れ。そうすれば、子どもはいなくなりますから。
 都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています。子どもがいきなり大人になれるわけがない。でも、いきなり大人になってくれたら便利だろう。都会の親は、どこかでそう思っているふしがある。
 ところが田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です。

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 養老 孟司(ようろう・たけし)
 解剖学者、東京大学名誉教授
 1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)など多数。

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