🧣12〉─2─バカをバカだとみなした時点で自分もバカになる。モラルの低い人間との賢い接し方」~No.37 

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 現代の日本人の「バカ」とは、同調圧力や自粛警察、自称正義の味方、キレる老人にキレる若者、そして日本を覆っているマイノリティ・ファシズムエコ・テロリストヒューマニズム原理主義である。
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 2023年3月29日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「バカをバカだとみなした時点で自分もバカになる…フランスの哲学者が説く「モラルの低い人間との賢い接し方」
 マクシム・ロヴェール
 モラルの低い相手にはどう対応すべきか。フランスの哲学者のマクシム・ロヴェールさんは「バカは周りの人を引きずりこむ蟻地獄だ。自身の愛情と親切心を減退させないため、バカをバカだと思ってはいけない」という――。
 ※写真はイメージです
 © PRESIDENT Online
 ※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。
 バカは周りの人を引きずりこむ蟻地獄
 バカの中にも、人ともめたくないと思っている者はいます。誰ともめたくないかは、立場によってさまざまでしょう。
 たとえば家で、夫の立場であれば妻と。妻の立場であれば夫と。親ならば子どもと。子どもならば親と。あるいは、近所の人と。仕事では、同僚や上司やクライアントと。学校では、先生ならば生徒と。生徒ならば先生と。人によっては、マスコミや警察と……。
 でも、バカの行動を車の運転にたとえるなら、お互いに他の車にぶつかるまいと、必死でハンドルを切るものの、結局バックでぶつけてしまうような感じです。
 本稿の内容
・バカは周りの人を引きずりこむ蟻地獄。
・考え方を変えれば、蟻地獄を抜けだせる。
 バカは、思ってもみないときにいきなり現れます。そのためこちらは心の準備ができていません。なにしろ、ただ普通に何かをしようとしているときに突然現れるのですから。
 たとえば、電車や車で移動しよう、きれいな景色を見よう、仕事をしよう、生活を楽しもう、など、つまりは、ただ単に堅実に生きていきたい人の日常のひとコマに、急にバカが割りこんでくるのです。
 バカは人を傷つける
 不意にバカが現れると、誰でもイライラしてうっとうしく思うものです。それは朝でも夜でも同じですし、直前までの機嫌のよしあしとも無関係です。
 より正確で少し重い表現をしてもよければ、そのバカのせいで傷つくのだと言えます。
 たとえ自分に自信があり、「バカが現れても動じずにいたい」と思っていても、やはりバカのせいで傷つきます。そして、自分が傷つくという事実にまた苛立ちます。すると、傷はさらに大きくなり、悪化します。
 ここでは、自分が傷ついていることを素直に認め、あえてその傷をよく見つめ、なぜ傷つくのか考えてみましょう。まず試しに、街にたくさんある、バカの事例を思い浮かべてみましょう。
 たとえば、通行の妨げになっている車のドライバー、散歩中に、犬を蹴り飛ばす飼い主や、道にごみを捨てる人などです。
 この場合、バカとは、他者への敬意に欠ける人、ほんの常識程度のルールさえ守らない人、つまり、人々が共に暮らすための大切な条件を破る人のことになります。
 そういうことをされると、条件をちゃんと守っている人は傷つくのです。
 バカと社会は表裏一体
 ただ、速やかに事実を明かせば、バカによるこうした行動自体が、たいていは、本人たちだけではどうにもできない、もっと根深い社会問題の表れなのです。
 たとえば、労働条件は厳しく雇用も不安定な一方で、テレビやインターネットを見れば、一般の人にはとても手が届かないような高額のレジャーや贅沢品の情報があふれています。職場で人間関係に悩んでも、管理職がうまく調整してくれるわけでもないでしょう。
 したがって、状況をきちんと理解するには、「バカが一方的に、社会生活の条件を破って世の中を住みにくくしているのではなく、病んだ社会もまたバカを生みだしている」というように、バカと社会は表裏一体であることも考える必要があるでしょう。
 大切なのは、「人間が絡む現象には、他のものにはない独特の奥深さがあるものの、とにかく実際問題として、バカはいる」ということを覚えておくことです。
 バカについて大事なことを、まずひとつ言います。それは、バカとはモラルの低い人間だということです。
 わたしたちはみんな、自分の道徳観をもっています。常日頃からそれに沿って行動し、努力を重ねながら、完璧ではなくても、なるべく正しいふるまいをこころがけているものです。そうやって、モラルの高い立派な人間になろうとしているのではないでしょうか。
 それと同時に、わたしたちは、他者のふるまいを自分の道徳観に照らして不適切だと思えば、その人はモラルが低いとみなします。バカとは、そうやって周りの人から、モラルが低いと(一時的にでも)思われている人のことだと言えます。
 絶対的なバカは存在しない
 「バカは蟻地獄だ」という本題に入る前にいろいろと検討してきましたが、このあたりで手短に、反対意見にも備えておきたいと思います。
 本書の「はじめに」に「人はみんな、他の誰かにとってバカである」と書きました。まず、これに対して考えられる反対意見を書いてみます。
 《人がみんな、他の誰かにとってバカであるなら、仮にこちらが誰かをバカだと思っても、その人のことをバカとは言えないのではないか。向こうからしたら、きっとこちらのほうがバカなわけだから……。そもそも、立派な人間とはどんな人のことで、それは誰が決めるのか。》
 この考えを突き詰めれば、絶対的なバカは存在しないということになるでしょう。なぜなら、バカとは相対的なもので、要は比較の問題だからです(人はみんなバカで、程度が違うだけ)。
 それに、バカを判断する基準になっている道徳観にも、絶対的なものはなく、人によって緩かったり厳しかったりします。
 そのため、ある人がバカかどうかは、完全に個人の見解に左右されます(その人が自分の目線で見てそう思うだけ)。そういう意味では、バカという言葉は、人それぞれの個人的な好みを反映しているだけ、ということになりますね。
 大多数の人がバカだと思えばバカ
 というわけで、確かにバカは比較の問題なのですが、ひるまずに先を続けます。人はみんな、他の誰かにとってバカである。
 わたしは心からそう思っていますが、それは、バカはみんな似たようなもの、ということではありません。一人ひとりがバカを独自に評価するのですから、そうした評価を集めて見比べれば、当然、一致する部分もしない部分も出てきます。
 そこで、本稿で取りあげて分析する対象は、ある時ある場所で、困った状況になった場合に、本人以外の大多数の人がバカだと思うような人とします(人によって細かい考えが多少違っていてもよしとします)。
 先ほど、絶対的なバカは存在しない、と書きましたが、それについてもう少し考えてみましょう。順番としては、客観的に見てバカな人が先に存在しているわけではありません。
 ある人のことを、たくさんの人が、自分の主観で「あれはバカだ」と思えば、それがその人たちの共通認識となり、結果としてその人は客観的に見てバカ、ということになります。
 人々の主観を全部合わせたときに重なる部分、つまり共通部分が、結果として客観性になると言えます。
 したがって、バカは比較の問題だから、客観的に真偽を判断し、真理を追究することはできない、というより、バカな人に下される「バカ」という評価こそが、人の立ち位置は周囲のとらえ方で決まるという、まさに人間関係の真理を表していると考えられます。
 立派とは言えないふるまいをすればバカ
 では、立派な人間とはどのような人のことでしょうか。おそらく、本稿でバカだとして取りあげている性質とは逆の性質を備えた人のことでしょう。
 他者に敬意を払う。常識的にふるまう。マナーがいい。ルールを守る。モラルが高い。親切で優しく愛情深い。共感力が高い。冷静に行動できる。知的で考え方が柔軟で話し合いができる。何かあっても寛容に受けいれて、他の人と共生できる。そうした人ではないでしょうか。
 したがって、やはりわたしの結論は、先ほど「バカとはモラルの低い人間」のくだりで書いたのと同じです。
 人は誰しも、立派な人間になろうと努力しているものですが、それでも、たとえある時ある場所に限ってのことでも、他の人と比べてうまくできなかった人、つまり、立派とは言えないふるまいをしてしまった人をバカとするなら、やはりバカは実際にいると考えてよい、となります。
 このことは、細かい点では多少異論があっても、みなさんに納得していただけると思います。
 バカは醜悪で不快
 ただ、ここでおかしなことが起こります。バカをバカだと思う人は、バカに比べれば立派な人間のはずなのに、なぜかバカを止められないのです。
 先ほど「バカは人を傷つける」のくだりで、街で見られるバカの事例をいろいろ挙げましたが、自分のことをいわばバカの目撃者役だと思っている人たちは、自分のほうが人間的に上だと感じてもいるはずです。
 どういうことかというと、仮に誰かが、あるふるまいをしたために、(たとえ一時的にでも)低レベルだとみなされるなら、他の人たちはそれより高いレベルにいることになるはずだからです。
 ですから、誰かのふるまいが間違っている、非生産的である、危険である、という場合、周りにいるわたしたちがすべきことは、その人よりも優れた人間性を発揮して何か行動し、ちっとも怒らずに、困った状況をすんなりと立て直し、バカによる被害を食い止めることでしょう。でも、それができません。なぜでしょうか。
 それは、バカはモラルに欠ける、あるいはモラルが低いというだけではないからです。ここでバカについて、もうひとつ大事なことを言います。
 「バカであることはただの欠点ではなく、醜悪でもある」ということです。バカであることは、人間の欠点の中でも不快なほうだと言えます。
 嫌悪感で親切心も愛情も消え失せる
 本当の問題はそこから始まります。まずわたしたちは、人のことを劣っているとみなす自分にショックを受けます(もちろん、劣っているとみなすには「必ず」、「それなりの」理由があります)。
 そして、自分が、人に対して引いたり、軽蔑したり、嫌悪したりという感情をもっていることに気づいてまたショックを受けます。さらに、そうしたネガティヴな感情が生まれると、もともともっていたポジティヴな力は、まさに根こそぎ奪われてしまいます。
 たとえば、公衆トイレで流さずに出ていった不潔なバカ男がいて、その後にあなたが入ってしまったらどう思いますか? あるいは、たまたま出会った資産家のバカ女が、自分が金持ちだから何をしても許されると思っていて、あなたに失礼な態度を取ったらどう思いますか?
 わたしたちは、そんな人たちより自分のほうが人間的に優れていることを、理屈でも感覚でもわかっています。でも、たとえ優れた資質をもっていたところで、それだけでは、その人たちのバカさを喜んで受けいれることなどできません。
 その逆で、ものすごくイライラします。相手をその場に置き去りにしたいと思うことや、いっそこの世から消し去りたい、と思うこともあります。
 そうした気持ちが強ければ強いほど、相手のことをバカだと強く思います。すると、相手に対する親切心や愛情は、潮が引くようにサーッと消えてしまいます。バカとは、自分で自分の周りに引き潮を作っているような存在です。
 バカのせいで感情が高ぶる
 このように、わたしたちは、形の上では道徳観に照らして人をバカだとみなしていますが、それと全く同時に、相手と感情面での関わりをもっています――つまり、感情が高ぶるのです。
 感情の高ぶりには、いいものと悪いものがあり、この場合は悪いほうです。具体的には、イライラしすぎて、深く考えもせず反射的に、みんなが共に暮らす社会など諦めようと思うのです。
 諦めたら、自分が救われるのか破滅するのか、それさえ、もはやどうでもよくなっています。とにかくバカが憎くて、まさに「バカ滅ぶべし」という気持ちでしょう。
 こちらが冷静さを失うと、からくり仕掛けのようなものが作動しはじめ、バカの罠にかかってしまいます。罠にはいろいろなパターンがあるので、ひっかからないようにするために、わたしもいろいろなたとえを駆使しながら、この先何度も説明していきたいと思います。
 これまでのわたしたちは、人々の生活を台無しにするバカを、いわば全員で輪になって取り囲み、自分たちより下に位置づけることで合意しているような状態でした。でもバカに嫌悪感をもちはじめると、今度はこちらの共感力がなくなってきます。
 そうやって、悪循環が始まります。仕組みを簡単に説明します。
① あなたが相手のことをバカだと悟る(このバカを仮に《バカA》とする)。その思いはどんどん強くなる。
② ①に比例して、親切心がなくなる。
③ ②に比例して、自分が思い描いている理想の人間像から遠ざかる。
④ ③に比例して、敵対的な人間、つまりバカになる(その何よりの証拠に、この時点であなたは、バカAにとってのバカ、すなわち《バカB》です)。
 それも無理はありません。だって、あなたはこのバカのすることの一つひとつに傷ついていて、もう顔も見たくないくらいでしょうし、自分の心のゆとりだって守る必要があるでしょう。それなのに、向こうはあなたをイライラさせ、嫌悪感を抱かせます。
 でも、あなたがバカを受けつけない気持ちになればなるほど、向こうはあなたを罵倒してきます。するとあなたは、さらに受けつけない気持ちになり、軽蔑心を強めます。その軽蔑心は、蟻地獄の砂のようにあなたを深く引きずりこみます。
 確実に向こうが悪いのですから、嫌いになるなと言うのは無理な話です。でも、嫌えば嫌うほど、あなたは、バカの蟻地獄に落ちていきます。
 バカと相対すると、建設的な方向に進むことがとても難しくなります。そうなってしまう経緯を蟻地獄にたとえてみました。
 人の欠陥をあげつらうような態度は、たちまち、その欠陥の主を貶めるだけでなく、それを見ているほう(自称「目撃者」)の品位をも落とすことにつながります。
 ちなみに、本書の「はじめに」で主体(外から観察する側)という哲学用語を出しましたが、逆に観察される側(この場合、欠陥の主)のことは客体と言います。
 つまり、人はバカに対して、ただの「目撃者」ではいられない仕組みになっているということです。確かに、バカを前にした人が中立の立場でいられる、とすると矛盾があります。
 人は誰かをバカだと思った時点で、相手に敵対的評価を下しているわけですから、すでに、その人の敵なのです。
 そして、中立性を失えば、自分も無傷では済みません。なぜなら、人をバカだとみなすこと自体が、今ここで相手に示せる愛情と親切心が減ることに直結するからです。
 こうして見てくると、バカがすごく厄介なのは、問題を生むと同時に、その問題を解決するために必要なもの(人の愛情や親切心)を壊してしまうから、ということになりますね。
 本稿のポイント
 バカにモラルを求めてはいけない。あなたが誰にでも愛情深く親切にふるまえば、問題は解決する。

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 4月2日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「バカに説教するあなたもすでにバカである…哲学者「わかり合えない相手と接するときの最終結論」
 マクシム・ロヴェール
 わかり合えない相手にはどんな態度で接すればいいか。フランスの哲学者のマクシム・ロヴェールさんは「価値体系が違う相手に説教しても、相手にはわからない方言で話しかけているようなもの。説教すること自体がバカげている」という――。
 ※写真はイメージです
 © PRESIDENT Online
 ※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。
 誰でも必ずする「説教めいた態度を取る」本当の意味
 バカがしつこいしほどにバカなおかげで、わたしたちは道徳哲学の基本をみっちり学べています。大丈夫です。考えることを楽しめるなら、バカではないと保証できます。
 ですから、たとえこの先、この本の内容が難しくなって、みなさんが眉間にしわを寄せることになっても、いわゆる「哲学の喜び」には耐えられるとわたしは信じています。
 「哲学の喜び」とは、おおざっぱに言えば、自分の概念を守っている壁を自分で壊すことです。壁を割り、外に出て、新たな領域を開拓しようではありませんか。
 ということで、わたしと一緒にこんな仮説を検証してみてください(この仮説はまだ立証されていないと思います)。
 《人はバカに説教をする。それは、ストレートな説教でも含みのある説教でも、自分の無能さに対する怒りから出る愚痴である。人はバカに道徳上の義務という概念を当てはめようとする。バカのせいでぼう然としてしまい、どうしたらいいのかわからなくなると、バカを、自分が思う、あるべき姿に変えようとするのだ。つまり、説教にはこんな言外の意味がある。
 「わたしは自分の望み通りのふるまいをきみにさせることができないから、『道徳上の義務を守るべきだ』と言っている」》
 おそらく、これに対してみなさんからは、「道徳をもちだすのが悪いような言い方だが、道徳を批判するのは違うのではないか」という意見があるでしょう。
 「道徳があるから、人は節度を保って共に暮らしていけるのであり、何らかの価値体系を、みんなで守る絶対的なルールにしないと、どうしようもない」と。
 さらにそれに対しては、こんな意見が考えられます。
 「道徳批判に罪悪感をもつのは、道徳に対する盲信であり、それは必要のない罪悪感だからすぐに捨てていい。ルールに縛られて自主性や改革が妨げられては、どうしようもない」
 価値体系としての道徳に敏感なのはいいことですが、それと、今わたしが述べていることは、全く無関係です。というのも、今は説教の話をしていて、まだ道徳そのものの話はしていないからです。
 人と人との対話において、ひとりの人間が別の人間に対し(たとえ言外であっても)、説教めいた態度を取るということ。これは、是非はともかく、誰でも必ずすることです。一家のお父さんでも、誠実な女友達でも、逆に、空気を読めない、知ったかぶりな人でも、同じです。
 説教に出てくる義務の概念は、相手を言葉で操って何らかの行動をさせることを目的としたもののように思えます。相手には、自分からその行動を取る理由はありません。義務の概念は、話し手にとってはこんな働きをします。
① 自分がその行動を望んでいるという事実が曖昧になる。
② なぜ説教をするような状況になったのか、考えなくてもよくなる。
③ 相手に求めていることに筋が通っているかどうかも、考えなくてもよくなる。
 こうして相手を動かそうとしているわけですが、これでは、生産的な対話はできません。
 説教をしても効果はない
 だとすれば、実は説教めいた態度には合理的な根拠がない可能性もありますが、まずは、こうした態度を取っても、とにかく効果はないということを明らかにしたいと思います。
 みなさんは次の文を、自分がバカに言われたと思って、あらためて読んでみてください。
 「もうこんなことはダメだぞ。おれがどうこうじゃなくて、道徳上の義務を教えてやってるだけ」
 どうですか? 痛くもかゆくもないでしょう。
 虚言癖がある人の嘘の話を聞くのと少し似ています。あなたは相手が説教をしてくるのを、言わせておいても聞いてはいません。相手の話には真実のかけらもないと思っています。
 したがって、説教は、現実の問題の答えとしては不十分だと認めなければなりません。ここでは、話者の間でお互いへの信頼が失われていることが問題です。
 相手が、本当のことや、自分が受けいれられることを言えるだろう、という信頼がないのです。これは決定的に重要な点です。
 たとえば、鳥が木の枝に止まっているように、言葉が木の枝にのっているとしたら、その枝が、バカの存在とバカの落ち度によって折れてしまっているようなものです。
 より正確に言えば、人の対話の中にある何かに、ロックがかけられているのです。そのロックは、コミュニケーション機能が働かないようにすると同時に、相手への信頼という、ちょっとしたやり取りにおいても基本となるルールを無効にします。
 説教をすれば、この信頼がないという問題を、最初の一回くらいは避けて通ることができます。
 話し手は、自分の言っていることは自分の管轄下にはないので、自分のことを一切信頼していなくてもこの話を受けいれていいのだと、相手に示唆しているわけです。こう言っているのと同じです。
 「道徳上のルールというものが本当にあって、それを作っているのはおれじゃないけど、そのルールでは、ああいうふるまいやこういうふるまいは禁止だから」
 よく考えてみると、話し手は、説教めいた態度を取ることによって、自分の発言への関与を、かなり巧妙に隠しています。
 実際、どちらも相手の言い分にもはや耳を傾けようとしない状況で、コミュニケーションを復活させるためには、自分の発言ではないふりでもするしかありません。
 説教がうまくいかない理由
 では、なぜ説教めいた態度を取っても、これほどまでにうまくいかないのでしょう?
 理由はふたつあります。まず、その説教が正しいとする根拠が全くありません。それに、説教という方法を取ること自体が、話者間の信頼が失われていることの反映でしかないのです。
 したがって、説教という形は何の役にも立ちません。バカはあなたが理屈を並べて認めさせようとしていることについて、一切知ろうという気がないのです。そもそも向こうは、あなたの理屈を全く理解できません。
 こうして、信頼の危機は、説教の正当性を争う戦いになります。説教の正当性についてもめるなら、当然、説教の中身の受けとり方についても、もめることになります。その結果、説教は、表面的には品位と徳があっても、問題の場所を移すだけで、解決しないのです。
 逆に説教をしてくるバカ
 実際、弁が立つ相手の場合、今度は向こうが意気揚々と説教をしてやり返してきます(残念ながら、たいていのバカは弁が立ちます)。
 みなさんは、たとえば善と悪の違いをわかりたいと思っていたり、人のふるまいを場にふさわしいものにする望ましい方法があることを知っていたりと、道徳に関心が高いかもしれません。
 しかし、たとえそうであっても、この場合、道徳を平然と無視しているのは向こうなので、そんなバカに道徳を説かれるいわれはありません。
 さらに悪いのは、価値体系が違うバカを相手にしたときでしょう。
 本物のバカな人たち(今わたしたちの友達ではなく、これからも決して友達になることのない人たち)は、わたしたちとは違う価値体系をもっていて、その価値体系では、わたしたちが許せないとみなすふるまいが完全に正しいと思われ、逆にこちらのふるまいが間違っていると思われる、などということが起こるのです。
 価値体系をもたないバカ
 さて、この本では、さまざまな真実を明らかにしていかなければなりませんが、今から書くことは、その中でも、一番認めがたく、一番奥が深く、一番耐えがたい真実かもしれません。
 まず、人がバカになるときは、自分の意志でなるのではなく、たまたま間違えたとか、何かが及ばなくてとか、逆に何かが行きすぎてとか、その場の状況で仕方なく、というパターンもありますが、それとは別に、価値体系をもたないバカがいるのです。
 こうした真実を明るみに出さなければならないのは残念ですが、わたしたちみんながこのことで苦しんでいるからには、物事を正面から見すえたほうがいいでしょう。
 人類を豊かにするような身体的、言語的、文化的差異を、一般に「他者性」という言葉で呼びますが、この言葉が指すものはそれだけではありません。
 「他者性」は、あらゆる社会と社会階層に、一貫性がなくても気にしない人が存在する、ということも意味します(しかも、単独に存在するのではなく、同調する仲間もいます)。
 そうした人たちは、わたしたちと違う価値体系をもつのではなく(違う価値体系をもっているなら、その価値体系自体は興味深いです)、何の価値体系ももたないことに価値を見いだしていて、要するに、全く支離滅裂なのです。
 そうしたバカをここでは「価値体系をもたないバカ」と呼ぶことにしますが、もしみなさんがそうしたバカの存在を疑っていらっしゃるなら(わたしもついこの前までなら疑ったでしょうけれども)、どんなバカなのか、ご紹介しましょう。
 「価値体系をもたないバカ」は、うっかりタイプではありません。常軌を逸していることもありません。意地悪でもありません。しかも仕事では優秀です(本物のバカがまぬけなことはまれです)。
 たとえるなら、輝かしい、本物のダイヤです。それも、今までわたしが近寄る機会があった中では一番純度の高いダイヤです。
 この人たちは、理解する能力はありますが、理解しようという気がありません。別の言い方をすれば、自分のバカさに、勇ましくしがみついているのです。
 バカにこちらの価値体系を受けいれる理由はない
 そんなわけで、相手がどんなバカであれ、とにかくバカに説教をするとぶつかる最大の困難は、そもそも説教というものが、最低限の、共通のベースがあることを前提にしていることです。
 そのベースを起点にして話しあい、自分たちのふるまいを評価しようとしているわけです。
 しかし、たとえば自分の子どもだとか、より広く言えば自分と愛情で結ばれている関係ではないバカの場合、こちらの価値体系を受けいれる理由も、それを理解した上であらためて検討するという努力をする理由も、一切ありません。
 一緒にルールを作ろうという意見さえ拒否する人を前にすれば、お互いを理解することは不可能になり、誰にもなすすべはありません。
 バカはなぜ交渉しようとしないのでしょうか。それは、わたしたちが正しいとは全く思っていないからです。みなさんはこうおっしゃるでしょうか。だとしても、理性はわたしたちとバカの両方より正しいのだから、お互いが同じように従えばいい。なぜそれを拒否するのか。
 どうやら理解されていないようですね。バカはわたしたちを求めていないのです。こちらに敬意をもっていないだけでなく、何よりも存在を眼中に入れたくないのです。わたしたちのことは考えないのです。
 向こうの最大の望みは、わたしたちが全く存在していないかのようにすることです。より正確に言えば、わたしたちの存在とそれが引きおこすものには、一切正当性がないかのようにふるまうことです。
 たとえば、わたしたちはいろいろな感情をもちます。欲望や考えや希望や恐れを抱き、相手が困るような要求をすることもあれば、逆に、愛情をもっていてもそれを抑えたりもします。そうしたものは、行動や言葉や人に与える印象として表面に現れます。
 でも、バカから見ると、わたしたちは無で、何も起きていないのです。そうした態度はとても愚かですし、そもそもとても無礼なので、こちらはぼう然としてしまいますが、次のことをきっぱりと認めなければなりません。
 両者の間で、お互いに思いやりをもつというあり方はたった今崩れ、成りたたなくなったのです。共存というあり方と言ってもいいでしょう。
 わたしも、これを書いている自宅でそんな経験をしましたが、おかげでわたしの目の前には、大げさでなく、人生最大の、目もくらむような深い溝ができました。
 対話ができないなら、正当性を主張しても通らない
 こうなると悲惨で、なんとか対話らしきことをしようと努力しても全て無駄に終わります。なぜなら、バカとこちらの間には、もはや信頼も、共通の望みさえも、一切ないからです。したがって交渉など論外です。もう言葉も通じません。
 そういうわけで、こちらが自分より上位にある正当なものをもちだしたところで(理性でも、道徳でも、神でも、何かわかりませんが哲学で言うところの「絶対」でも)、相手に無視されて対話にすらならないのでは、正当性を主張しても通りません。
 そうしたものをもちだすのは、相手の道徳心を呼び覚ますための必死の試みだというのに、その正当性自体が、対話の最中に崩れ去ってしまうのです。
 とにかく、わたしたちがバカに説教するときは、相手にはわからない方言で話しかけているようなものです。
 もともと、言葉には、厳密なところもあいまいなところもあるため、仮に気の合う仲間同士でも、誤解はしょっちゅうです。でも、何か問題が起きたときに、言葉がちゃんと通じないと、誤解は大きく膨らんでしまいます。
 記号の解釈も誤解の原因
 残念ながら、誤解は言葉によるものだけではありません。人は、言葉以外にも、さまざまなものを交わしています。声のトーン、身ぶり、態度、容姿など、五感で受けとる印象もそうです。
 人は、過去の経験を反映させながら、今起きていることを消化するということもしています。それを全部混ぜあわせたものを、各自が思い思いに解釈するので、もともと解釈というものは、人によって食い違ったり、まるっきり正反対だったりすることもあります。
 このように、人はいろいろな情報(記号)を読みとって解釈するわけですが(ちなみに、こうしたことを研究する「記号論」という学問があります)、相手への思いやりを失うと、解釈はとんでもない方向に行きます。
 わたしはこれを書きながら震えています。そうなると、もはや打つ手がないのです。
 こう言ってよければ、人と人の対話について考えるのは、もはや病理学の領域ですね。病気の原因や発生順序を突きとめるように、なぜおかしなことになってしまうのか、引きつづき考えていきましょう。
 バカと波長が合わない場合
 人と人が対話をする中で、相手への理解と信頼が薄れ、相手の正当性を認めなくなる原因は、記号の誤解以外にもあります。
 人と人の間には、親近性と言えばよいのか、深い部分で通じあう何かが存在することがあります(スピリット、バイブス、フェロモンなど、呼び名は何でもかまいません)。
 それが合えばいいのですが、もちろん合わないこともあります。よく、ウマが合う合わないとか、波長が合う合わない、という言い方をしますよね。
 たとえば、バカが気に入らない何かがこちらにある場合、それはずっと変わらず存在するわけですから、向こうは居心地が悪くなります。
 こちらが何の動作もせず、一言も話していなくても、向こうは攻撃されたように感じます。そして、たいていは、バカとこちらの両方が、お互いに同じことを感じています。
 たとえば、これを読んでいるあなたとわたしの場合を考えてみます。あなたはわたしの声が嫌で、わたしはあなたの体のかき方が嫌だとしても、お互いの話を聞くことはできるでしょう。
 相手がバカだと、そうはいきません。潮が満ちて砂浜を覆うかのごとく、バカはこちらの価値体系を壊して、自分の価値体系もどきに全力で従わせようとします。
 なぜバカとは対話ができないかというと、こちらの何かが気に入らないと、バカは言葉を使って(もしそれを言葉と呼べるならですが)、こちらを挑発し、苛立たせ、侮辱してくるからです。
 声をひそめたり、震え声を出したり、怒鳴ったりと、いろんなふうに言葉を繰りだし、時には長々と声高にしゃべりたてて、いかにも重々しい口調であなたに人生を説きさえするのです。
 もはや、認めるしかありません。道徳などの正当なものをもちだしても、その正当性が通らないなら、それは間違いなくエンパシー(共感力)が失われているのであり、同時に、もう修復できない状況になっているのです。
 このように対話が破綻すると、間違いは誰にでもあるといった結論には至りません〔心理学で言うところのコモン・ヒューマニティー(※)に失敗するというわけです〕。
 バカはまだあなたに何か言っていますか? ここまでいろいろと考えて学びを得てきたわたしたちですから、バカの話にだって、おそらく耳を傾ける価値はあるでしょう。
 本稿のポイント
 言葉でわかってもらおうとするのはやめよう。相手はわかりたいと思っていない。
 ※……失敗や挫折は人間なら誰でも経験すると考えること

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