🥓37〉─1─高みの見物を楽しむ善意面した大人達は「頑張ばれ」と虚しい声援をおくり自己陶酔に耽る。~No.168No.169No.170No.171 @ ㉛ 

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 2017年9月28日号 週刊新潮「医の中の蛙 里見清一
 頑張れ頑張れ 
 無意味な仕事
 ……
 囚人に対して懲罰として苦役をさせたいと思えば、明らかに無意味な仕事、たとえば、大きな穴を掘り、掘ったらすぐにそれを埋める、その繰り返し、をやらせればいい、とどこかで読んだ。大抵の囚人は耐え切れず精神に異常を来すという。
 ギリシャ神話に登場するソーシュポスの物語は、そういう『無意味な仕事』の本家である。神の怒りを買ったシーシュポスは、大きな岩を山頂まで運ぶ苦行を課せられる。やっとのことで押し上げた途端に岩は自らの重みで反対側に転がり落ち、シーシュポスは最初からやり直さなければならなくなる。そしてそれが永遠に続く。
 このような『無益で希望のない労働』に対して、それこそが人間のなすべき仕事、生きる意味であると説くのがアルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫)である。白状すると、私はこの本を読もうとして、難解のあまり途中で投げ出したのだが、人間はどうせ死んでしまい、すべて消え失せるのに、それでも生き続けるのだ、という主旨には納得である。
 頑張ることも目的
 そう言えば、賽の河原で親の供養のために石を積む子達は、積み上げた石の塔を何度も鬼に壊されながら、それを繰り返す。最終的には地蔵菩薩に救われるという話になっているが、子供達はその結果を知らずにひたすら『壊される運命』と分かっている石塔を作る。
 分かっていても同じことを繰り返す要因の一つには、人間は何かをせずにはいられない、ということがある。大震災のあと、ストリートミュージシャンが、『自分達には歌うことしかできない』と活動を続け、ビートたけしが『できることがなければ黙ってじっとしてろ』と一喝した、というのはその端的な例である。古代ギリシャの歴史家ポリュビオスによると、『物事が決まらない宙ぶらりんの状態が続くことが、一番人間を参らせる』そうで、実は『じっとしてる』ことは非常に難しい。
 末期の癌患者さんが、明らかに有害無益な治療を、そのことを十分に理解した上でなお希望する、というのは私も日常茶飯といえるくらい経験する。『座して悪くなるのを待つのは耐えられない』というのがお決まりの文句である。
 そういう『無駄なこと』を意味ありげにする魔法の言葉が『頑張ろう』であって、『頑張ろう』という 呪文を唱えることにって、客観的には無意味な努力、何も達成できない苦労が、それ自体に価値があるように錯覚される。つまりは、何かを達成するのが『目的』だったはずなのに、その目的が失われた段階で、『頑張っている』こと自体が『新しい目的』と化するのである。
 それを批判するのは簡単だが、カミュの指摘するように、人間の存在そのものが、シーシュポスの受ける懲罰と本質的に同一であるならば、『馬鹿げている』と一笑に付することはできない。福田恆存先生も、『私たちがひとたび、ある行為に身をゆだねたばあひ、もはや手段と目的との分離は消滅する』と喝破している。
 だが、それでもなお、私は『頑張る』という言葉も、『頑張ろう』『頑張りましす』を連発する人達も嫌いである。そしてもっとも嫌いなのは、『頑張る』人のわきで『頑張れ』を繰り返す『善意の人々』である。『何の意味もない』ことのために苦しんでいる人に向かって、高みの見物を決め込んでただ『頑張れ』と『応援』し、挙げ句の果てに『感動をもらいました』などと涙まで流すその顔は、たぶん世の中で最も醜く愚かだと、私は思う」




 
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