🚱7〉─1─地球の限界とフロンティアの消滅の中でいかに上手く衰えるか。夕張モデル。~No.24No.25No.26 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1945年当時に約7,000万人だった総人口が、2000年頃に約1億2,000万人に人口爆発(約5,000万人)して、戦後復興、高度経済成長そしてバブル経済が発生して世界第二位の経済大国となった。
 2016年以降、社会保障を受ける老人が急増し、低賃金の為に結婚できない若者と貧困の為に結婚しても子どもを生まない夫婦の増加で、少子高齢化が加速度的に悪化する。
 経営の失敗に苦しむ日本企業は、再建資金を中国資本に依存し、経営立て直しの為に中国系企業に吸収されその傘下に入っていく。
 日本人で買い手のいない日本国内の土地や建物は、中国資本に買われていく。
 将来の日本には、敗戦からバブル経済までに起きた人口爆発における成功モデル、成長モデル、ビジネスモデルなどは、人口減少においては一切通用しない。
 化石以下で価値のない、むしろ害のみを生み出すオールドモデルを踏襲すれば、日本は生存できず滅亡するだけである。
 今後どう生きて行くかは、主権在民として、主権者である日本国民の責任である。
 強いリーダーを選挙で選び、そのリーダーの命令に従い行動し生きて行こうとする時、日本は滅亡する。
 強いリーダーに全てを丸投げして、思考停止して盲目的に従って安易に生きようとする、主権在民は無用の長物。
 強いリーダーシップは、個性を重視する西洋や中国・朝鮮では有利有益であるが、個性を重視しない日本社会では有害無益である。
 個性の薄い日本人が、即断即決の強いリーダーを持つと思考停止の馬鹿となり行動不全の怠け者となる。
 将来に亘って、人類滅亡への人口爆発は続くが、日本再生の人口爆発は起きない。
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 2016年6月号 新潮45「日本のビョ−キ 里見精一
 人の行動を決めるもの『目標ロス』とその対策 (10)
 『大それた望み』が『できちゃった』時、なぜあれほど大きい喪失感を味わうのか?受験生はすべきことを見失い、極端な奴はオウムに・・・。
 皮肉な状態
 かつて私は、こういうことを書いた覚えがある(『医師の一分』新潮新書)。
 共産主義の理想形(究極の姿)では、各人が『能力に応じて働き、欲望に応じて取る』のだそうだ。そういう社会は生産性が非常に高いので、みながそれなりに働いていれば、全員の欲求をみたすだけのものが出てくるという意味らしい。もちろん、そんな社会はなかったし、今や理想としても存在しない。現実に広がるのは、一定の余裕しかなく、必要分の確保のためには誰かを犠牲にせざるを得ない、『楢山節考』の世界である。
 ……
 つまりは、『完成した理想郷』で、先が見通せる社会では、いかにそこにあるのが『幸福』であり『快適』なのだとしても、『何かが足りない』ため人間の精神を充足しきれないのである。オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』は、同じように社会の安定と人々の『幸福』を達成した未来世界が舞台であるが、それは理想郷ではなく、人間が尊厳を失ったディストピアとして描かれいる。そこでは人々が『幸福』に疑問を持たぬよう、生まれたときから系統的な洗脳が行われ、また一種の麻薬漬けのような状態で管理されている。
 これは物質的な充足に関する話に限らない。精神的な『満足』ですら、得られたその先には荒廃が待っている、というのはエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に書かれている通りである。中世的な抑圧から『解放』され、具体的には第一次世界大戦後のドイツでワイマール共和政下の自由が与えられた大衆は、その自由を自ら擲(なげう)ち、『進んで』依存と従属を求めてナチズムの支配下に入った。
 つまり、誰もが羨むような、そして、民衆も政治家もがまさにそういう社会の実現に向かって努力しているはずの、『幸福な理想社会』は、強制力をもってしてでもなければ、人々をそこに?ぎ止めることができない、という非常に皮肉な状態に陥るらしい。どうしてか、を考えるのが本稿の主旨である。
 一言で片付けてしまえば、目標は達成した途端に失われるから、ということになろうか。そしてその『目標』は、達成されそうもない『大それた望み』であればあるほど、『できちゃった』時の喪失感が大きい。芥川龍之介芋粥』の主人公である貧乏侍は、芋粥を飽くまで食べたいという願いを地方の豪族にあっさり叶えられ、虚脱状態に陥ってしまった。必死の努力で大学に合格した受験生は、入った途端にすべきことを見失い、極端な奴はオウムに入信する。まして極端な理想社会が実現してしまったら、人々は次に何を目標にしたらよいのか分からなくなってしまう。
 しかし何も目指すものがないのは、『何ら不足はない』こととイコールのはずである。だったらめでたくできあがった理想状況に安住して『幸せに』暮らしていれば良さそうなものだが、そうはいかないのが人間の性質なのだろう。我々は、『まだ達成できない』目標に向かって進む、という、そのプロセス自体に価値を見いだすのである。
 そうでなければ、キブツの住人までいかなくても、現代人の『不幸』は説明がつかない。『坂の上の雲』を目指していた明治の昔はもとより、高度成長の昭和時代だって、今よりもよほど生活水準は低く、また治安も悪かった。今の私はウォシュレットになれてしまい、海外に出るのも億劫であるから、鳥取県の故郷で暮らしていた昭和40年代の、汲取式のトイレとバキュームカーの臭いを覚えている。交通事故による死者は、最近は年間4,000人台であるが、昭和45年には1万6,000人も超えていた。客観的に見ればどちらが『幸福な時代』かは明らかであろう。
 だがしかし、人々が口にするのは『あの時代には夢があった』ということである。してみると、そうなればいいなと考えることの方が、実際に『そうなる』よりも、また、あんなものがあればいいなあと夢見ることの方が、ここで『そのもの』を手にするよりも、『幸せ』なのだろう。
 そこまでひねくれた考えをしなくてもいいかも知れない。人が尊重するのは、そうして現代に欠けているものは、『これからこういうことができる、ああいうものが手に入る』という、『右肩上がり』である時代の雰囲気だと思われる。災害やテロなどの不安要素は別として、現代を『不幸』にするのは、これからは『ジリ貧』であるという暗い見通しであろう。その『予感』は、たぶん正しい。生産人口が急速に減り、高齢者が加速度的に増加する社会で、『上向き』になるはずがないからである。
 現実的には、これからの日本は、『いかにしてうまく衰えていくか』を模索しなければいけないのだろう。それにはモデルがないわけではない。第二次世界大戦後の英国が、超大国の地位から滑り落ちた後、紆余曲折を経ながらもなんとか『老成した先進国』として幅を利かせている(ようにみえる)のはその一例である。それよりなにより、個人のレベルで、『いい年の取り方をした』と思える人と、『悲惨な老後』を迎えている年寄りとの相違は、傍目にもいやになるほど明らかである。
 その差をもたらす要素の第一はカネであろうが、それについてはこの間も論じたので、今回は措くことにする。人間にとって『目標』が不可欠なのだとすると、いかにうまくそれを設定するのか、ということが課題になる。
 後ろ向き『目標」
 ……
 間違いなく、医療の他の分野、たとえば老化の研究などでも事情は同じである。再生医療の手法などを用いて『老衰』や『認知症』の治療法ができるかも知れないが、莫大なコストがかじゃるのは間違いない。薬の開発費はだいたい、9年で倍増のペースだそうであるから、今後とも問題は大きくなる一方である。そもそも、病気をやっつけ、老衰を克服して、90歳の寿命を120歳にしたとしよう。その30年で、人間は何をするのだろうか?少なくなる生産人口は、溢れんばかりの『100代、110代の老人』をいかにして支えるのか?
 そう考えていくと、我々にはもはや、前方の高いところに『目標』を掲げることはできそうにない。やれることは、いかにして持続可能な『現状維持』をするか、であって、場合によっては少しずつ後退することも許容しなければならない。
 ……
 だがしかし、ちょっと気取った言い方をすれば、『地球の限界』が誰の目にも明らかとなった今、『目標の切替』はどのみち不可避ではないか。無限の略奪(それは原住民からの、という要素より、環境からの、と考えた方がよい)を『目標』とできたフロンティア時代はとっくに終わっている。
 『一利を興すは・・・』
 ……
 チンギス・ハン宰相、耶律楚材は『一利興すは一害を除くに如かず、一事生むは一事を省くに如かず』と戒めたという。無限のフロンティアを開拓していたモンゴル帝国において、こういう考えをもっていたのは驚異としか言いようがない。そして膨張帝国のトップにあって、正反対の政治哲学をもつ部下を重用したチンギス・ハンもさすがである。現代民主国家の『主権者』である国民に、そういう見識がもてるだろうか。
 繰り返すが、人間には目標が必要であ。マラソンランナーは、ゴールがあるから、気持ちを切らさず走るのである。ゴールが見えなかったら、さしあたりそこの電柱まで、あの角までと思って行く。そして完走したら、すぐ次の『目標』を口にする。目標がないと、やっていけない。いかに幸福であろうと、満ち足りていようと、『今より上』に目指すものがなければ、その精神は荒廃する。
 唐突だがそう考えていくと、人口知能(AI)が支配する未来社会は、どう考えてもバラ色にはならないように、私には思われる。仕事が奪われてみんな失業し路頭に迷う、というような悲観論者は、こう説く。楽観論者は、こう説く。AIが嫌なことはみんな引き受けてくれて、人間は苦役から解放されて自分たちの好きなことに集中できる。しかし果たしてそれが『理想郷』になるのか。今までの論考からして甚だ疑問に思うのは、私だけではないだろう。
 その『理想的な』未来社会で人々は、強制力で縛られるのではないとしたら、何を『目指して』生きて行くのか。『外から』、つまりお上から各人にそれぞれの『目標』が与えられる、という究極の管理社会になるしかない、と私は想像する。その『お上』は、AIそれ自体かも知れない。
 なんにせよ、現代の不幸は、フロンティアの喪失とか人口の高齢化とか地球環境の有限性など、『限界』が明らかになっているのに、『分に応じた』目標の切替ができずにいることだろう。近代以降、解放された欲望は進歩の源であった。そしてそれは破壊に向かう原動力にもなる。
 どうも、目標なくして理想郷に安住できるのは、仙人にしかできない芸当らしい」
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 2016年5月28日号 週刊現代「カネ学入門 藤原敬
 『文化』を支えるカネ遣い
 ……
 伝統工芸やそれを支える技術は今凄い勢いで失われています。理由は簡単、需要が無いから。カネを出して買ってくれる人がいなくなれば供給は無くなります。しかし、それで失うには惜しいものが沢山あるのです。
 ……
 『クールジャパン』の基盤である伝統工芸やそれを支える技術。大人がカネを出して守るべきもの。日本に多くあるのです」




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