⛑242〉─1・B─ひとりぼっちで生きる「孤人社会」で猛威を振るう「不謹慎狩り」の正体。〜No.519  

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 産経新聞IiRONNA「関連テーマ 猛威を振るう「不謹慎狩り」の正体
 「不謹慎狩り」が猛威を振るっている。大災害などが起こるたびに、有名人らのSNSを攻撃し、誹謗中傷を繰り返す。些細な言動を勝手に「不謹慎」と決めつける異常な現象だが、どうもその正体はごく一部の、しかも孤独な連中によるものらしい。彼らはなぜ「狩り」を続けるのか。
 ひとりぼっちで生きる「孤人社会」が他者への不寛容を増幅させる
 『遠藤薫』 2018/11/05
 遠藤薫学習院大教授)
 「不謹慎狩り」あるいは「不謹慎たたき」といった言葉をよく耳にする。
 事故や災害などの悲劇が起きると、社会全体に悲しみが広がる。そんな状況で、共感的悲しみにそぐわない発言や行動が、非当事者から、過剰ともいえる批判を受ける現象を「不謹慎狩り」や「不謹慎たたき」などと呼ぶ。
 それにしても「狩り」「たたき」とは嫌な言葉だ。ある日突然「おまえは魔女だ」と名指され、残酷な刑に処せられる中世の「魔女狩り」を連想する。「池に落ちた犬はたたけ」という言葉もある。内容の是非はともかく、強者が弱者をたたきのめすイメージは愉快なものではない。
 「不謹慎狩り」という現象で、なぜ狩人たちが「強者」となり得るかといえば、「つらい思いをしている人たちに対する共感(配慮)を欠いている」という主張が、一見、抗(あらが)いがたい「正論」と感じられるからであろう。
 確かに、つらい思いをしている人たちのつらさが増すような心ない振る舞いをたしなめることは必要かもしれない。ただし、それが相手をたたきつぶすような過剰な制裁である場合、そのような行動自体が「共感を欠く」行為となる。ましてや、過剰な制裁がウイルスのように広がって、「不謹慎な行為者」に対する公開リンチになるような事態はまったく本末転倒である。しかも、「不謹慎に見える言動」が本当に「浅慮」や「共感のなさ」によるかものかどうかは微妙である。
 例えば、東日本大震災後、被災地の子供たちが「津波ごっこ」をしていることが困惑的に取りあげられたことがあった。しかし、児童心理学者によれば、心に傷を負った子供たちは、無意識に、その体験を遊びによって克服しようとするのだという。
 にもかかわらず、「不謹慎狩り」が起こるとメディアで注目されることが多い。
 しかし、他の研究者たちも指摘しているように、「不謹慎狩り」を実際に行っている人は極めて少ない。筆者が2017年10月に行ったインターネットモニター調査(N=1676、本稿で参照する「調査」はこの調査である)では、「不謹慎狩り」を含む「炎上」案件に加わったことがあると答えた人は、全体の1・4%にすぎなかった。つまり、「不謹慎(に見える)言動」を具体的に「狩ろう」とするのは、実際には少数意見であるにもかかわらず、社会的には非常に大きく可視化されてしまう傾向があるのではないだろうか。
 なぜ小さな声が大きく響くようなことが起こるのか。それは今日のメディアの発展によるものだ。ソーシャルメディアは言ってみれば、すべての声、ありとあらゆる発言を、広い範囲に送り出す。こうした発言は、リツイートされたり、「いいね」されたりして拡声されていく。
 ただし、リツイートや「いいね」をする人は、必ずしもその意見に賛成だったり共感したりするからそうするわけではない。「え?」と思ったり、驚いたり、反発したりする場合にも、その意見はリツイートされて、さざ波を起こしていく。
 さらに、「ネット時代」と言われる現代だが、マスメディアも依然として大きな影響力を持っている。マスメディアは、ソーシャルメディアで拡声された「ちょっと変わった意見」を取り上げることもある。批判的だったり、冷笑的だったりするかもしれないが、昔からよく言われるように、「犬が人間にかみついてもニュースにならないが、人間が犬にかみつけばニュースになる」のである。マスメディアに取り上げられた話題は、ソーシャルメディアでさらに注目の話題になる。
 こうして、もしかしたら誰も賛成しない「変わった意見」が、広く社会に認知されるようなことも起こり得る。それが、マスメディアとソーシャルメディアが相互に影響し合う「間(かん)メディア」の時代の特徴である。
 さて、先にも指摘したように、悲劇的な状況の中で、不謹慎な言動をたしなめようとしたりすること自体は悪いことではない。ただそれが、「不謹慎たたき」と呼ばれるような、一方的で、過剰に不寛容な批判は望ましくない。
 しかも、上に述べたように、常識を外れるような「狩り」が社会的認知を得ると、それに触発されて、つらい状況にある人への共感というより、自分の中の攻撃性を発散させるかのような「不謹慎狩り」に同調する者も現れる。それが伝染し、増殖していくことで、本来はちょっとした「義憤」であったかもしれないものも、相手の実名や住所を曝(さら)したり、脅迫したりする「不謹慎狩り」と呼ばれるような過剰な社会的制裁へと自己増殖していく。
 このとき、元にあったはずの「つらい人々」への共感は次第に忘れられ、個人的な「正義」によって他者への不寛容がむき出しになっていく。
 なぜ小さな声が大きく響くようなことが起こるのか。それは今日のメディアの発展によるものだ。ソーシャルメディアは言ってみれば、すべての声、ありとあらゆる発言を、広い範囲に送り出す。こうした発言は、リツイートされたり、「いいね」されたりして拡声されていく。
 ただし、リツイートや「いいね」をする人は、必ずしもその意見に賛成だったり共感したりするからそうするわけではない。「え?」と思ったり、驚いたり、反発したりする場合にも、その意見はリツイートされて、さざ波を起こしていく。
 さらに、「ネット時代」と言われる現代だが、マスメディアも依然として大きな影響力を持っている。マスメディアは、ソーシャルメディアで拡声された「ちょっと変わった意見」を取り上げることもある。批判的だったり、冷笑的だったりするかもしれないが、昔からよく言われるように、「犬が人間にかみついてもニュースにならないが、人間が犬にかみつけばニュースになる」のである。マスメディアに取り上げられた話題は、ソーシャルメディアでさらに注目の話題になる。
 こうして、もしかしたら誰も賛成しない「変わった意見」が、広く社会に認知されるようなことも起こり得る。それが、マスメディアとソーシャルメディアが相互に影響し合う「間(かん)メディア」の時代の特徴である。
 さて、先にも指摘したように、悲劇的な状況の中で、不謹慎な言動をたしなめようとしたりすること自体は悪いことではない。ただそれが、「不謹慎たたき」と呼ばれるような、一方的で、過剰に不寛容な批判は望ましくない。
 しかも、上に述べたように、常識を外れるような「狩り」が社会的認知を得ると、それに触発されて、つらい状況にある人への共感というより、自分の中の攻撃性を発散させるかのような「不謹慎狩り」に同調する者も現れる。それが伝染し、増殖していくことで、本来はちょっとした「義憤」であったかもしれないものも、相手の実名や住所を曝(さら)したり、脅迫したりする「不謹慎狩り」と呼ばれるような過剰な社会的制裁へと自己増殖していく。
 このとき、元にあったはずの「つらい人々」への共感は次第に忘れられ、個人的な「正義」によって他者への不寛容がむき出しになっていく。
 このような現象が起こると、「ソーシャルメディアが普及したから…」といったソーシャルメディア原因説が語られる。もちろん、メディア環境が変わることで社会は変化する。先にも述べたように、マスメディアとソーシャルメディアが相互作用する「間メディア」の時代には、このような現象がこれまで以上に「見える化」されているのは確かだろう。けれどもその新しいメディア環境を生み出したのはまさにその社会なのである。その意味で、社会とメディアは一体のものといえる。
 では、なぜ他者に対する不寛容が蔓延するのか。
 ロバート・パットナムという米国の社会学者は、これを「社会関係資本」(人々のつながり)の低下によるものと分析している。彼は、社会的なつながりがなくなると、人は孤立し、他人への寛大さや、他人と自分が平等だという意識、そして政治的参加の意欲が低下すると指摘し、それは世界的傾向であると述べている(『孤独なボウリング』)。
 日本でも「社会的なつながり」の低下が指摘されている。例として、筆者が行った調査の結果を図2に示す。これは、災害、健康問題、仕事、経済状態などで困ったとき、誰に頼ることができるかを尋ねた結果である。これによれば、現代の日本人は、困ったときに頼りにできるのはほぼ家族である。家族がいない人は厳しい状況に置かれることになる。頼れるものは何もないという人も多い。何とも寂しい社会の風景である。

 図3は、近所付き合いについて聞いた結果の一部で、近所の人と生活面で助け合う関係を持っている人の割合を示した者である。性別では女性の方が、年代では高年齢層の方が緊密な近所付き合いをしている。ただし、70代とそれ以下では大きなギャップがある。世帯年収では高所得層の方が近所付き合いをしているものの、1200万円以上になると少なくなる。居住地では、予想に反して非都市部でむしろ低く、地方中都市で最も高くなっている。
 いずれにせよ、その割合は極めて低く、図2とも合わせて、地域共同体の衰退がうかがわれる。「地域」は人々が協力し合って生きる所ではなく、寝食のためのカプセルとしての「住居」がただ並んでいるだけの場所になりつつある。
 このように個人が孤立した状況では、人は他人に共感を持つよりは、自己を守るために他人に対して不寛容な構えをとらざるを得なくなるのかもしれない。そのストレスが、具体的に自分に被害の及ばない「不謹慎行為」にさえ攻撃的行動をとらせ、それを一種のエンターテインメントとするような心的態度を構成するのかもしれない。
 ひとりぼっちで生きる「孤人」たちの社会が、生き心地の良い社会であるはずはない。
 「不謹慎狩り」を鏡として、他者に対する「共感」と「寛容」をもう一度育て、生き心地のよい社会について考えたい。」

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