🌁3〉─1─経団連とメディアがばらまく職務(ジョブ)型雇用のウソ。~No.6No.7 

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 2020年11月5日 産経iRONNA「関連テーマ メディアがばらまく「ジョブ型雇用」のウソ
 職務を明確化した「ジョブ型」の雇用制度に熱い視線が注がれている。新型コロナで鈍化する経済の起爆剤になると期待されているが、耳慣れない制度だけに労働者の権利が守られるかを懸念する声は多い。一部のマスコミが報じる不正確な「ジョブ型雇用」像を労働問題の第一人者がぶった切る。(写真はゲッティイメージズ
 成果主義?解雇されやすい?思い込みが煽る「ジョブ型雇用」不安
 『濱口桂一郎』 2020/11/05
 濱口桂一郎労働政策研究・研修機構研究所長)
 経団連は今年1月に公表した『2020年版経営労働政策特別委員会報告』で、職務(ジョブ)を明確にした雇用制度「ジョブ型雇用」を打ち出した。新型コロナウイルス禍でテレワークが急増し、テレワークがうまくいかないのは日本的な「メンバーシップ型」のせいだ、今こそジョブ型に転換すべきだという声がマスコミやネットでわき上がっている。
 日本型雇用システムの特徴を、欧米やアジア諸国のジョブ型と対比させて「メンバーシップ型」と名付けたのは私自身であるが、昨今のジョブ型という言葉の氾濫には眉をひそめざるを得ない。
 というのも、最近マスコミにあふれるジョブ型論のほとんどは一知半解で、言葉を振り回しているだけだからだ。ここでは、その中でも特に目に余る2つのタイプを批判しておきたい。
 1つ目は特に日経新聞の記事で繰り返し語られる、労働時間ではなく成果で評価するのがジョブ型だという議論だ。あまりにも頻繁に紙面でお目にかかるため、そう思い込んでいる人が実に多いのだが、これは9割方ウソである。
 ジョブ型であれメンバーシップ型であれ、ハイエンドの仕事になれるほど仕事ぶりを評価されるし、ミドルから下の方になるほど評価されなくなる。それは共通だが、そのレベルが違う。
 多くの人の理解とは逆に、ジョブ型社会では一部の労働者を除けば仕事ぶりを評価されないのに対し、メンバーシップ型では末端のヒラ社員に至るまで評価の対象となる。そこが最大の違いである。
 ジョブ型とはどういうことかを基礎まで戻って考えれば当たり前の話だ。ジョブ型とは、最初にジョブがあり、そこにジョブを遂行できる人材をはめ込む。人材の評価は事前に行われるのであって、後は担当のジョブをきちんと遂行できているかだけを確認すればよい。
 多くのジョブは、その遂行の度合いを細かく評価するようにはなっていない。仕事内容などを明記した職務記述書(ジョブディスクリプション)に書かれた任務を遂行できたかどうかが焦点であり、できていれば定められた価格(賃金)を払うだけである。これがジョブ型の大原則であって、そもそも普通のジョブに成果主義などは馴染まない。
 例外的に、経営層に近いハイエンドのジョブになればジョブディスクリプションが広範かつ曖昧であって、仕事ができているか否かの判断がしにくく、成果を細かく評価されるようになる。これが多くのマスコミや評論が想定する成果主義であろうが、それをもってジョブ型の典型とみなすことはできない。米国の大学がすべてハーバード大並みの教育をしていると思い込むこと以上に現実離れしている。
 これに対し、日本のメンバーシップ型においては、欧米の同レベルの労働者が評価対象ではないのと正反対に、末端のヒラ社員に至るまで事細かな評価の対象になる。ただし、そもそもジョブ型ではないので、入社時も入社後もジョブのスキルで評価されるわけではない。
 では、彼らは何を基準に評価されているのかというと、日本の会社に生きる社員諸氏は重々承知のように、日本的な意味における「能力」を評価され、「意欲」を評価されているのである。
 人事労務用語で言えば能力考課であり、情意考課である。このうち「能力」という言葉は要注意であって、いかなる意味でも具体的なジョブのスキルという意味ではない。社内で「あいつはできる」というときの「できる」であり、潜在能力、人間力等々を意味する。
 情意考課の対象である「意欲」は、要は「やる気」であるが、往々にして深夜まで居残って熱心に仕事をしている姿がその徴表として評価されがちである。また、業績考課という項目もあるが、集団で仕事を遂行する日本的な職場では一人一人の業績を区分けすることも難しい。つまり、成果主義は困難である。
 このように、ハイエンドではない多くの労働者層を見れば、ジョブ型よりもメンバーシップ型の方が圧倒的に人を評価しているのだが、その評価の中身が「能力」や「意欲」に偏り、「成果」による評価が乏しいということである。
 問題は、この中くらいから末端に至るレベルの労働者向けの評価スタイルが、それよりも上位に位置する人々、経営者に近い側の人々に対しても適用されてしまいがちだということであろう。
 ジョブ型社会でのカウンターパートに当たる米国などの労働者「エグゼンプト」は、ジョブディスクリプションに書かれていることさえちゃんとやっていれば安泰な一般労働者とは大きく事情が異なり、成果を厳しく評価されている。日本の管理職はぬるま湯に安住しているという批判はここからくる。
 そしてその際、情意考課で安易に用いられがちな「意欲」の徴表としての長時間労働がやり玉に挙がり、労働時間ではなく成果で評価するのがジョブ型だという、日経新聞でお目にかかる千編一律のスローガンが生み出されるというわけだ。
 ハイエンドの人々は厳しく成果で評価されるべきであろう。その意味で「9割方ウソ」の残り1割は本当だと認められる。しかし、そういう人はジョブ型社会でも一握りにすぎない。
 ジョブ型社会の典型的な労働者像はそれとはまったく異なる。もし、ジョブ型社会では皆、少なくともメンバーシップ社会で「能力」や「意欲」を評価されている末端のヒラ社員と同じレベルの労働者までが成果主義で厳しく査定されるというのであれば、それは明らかな誤解であると言わなければならない。
 ジョブ型とメンバーシップ型の違いは、そんなところには全くない。「始めにジョブありき」が最初であり最後、ジョブ型のすべてである。ジョブディスクリプションに具体的内容が明示されたジョブが存在し、それぞれに、ほぼ固定された価格が付けられている。その上で人材を募集し、スキルを有する人間が応募する。ジョブインタビュー(面接)を通じて現場管理者が応募者を採用すれば、実際に就労してジョブを遂行できるかどうか確認し、賃金が支払われる。多く場合、ジョブ型とはこれに尽きるのである。
 もう一点、ジョブ型になれば解雇されやすくなるという趣旨の議論が推進派、反対派の双方で見られる。以前、出席した政府の規制改革会議でも、そのような質問を受けた。最近では東京新聞に解雇しやすいとジョブ型の導入に警鐘を鳴らす記事が掲載された。
 東京新聞(電子版)9月28日付の記事のイラストでは、日本型雇用の欄には「解雇規制あり」と書かれ、裁判官が「解雇ダメ」と宣告している一方、ジョブ型雇用の欄には「職務がなくなれば解雇」「能力不足でも解雇」と書かれていた。ジョブ型の推進派も反対派も同じようなメッセージを発しているだけに、そう思い込んでいる向きも多いのだが、これも8割方ウソである。
 「始めにジョブありき」のジョブ型は、日本を除く多くの国々で行われている。そのうち、ほとんどすべての国で解雇規制がある。どんな理由でも、あるいは理由なんかなくても解雇が自由とされているのは米国くらいである。
 確かに米国という国の存在感は大きい。だからといって、ジョブ型を取り入れている他の諸国を無視して「解雇自由」がジョブ型の特徴だなどと主張するのは、嘘偽りも甚だしい。米国以外のジョブ型の諸国と日本は、解雇規制があるという点で共通している。
 解雇規制とは解雇禁止ではない。正当な理由のない解雇がダメなのであって、裏返して言えば、正当な理由のある解雇は問題なく有効なのである。その点でも共通である。
 ただ、もしそれだけであれば、8割方ウソでは済まない。99%ウソと言うべきところだろう。実は、解雇については、法律で解雇をどの程度規制しているのかということだけではなく、雇用システムの在り方が大きな影響を及ぼしている。ある側面に着目すれば確かに、ジョブ型ではより容易な解雇がメンバーシップ型ではより困難になるという傾向はあるのだ。
 これは単純化すると大間違いをしかねない点であり、腑分けして議論をしていかねばならない。この腑分けを怠った議論が世間に氾濫しているのが現状だ。
 話が混乱したときは基礎の基礎に立ち返るのが一番である。繰り返しになるが、ジョブ型とは始めにジョブありきで、そこに人をはめ込むものだ。従って、労使いずれの側も、一方的に雇用契約の中身を書き換えることはできない。つまり、従事すべきジョブを変えることはできない。定期的な人事異動が当たり前で、仕事とは会社の命令でいくらでも変わるものだと心得ている日本人が理解していないのが、この点である。
 例えば、借家契約が家屋という具体的な物件についての賃貸借契約であって、「大家といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然」という人間関係を設定する契約ではないように、雇用契約もジョブという客観的に存在する「物件」についての「労働力貸借契約」なのである。具体的なジョブを離れた会社と労働者の人間関係を設定する契約ではないのだ。
 大家が借家を廃止して、その土地を再開発してマンションを建てると言われれば、少なくともその借家契約は終わるのが当たり前である。同様に、会社が事業を再編成して、ジョブを廃止するとなれば、その雇用契約は終わることになる。
 大家には、別の借家に住まわせる義務があるわけではなく、店子の方もそれを要求する権利を持たない。同じように、廃止されるジョブに従事していた人を別のジョブにはめ込む義務が会社にあるわけではないし、労働者もそれを要求する権利を持たない。もちろん、借家の場合でも新しい借家を探す間は元の家に住まわせろとか、その間の家賃は免除しろとか、さまざまな配慮は必要だが、原理原則からすればそういうことである。
 これが正確な意味でのリストラ(再構築)だ。解雇を規制している圧倒的大部分のジョブ型社会において、最も正当な理由のある解雇とみなされるのが、この種の解雇である。日本人にとって理解しがたいのは、日本では最も許しがたい解雇であり、極悪非道の極致とさえ思われているリストラが、最も正当な理由のある解雇であるという点であろう。ここが、ジョブ型の本質を理解できるかどうかの分かれ目である。
 日本ではリストラという言葉が、会社にとって使えない社員をいかに追い出すかという意味で使われる傾向がある。というよりも、雇用契約で職務が限定されていないメンバーシップ型社員にとっては、会社の中に何らかの仕事があれば、そこに配置転換される可能性を有しているのに、それを無視して解雇しようというのは許しがたい悪行だとなるのは必然的な論理的帰結である。言い換えれば、会社が縮小して、労働者の排除が不可避的という状況にならない限り、リストラが正当化されるのは難しいということになる。
 正当な理由のある解雇は良い、正当な理由のない解雇はダメ、というまったく同じ規範の下にありながら、ジョブ型社会とメンバーシップ型社会がリストラに対して対極的な姿を示すのは、こういうメカニズムによるものであって、それを解雇規制の有無で論じるのはまったくミスリーディングということになる。
 もう少し複雑で、慎重な手つきで分析する必要があるのが「能力不足でも解雇」という問題だ。雇用契約でジョブが固定されている以上、そのジョブのスキルが求められる水準に達していなければ、解雇の正当な理由になることは間違いない。
 ここでも基礎の基礎に立ち返って、ジョブ型の採用・就労を弁(わきまえ)えた上で議論をしないといけない。多くの人々は、ジョブ型社会ではあり得ないメンバーシップ型社会の常識を無意識裏に混入させて、能力不足を理由に解雇し放題であるかのように思い込んでいる。
 まずは、上司や先輩がビシビシ鍛えていくことを前提に、スキルのない若者を新卒で一括採用する日本の常識を捨てなければならない。メンバーシップ型社会における「能力不足」とは、いかなる意味でも特定のジョブのスキルが足りないという意味ではない。上司や先輩が鍛えても能力が上がらない、あるいはやる気がないといった、まさに能力考課、情意考課で低く評価されるような意味での、極めて特殊な、日本以外では到底通じないような「能力不足」である。
 そういう「能力不足」に対しては、日本の裁判所は、丁寧に教育訓練を施し、能力を開花させ、発揮できるようにしろと要求している。しかしそれは、メンバーシップ型自体の中にすでに含まれている規範なのだ。それゆえに、正当な理由のない解雇はダメという普遍的な規範が、メンバーシップ型の下でそのように解釈されざるを得ないのである。
 ジョブ型社会においては、ジョブという枠に、ジョブを遂行する能力がある人間をはめ込むのだから、「能力不足」か否かが問題になるのは採用後の一定期間に限られる。ジョブインタビューでは「できます」と言っていたのに、実際に採用して仕事をさせてみたら全然できないじゃないか、というような場合だ。
 そういうとき、さっさと解雇できるようにするために試用期間という制度がある。逆に、試用期間を超えて長年そのジョブをやらせ、5年も10年もたってから「能力不足」だ、などと言いがかりを付けても認められる可能性はほとんどないと考えられる。
 こういう話をすると「いやいや、5年も10年も経てば、もっと上の難しい仕事をしているはずだから、その仕事に『能力不足』ということはありうるんじゃないか」と言う人もいるだろう。そのこと自体が、メンバーシップ型の常識にどっぷり浸かって、ジョブ型を理解していないということである。
 5年後、10年後に、採用されたジョブとは別のジョブに就いているとしたら、それは社内外の人材を求めるジョブの公募に応募して採用されたからである。ジョブ型社会においては、社外から社内のジョブに採用されるのも、社内から社内の別のジョブに採用されるのも、本質的には同じことだ。今までのジョブをこなせていた人が、新たなジョブでは「能力不足」と判断されることは十分あり得る。その場合、解雇の正当性があるとはいえ、低いジョブに戻ってもらうのが一般的だろう。
 ジョブ単位で考えれば一種の「解雇プラス再雇用」と言えなくもない。ジョブごとに価格が設定されているのだから、日本流にいえば降格賃下げということになるが、それが不当だなどという発想は出るはずもない。
 以上が、解雇規制という規範は同じだが、雇用システムの違いによって解雇しやすさ、されやすさに差が出てくるという話だ。それでも、メンバーシップ型との比較において、ジョブ型の方が解雇されやすくなるというのは正しいのではないか、という意見が出てくるかもしれない。それは半分正しいが、残りの半分は正しくない。
 なぜなら、日本のメンバーシップ型社会では、ジョブ型社会におけるジョブと同じくらい重要な地位をメンバーシップが占めており、会社の一員としての忠誠心を揺るがすような行為に対しては、ジョブ型社会では信じられないくらい厳格な判断が下されるのである。
 解雇規制のあるジョブ型社会の人々に、日本の解雇に関する判例を説明すれば、「リストラ」に対する異常なまでの厳格さと並んで、企業への忠誠心に疑問を抱かせる行為をした労働者に対する懲戒解雇への極めて寛容な態度に驚くだろう。
 何しろ日本の最高裁は、残業命令を拒否し始末書の提出も拒んだ労働者の懲戒解雇も、高齢の母と保育士の妻と2歳児を抱えた男性労働者に神戸から名古屋への遠距離配転を命じ、拒否したことを理由とする懲戒解雇も、有効と認めている。日本とヨーロッパ諸国のどちらが解雇規制が厳しいか緩いかは、そう単純に答えが出る話ではないのである。
 最後に、最近の浮ついたジョブ型論が共通に示している、ある傾向を指摘しておきたい。それは、ジョブ型とメンバーシップ型は現実に存在する雇用システムを分類する学術的概念であり、良し悪しの価値判断とは独立しているにもかかわらず、あたかも「これからのあるべき姿」を売り込むための商売ネタとでも心得ているかのような態度である。
 日本人は「これが新しいんだ」と言われると、称賛されているように受け取る傾向が強いが、そういう意味で言えばジョブ型は全然新しくない。むしろ産業革命以来、先進産業社会における企業組織の基本構造は一貫してジョブ型であったので、戦後日本で拡大したメンバーシップ型の方がずっと新しい。
 1970年代後半から90年代前半までの約20年間、日本独特のメンバーシップ型の雇用システムが、日本経済の競争力の源泉だとして持て囃された。ほんの四半世紀前のことである。21世紀になり、日本経済の競争力がつるべ落としのように落ちていく中で、かつて日本型システムを礼賛していた多くの評論家諸氏が手のひらを返したかのごとく、日本型システムを批判し始めたのも、ついこの間のことである。
 今からちょうど35年前の1985年、日本型システムへの礼賛の声が世界中に広がっていた頃、雇用職業総合研究所がマイクロエレクトロニクス(微細電子工学、ME)と労働に関する国際シンポジウムを開催した。その場で当時、同研究所の所長であった氏原正治郎はこう述べた。
 「一般に技術と人間労働の組み合わせについては大別して2つの考え方があり、1つは職務をリジッドに細分化し、それぞれの専門の労働者を割り当てる考え方であり、今一つは幅広い教育訓練、配置転換、応援などのOJTによって、できる限り多くの職務を遂行しうる労働者を養成し、実際の職務範囲を拡大していく考え方である。ME化の下では、後者の選択の方が必要であると同時に望ましい」
 テクノロジーと労働について述べた第1センテンスは、今日でも一言一句そのまま用いることができる、雇用システムについての的確な描写である。ところが、情報通信技術(IT)や人工知能(AI)が産業に影響を及ぼすようになった今、第2センテンスついては逆の議論が圧倒的になっている。いわく「IT化の下では、あるいはAI化の下では、前者の選択の方が必要であると同時に望ましい」と。
 MEも、ITも、AIも発展段階が進んでいるだけで、先端技術を産業に応用するという意味では変わらない。それが35年前と今日とで、きれいに正反対の議論の根拠として使われることに皮肉を感じないとすれば、その鈍感さは度しがたいものがある。」
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