🌅23〉─1─少子高齢化社会とは、「生」の足し算の成長社会ではなく「死」の引き算の脱成長社会である。~No.94No95No.96 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年5月号 新潮45「反・幸福論   佐伯啓思
 第74回 徳とは中庸である
 人間に知りうること、なしうることなど限られている。人はその制約のなかで生きるほかないのである。
 中庸の難しさ
 ……
 ここで私が試みたあったのは、ただひとつ、『人間』というものを中心にすえて、今日の経済および経済学の在り方を問うということであった。前に、私は、『人間とは自分は何者かと問うような存在である』と述べたが、それをもう一歩進めて、次のように考えてみたい。さしあたり、三つの次元で『人間とは』と考えてみたい。
 (1)人間とは、意識して社会をつくる存在である。つまり、他社との相互関係のなかで生きる『社会的存在』である。このことは、社会性のあり方としてふたつの方向をもつだろう。ひとつは、遠心力と呼んでよいような外延的な拡張の方向であり、社会性の範囲すなわち相互作用を外へ拡大する方向である。今日のグローバリズムや情報・通信にかかわるイノベーションはまさにその例であろう。もうひとつは、その逆に、求心力といってよいような内向的に凝縮する方向である。ここでは社会性の範囲は狭まるだろうが、その内的な密度は高くなるだろう。家族的な関係やごく親しい人との親密圏、小規模な共同体などは、内向的凝縮の方向である。
 (2)人間とは、生死を強く意識する存在である。要するに『死すべき存在』である。『死』があるから『生』を意識する。宗教や聖なるものを持ち出して死を意味づけ、死を前提にして生の意味を問うのである。しかしまた同時に『生』の中にあるわれわれは、できるだけ『死』を遠ざけようとする。
 そこでこの場合、生と死に関して、やはりふたつの方向があるだろう。ひとつは、もっぱら生へと関心を集中し、生の延長と充足を求める。つまり生を拡大する方向である。たとえば今日の生命科学遺伝子治療、健康科学から経済成長主義は、死を遠ざけ、生を求心力の方向で思考する。
 しかし他方で、われわれは死を意識したときには、生のむなしさやはかなさの意識に囚われる。死を当然のものとして受け入れることは、生をできるだけ極小化することにある。外的にはできるだけ質素で簡素な生を求めるだろう。その代わり、生の意義は内面に凝縮されるであろう。ここでも、生の遠心的拡張の方向と、生の求心力の方向があるだろう。
 (3)人間とは、常に自己を超越しようとすると同時にその限界を知る存在である。われわれは、不断に、われわれが今ここにおかれた現実から超出し、それを外から眺めようとする。この現実の外にアルキメデスの点を求めるのである。
 現実の外にたって現実を見る超越的な原理をわれわれは理性と呼んだり、精神と呼んだりする。そこに、科学が生まれ、技術の高度化が始まる。その遠心力の作用、つまり外延的拡張の上に、人は、科学と技術の無限の発展、理性の全面的な開化を夢想してきたし、理性は無限の進歩をもたらし経済は無限の富をもたらすという、ユートピア的な楽観的意識も生まれてくるだろう。
 しかしまた同時に、われわれはその限界をも知る存在である。カントが述べたように、われわれは理性によって理性の限界を知ることができる。いくら自己を超越し、現実を超出しようと試みても、人間は、本質的に、ある環境の内にあってその制約に服して生きるほかない。われわれは、決して、この歴史的世界と所与の自然や風土的条件の外にでることはできないのであろう。
 とすれば、人間に知りうること、なしうることなど限られている、という諦念が生じるだろう。人はその制約のなかで生きるほかない。ここにひとつの運命観のようなものも出現しうる。われわれは常にある限界のなかで『分』を知り、その『分限』のうちで善きものを求めるほかない。『節度』をわきまえなければならないと考える。
 
 人間とは常に二重性を併せ持ち、この二重性の狭間を揺れ動き、この両極をもった存在だと考えておきたい。どちらへ振れるとしても、そのとき、人はきわめて不安定な状態におかれ、おそらくは精神の平衡を失うのであろう。
 アリストテレスは、徳とは中庸である、といった。バランスをとることだというのである。しかし、中庸ほど難しいものはない。ためしに一本の棒を手にしていただきたい。それをバランスさせることは実はたいへんに難しい。なぜなら、バランスさせる点はただひとつしかないからである。それに対してバランスを崩す点はほとんど無限といってよいほどある。無限に広がるなかから一点を見つけることは至難の業である。われわれの精神についても同じことがいえて、精神のバランスを保つことは実はたいへんに難しい。そのためにはそれなりの経験と思慮と慎重さと同時に勇気が必要であろう。だから、アリストテレスは、中庸こそが最大の徳であるとして、それを実現する具体的な徳として、思慮、節度、勇気、それに正義の感覚などを取り上げたのだった。
 本当に知りたいこと
 ところが、近代社会とは、このすべての次元で、もっぱら『外延的拡張』の追求をよしとし、遠心力の過剰なまでの作動を求めるような社会である。人間が理性の力を全開し、社会性の空間を最大限に拡大し、科学・技術によって経済成長をもたらし、生命を可能な限り引き延ばし、死を遠ざけ、自然の制約を克服するような試みこそが『近代のプロジェクト』であった。それは、ひたすら『より遠くへ』『より自由に』『より高く』を求める運動である。いわば絶対的なものの領分、すなわち『神』の領分に近づこうという試みである。人間が、『神』へと近づき、己を縛っているくびきから自由になることこそが人間に降伏を約束するというのである。
 だが、もちろん人間は『神』ではない。絶対的な領域へ入ることはありえない。われわれは、常に相対的な世界、可謬(かびゅう)的な世界、不完全な世界に住んでいる。ところが、この相対的な世界にありながらも絶対的なものを目指したとき、われわれは『人間的なもの』からまします遠ざかるであろう。完全な社会も、完全な幸福も、絶対の正義も、この相対的な世界にはありえない。
 にもかかわず、西洋の近代社会がもたらした外延的拡張の信仰は、この相対的な不完全な世界のなかに、完全なもの、絶対的なものを実現しようとした。ある正義が絶対化され、ある理念が絶対化される。ユートピアさえ実現しようとする。そのとき、『人間的なもの』からすれば、われわれは一方の極へと傾きバランスを崩してゆくだろう。可謬的で不完全な人間がその生をかろうじて維持するには、この両極の間のどこかに平衡を求め、バランスをとるための棒を必要としている。にもかかわず、この外延的拡張が続けば、われわれは徐々に精神の平衡を失調しかねないであろう。こうしたことは十分に予想できるのではないだろうか。
 ではバランスを回復することはできるだろうか。ありうるとすれば、そのひとつは、一方で遠心力が強く作用するなら、他方で求心力を意識的に高める、ということであろう。両方の極端でバランスをとる、という方向だ。『両極平衡の原理』とでもいっておきたい。
 近代社会がいずれ、遠心力を最大限に発揮させるものであれば、グローバリズムや科学技術の高度な先端化を使った経済成長追求を逆転させることは難しい。それは近代社会の必然であり、外延的な拡張の論理は永遠に続くであろう。
 とすれば、それに対するカウンターバランスは求心的な方向で、家庭や地域コミュニティや親密圏を確保し、その密度を高め、最先端の科学的知識よりも日常的・経験的なアナログ的な知識や技術を愛用するという内向的凝縮へ向かうことであろう。
 ……
 私は、必ずしも『ミニマリスト』なるものにシンパシーを感じるわけではないが、自然体の生が、『足るだけのモノ』による生き方に落ち着くとすれば、そこには、『分』や『分限』を美徳とする観念は今日でも決して消えうせたわけではないと思いたくなる。
 ……
 外延的拡張とは、いわばで『足し算の原理』ある。付け加えると、数を大きくしてゆくこと、増やしてゆくことだけが評価される。ここにあるのは自我の拡張の論理である。自我の拡張の延長上にモノの所有がでてくる。その延長上に欲望の増大と充足、所有の拡張を求めることになる。この原理の行く先は、必要だから所有するのではなく、また欲求するから所有するのでもなく、ただただ所有したいがために所有するという一種の自己撞着的な自動運動であろう。所有することそれ自体、獲得することそれ自体が欲望されるだろう。
 これに対して内向的凝縮は『引き算の原理』といってよい。無駄なもの、過剰なものをできるだけ取り去ってゆく『しない生き方』である。『死』というものから『生』を逆算する、つまり『引き算』をすれば、『死』に向けてできるだけ不要なものを捨て去ってゆくことこそがよき『生』になろう。特に日本文化のなかに生きるわれわれは、伝統的に、余計なものを捨て去り、『死』の側から『生』をみるという『引き算の原理』にこそ『美』を見てきたのではなかっただろうか。
 『引き算の原理』
 もちろん、『引き算の原理』は成長主義やグローバリズムとは対立する。『引き算の原理』を価値の基軸にすえて、グローバルな世界で利益を稼ぎ、資本主義の成長を促進するなどということはありえない。しかし、『引き算の原理』が必要な『場』はある。われわれの日常的な生活の世界や親密な人々とのつながりの場では、『足し算の原理』ではうまくいかない。狭い世界で人々が『足し算の原理』で生きようとすると、たちまち摩擦を起こすだろう。こういう狭い人間的な世界では、自我の拡張、欲望の充足と所有の拡大よりも、『私』から無駄なもの、余計なものを取り去って、『無私』や『滅私』とはいわないまでも『脱私』や『去私』程度には自我を捨て去り、信頼できる親密さに貢献する『引き算の原理』の方にはるかに意味があろう。
 一方の極には自我と欲望の無限拡張があるが、他方の極には、自我の抑制による、信頼できる他者や集団のための自己犠牲や献身の精神がある。『足し算の原理』からすれば、生は可能な限り充足されるべきもので、可能な限り延長されるべきものだ。したがって、今日の経済成長や技術革新の時代には、老人よりも若者が社会の主役になるのは当然である。経済活動の主役は、新たな技術を生みだし、新たなファッションや流行を作り出し、SNSとほとんど一体化し、この高度情報・消費社会の中心に居座る若者ということになろう。 ところが、この経済成長とグローバリズムの社会は、実際には高齢者の社会なのである。高齢化率は、日本の場合、2015年で26.7%になっている。10年後には30%を超えるとされている。何とも皮肉な話である。いくら人口の3分の1が高齢者であるからこれからは老人が主役だなどとおだててみても、そもそも『老人』というカテゴリーは、成長主義の経済からすれば意味のない存在なのである。財政上のお荷物以外の何ものでもない。高齢化社会とは、壮大な規模で人間の『無駄』を産出している社会ということになる。かくて、高齢化社会という現実と、その現実を認識する観念がうまく適合していないのだ。
 しかし、『生』ではなく『死』を基準にとり、経済成長ではなく脱成長を前提にすれば事情は変わってくる。『生』を基準にすれば、老人の『生』は『死』からの引き算であり残余でしかない。生産性や効率性や成長を基準にとれば『無駄』な時間でしかない。70歳を超した人に『人間、成長しなければダメだ』などと説経してもはじまらないだろう。すでに脱成長しているのだ。『生』を『死』からの引き算と考える者にとっては、経済成長やグローバリズムにはほとんど何の重要な意味も見いだせなくなるであろう。
 もしも『死』を基準にとれば、『生』は『死』へ向かう途上に過ぎないことになり、常に不完全なものである。『死』がゴールだと考えれば、『生』は『死』へ向かって日々損耗し、減退してゆく途中経過に過ぎないだろう。『死』というゼロへ向けて、『生』はそのエネルギーを失ってゆくのである。
 では、『死』を基準にしたとき、日々その『生』が衰退する『老人』に、それに代わる意味はあるだろうか。ありうるとすれば、それは『経験』と『知恵』である。『年を重ねる』ことは、多少は経験を積み、物事を即席の功利主義や損得のみから見るのではなく、少しは長期的な展望において見、損得では測れない何ものかを指し示すことができるということであろう。有用性を誇るのではなく『無駄』な存在であるからこそ見えてくるものもある。老人は『情報』やそれを体系化した『知識』ではなく、経験からえた『知恵』をもっているであろう。情報としてえた知識や専門的な知識を蓄えるのではなく、いわば『経験知』をもった存在なのである。それによって、ただ『生』の拡張を図るのではなく、『善き生』を指し示すことができるかもしれない。もちろん現実にはなかなか難しい。だが、本来は、その『はず』なのである。生物学的に細胞が衰え、経済的に生産能力が衰え、財政学的にお荷物になる老齢者が『お年寄り』として社会学的な存在意味をもつとすれば、彼がかろうじて『知恵』と『経験知』を有するからであろう。
 近代社会は、この種の『経験知』や『知恵』をあまりに軽視してきた。いまこの瞬間に実用化せず、生産性に寄与しない知識、しかも市場で売買の対象にならない知識はただただ『無為』な知識なのである。したがって、実用主義功利主義にへつらった種類の近代社会が200年にもわたってのさばってくれば、この種の『経験知』も『知恵』も社会のなかで自己の領分を発揮することは難しくなる。その結果、そういう形で人を成熟させることも難しくなった。『情報』にうつつをぬかしている間に『知恵』からはどんどんと離れてしまう。高齢化社会には、自分自身さえも持てあましている『老人』はいくらでもいるが、経験を積んだ『お年寄り』はほとんどいなくなってしまった。
 かくて、『情報』に敏感な『若さ』に焦点を合わせる経済成長主義やイノベーショニズムは、人をしてうまく『年を重ねる』ことをたいへんに困難にしてしまったのである。近代社会にあって人が成熟することは難しい。ところが老人の『知恵』とは、このような成熟を求めるものであり、そのゆえに、それは『無為』の知でありながらも、その『無為』であることをこそ静かに誇るものなのである。確かに、今日、『無為』なものがその存在価値を訴えるのは難しい。
 だが、それにもかかわず、『無為』であることこそが求められる生の領域もある。先ほどから述べている『引き算の原理』が有効な世界である。それは、決してSNSやイノベーションや経済成長の世界ではなく、市場原理や損得や利潤原理、つまり『自我の拡張』を持ち込むべきではない世界である。日常的な生の世界、親密な人との交わりや、多様な集団であり、教育の場でる。社交の場といってもよいし、多種の社会的共同体がそれである。また、そのなかに私がひとりで没入できるような場所と時間も含めてよい。われわれの日常のなかでの、親しい人との信頼をもったつきあいの時間や、1人で没入する時間こそは『無為』なのだ。社会性においては、むしろ『無為』であることこそが信頼性を担保するのである。
 未知の領域
 こうして、『人間的なものの復興』が遠心力の方向と求心力の方向とのバランスにあるとすれば、それは、遠心力の方向へと傾く近代社会に対して、意図的に求心力を働かせることである。それは、グローバリズムや経済成長主義に対して、家族や親密圏や地域のコミュニティにおける信頼度の高い人間関係を可能とする場の形成であり、成長主義からの脱却であり、効率性に対して、意図して『無駄』や『無為』の活動を対置することだ。
 それはまた、『生』を充実させ延長させようという『足し算の原理』に対して、『死』を正面におき、『引き算の原理』によって『生』を組み立てることでもある。おれは、いかに長く生きるかではなく、いかにうまく死ぬか、を模索することである。『善き生』とは実は『善き死』でもあるのだ。私には、今日の医学や医療に求められているものは、延命治療ではなく、それを希望するものに対する安楽死尊厳死の方にあることは疑いえないと思われる。
 また、それは未知の領域へとわれわれをいざなう科学技術による社会変革に未来を託するよりも、われわれの生の条件になっている、自然や環境、風土や伝統的な価値を改めて確認することであろう。目に見えない不確定な世界へリスクを負って出航するという冒険的精神が人間のものであることは事実であるが、近代社会は、あまりにそちらに傾斜しすぎた。いや、より正確にいえば、真に野蛮な冒険的精神など失ってしまった近代人は、野蛮に対するある種の郷愁のゆえに、恐る恐る冒険的精神をあおっているのである。
 その結果、未知の未来の可能性が過度に宣伝されてきた。その宣伝の結果、われわれは自らがいまここで立っているこの大地とそこにある自然や伝統からは目を背けるようになってしまった。
 もともとが『神』との確執から始まった西洋近代社会は、どこまでいっても『神』への接近を放棄できない。絶対的なもの、全能のもの、完全なものは、相対的なもの、限界をもったもの、不完全なものよりも上位にある。それだけではなく、前者が後者を支配することができる、という。いいかえれば、ここには『力』の原理がある。そこで、人は『力』を求めて、より高いもの、より絶対的なもの、より完全なものを欲望するほかない。こういう思想が近代を無限の進歩と発展に駆り立てた。
 そして、それは、ますます人間にとっては、残酷な要求となりつつある。力の原理は、勝つものの背後に多数の敗者を見捨ててゆくものだからである。それから逃げられるには、人間には、それなりの分限があることを自覚する以外にないであろう。それはまた、人間は、相対的な存在で、不完全で、可謬的な存在である、というしごく当然の事実を承認することであり、それゆえ、自然や風土や歴史的なものからの贈与と援助がなければうまくやってゆけないことを確認することであろう。
 こうして、この遠心力の極大化の時代にあって、意図的に求心力を支えることがバランスをとるひとつのやり方といって間違いない。私は、決して、グローバリズムイノベーションも否定するものではない。いや、否定などしようもない。繰り返すが、近代社会は、すでに『拡張の原理』によって離岸し、出帆してしまっているのだ。だがそうであれば、それを抑制する逆向きのベクトルもまた必要になる。それが『両極平衡の原理』なのである。そして、幸か不幸か、われわれの日常生活の多くの局面は、決して『拡張の原理』では成り立っていないし、それではうまくいかないのである。その世界にまで、遠心力を持ち込むわけにはいかないのだ。
 結局、私が主張したいことはきわめて単純で、あまりに常識的なことである。ただただ『常識に帰ろう』『ふつうにやろう』ということであった。しかし、この『ふつう』を実行するために、結構エネルギーを費やされなければならないのである。それほど、今日の社会は『ふつう』ではなくなっている。
 新自由主義グローバリズムがもたらした激しい経済競争は、一部のものには大きな利益をもたらしたが、『ふつうの人』の生活や将来展望を明るいものにしているといえばそうではない。インターネットやSNSは過剰なまでの情報と簡便な『つながり』によって、一見、われわれの合理性を高め便利になったようにみえるが、実際には人間の思考能力を著しく低下させている。新たな産業を創出するイノベーション競争もそれにかかわる人々を異常なまでの競争と神経戦においてゆく。政治も社会もゆとりを失い、いわば衝動によって動かされている。こうしたなかで、親密で大事な人間関係や多少は落ちついた生活空間を確保して、精神の健全性と安定をたもって生きることがそうとうに難しくなっている。これこそが『ふつう』の生き方であるにもかかわらず、だ。
 しかしまた、それはいいかえれば、この『常識的な生』を守ろうとするそれなりの意識をもち、日常的な空間のなかである健全性を保つ努力をしてゆけば、社会は少しずつ変わるかもしれない。ということでもあろう。われわれは、あまりに、成長主義や、グローバリズムや、イノベーションといった『観念』に取り込まれ、支配されているよにみえるのである。
 最後にもう一度、繰り返しておくが、ここで私が意図したことは、あくまで『脱成長主義』という『考え方』を提起することであった。だから、『では脱成長はどうやって可能なのか』と問われてもしょうがないのである。
 それに対しては、別に具体的な提案があるわけではない。しかし、『具体案がければ、脱成長など無意味だ』といわれるとそれは心外である。私が、ここで論じてきたこととは、せんじ詰めれば、まさにこの種の『考え方』を批判することだったからである。
 それは、第一に、『具体的な成果に結びつかないものはすべて無意味である』という性急な技術主義、成果主義への批判であり、第二に、『成果を目指すのは当然である』という成功至上主義への批判だったからである。
 この二つの典型的な近代主義こそ、今後、ますますわれわれを窮屈な世界へと押し込めてゆくだろう、と危惧するのだ。それこそが、私が『脱成長主義』を考えてみたい動機であった。問題としたいのは、技術主義、成果主義、成長主義といったものを絶対的な価値観として受け入れて疑わない近代社会の『考え方』なのである。それらを当然のものとして譲らない傲慢なのである。このすべてが過剰な時代に生きるわれわれは、自ら意識はせずとも、いつのまにか、この傲慢の罠におち、そのうちに、われわれは、急進的なまでの科学技術と経済成長によって、とりかえしのつかない不幸や不安に陥っている、ということになるのではなかろうか。そうなる前に、われわれは世界観を転換させる必要に迫られているのだと思う」
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 生活圏・居住圏を無限に求められる大陸では、開放的で、外延的拡張、外向的遠心力が強い。
 生活圏・居住圏が限定された島国では、閉鎖的で、内向的凝縮、内向的求心力が強い。
 大陸には、変更可能な人為な国境が存在する。
 島国には、変更不可能な自然の海岸が存在する。
 「地球・大地には国境はない」という発想は、大陸の考えで、島国の考ではない。
 島国から見れば、「国境は存在する」のである。
 何故なら、人は陸地があれば自由に歩いて移動できるが、人は海の上を歩けないし泳ぐにも限界があるからである。
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 海を渡るには、船を使うしかない。
 船を操船するには、船内の安全を守る必要がある。
 船内の安全を守るには、信頼と信用が必要で、その為にはお互いがわきまえるという「場の空気圧」が不可欠である。
 お互いがわきまえるという「場の空気圧」が希薄になると信頼や信用が保てなくなり、船は航行不能に陥り、混乱の内に沈没し、乗組員全員が溺れ死ぬ。
 舟板一枚下は地獄。
 海原で、船から降りる事はできない。
 船に積んだ限られた食糧と水飲みが命綱。
 船の規模に合わせて乗り合わせた限られた、多くもなく少なくもない乗組員のみが頼りで、海原で急遽人手が足りなくなったからと言って必要な乗組員を雇う事はできない。
 安全に航行をする為には、必要な船具と緊急時の備え以外の無駄な家具は捨て、重心を狂わす程の荷物を積まず、衛生面と快適感を考えて清潔に保つ事である。
 全ての船乗り・船員は、銘々に何らかの仕事を持ち、いざとなれば補充要員として違う仕事をこなさねばならない。
 自分の専門だけをして後か関係ないとする者は、有害なだけであった。
 遊んでいる者、怠ける者は、水や食糧の無駄になるから必要がない。
 病気や怪我をした者は、働く者邪魔にならないようにしながら、自分が今できる事をしなければならない。
 できる事をする、それが船乗りの掟である。
 船が遭難せず目的地に着く為には、船内の「和」が大事であった。
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 「場の空気圧」とは、左に偏重して狂い狂気を剥き出しにせず、右に固執して呆けて分別を失わず、中庸で物事の拘りを捨て静謐を保ち心を穏やかにする事である。
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 船乗りは、全員がアリで、キリギリス(セミ)はいない。
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 大陸には、「場の空気圧」などは存在しないし、必要としない。
 大陸で必要なのは、ヤマアラシの原則である。
 ヤマアラシの原則とは、離れすぎると寒いし外敵に襲われる危険性があるが、近づきすぎるとお互いの針の様な剛毛が刺さってケガをする、と言う事である。
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 大陸は島国は分からないし理解できないが、島国は大陸が分かるし理解できる。
 何故なら、島国は大陸から別れたのだから。
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 日本の歴史も世界の歴史と同様に、同じ人間でありながら、権力者や支配者による理不尽な搾取はあったし、身分や階級に伴う格差や差別はあった。
 が、江戸時代の庶民には、そうした社会の不条理に対する疑問も怒りもないどころか、大陸の人間であれば当然持っているはずの劣等感や被害者意識さえなかった。
 日本社会の安定は、社会の不条理に対する疑問、権力者や支配者による理不尽な怒り、身分や階級に伴い格差や差別に対する劣等感や被害者意識の欠如で保たれていた。
 キリスト教共産主義が日本に根付かなかったのは、庶民の劣等感や被害者意識の欠如が原因であった。
 劣等感や被害者意識がなければ、キリスト教絶対神による救済を必要としなかったし、共産主義による人民の権利獲得という暴力革命も必要とはしなかった。
 庶民の間で劣等感や被害者意識がない為に、中国や朝鮮のようないじけた歪な暗さ、陰湿・陰険さが社会には少なかった。
 日本を基層に存在するのは、キリスト教の様な人為的普遍宗教ではなく、マルクス主義のような作為的思想・哲学・主義でもなく、日本神道・日本仏教・日本儒教などの民族的ローカル自然観である。
 それは、「我思う、故に我あり(コギト エルゴ スム)」の欠如である。
 劣等感や被害者意識がないところでは、緩やかに小規模な改良・改善・改造が起きても、急激に大規模な変革・革命・クーデターは起きない。
 ゆえに、日本社会は安定していた。
 庶民が劣等感や被害者意識を持たなかった原因は、日本社会全体が貧しく、富を蓄えた金持ち・富裕層が少なかったかである。
 江戸時代。開幕と中期と幕末とでは、絶えざる改良・改善・改造・改革などが繰り返されて全く異なっていた。
 その変わり様は、百年一日と変わる事が少なかった中国の歴代中華帝国や朝鮮の諸王国とは異なっていた。
 江戸時代は多様性が濃かった為に、幕藩体制による武士・封建君主の支配であったと一言で括る事はできない。
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 宇宙空間には、銀河内・銀河間・天体に重力を及ぼして引き付けている宇宙引力源のダークマター暗黒物質)と宇宙の膨張を加速させ銀河・天体を引き離そうとする宇宙斥力(せきりょく)源のダークエネルギー(暗黒エネルギー)が存在する。
 ダークマターは目に見えない為に正体が分からず、ダークエネルギーは正体不明ではあるが、たしかにそこに存在している。
 宇宙引力源のダークマターが強ければ、拡大している宇宙はある限界に達したら収縮し、原初のビックバンの一点に戻る。
 宇宙斥力源のダークエネルギーが強ければ、宇宙は拡大し続け、銀河さえ崩壊し、天体間は光も届かない距離に引き離されて、光のない暗黒で無音もない空間となる。



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