⛲46〉─2─覚悟なく「子供の為」と軽く発言して恥じない大人の卑猥さ。「道徳教育」への疑問。~No.263No.264No.265 @ ㉔ 

教育勅語と道徳教育 ―なぜ、今なのか―

教育勅語と道徳教育 ―なぜ、今なのか―

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年8月30日 朝日新聞「『子どものため』って?
 『子どものため』って大人はよく言うけれど、本当だろうか。有無を言わせずに子どもを方向づけ、小学校でも道徳を教科にして大人が評価するようになる。それってほとんとうに子どもため?
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 大人社会がまず変わって  春日武彦
 『子どものために』という言葉を聞いて、素直に『そうですね』と、他人の子どもについても自分の子どものように思える大人がいまどのくらいいるでしょうか。
 昔から『子どもは社会の宝物』といった言い方があります。頭では分かりますよ。この国の存続には子どもがちゃんと育つことが必要だ、と。
 しかし、今の現実世界では、隣の子のことはよく知らないし、公園で下手に声をかけると変質者扱いされる。隣の子とすらリアルな1対1のつながりがないのに、ひとくくりにされた『社会の子ども』に親身になれますか。
 昔は違いました。私の子ども時代、野球をやっていると、知らないおじさんが『俺にも打たせろ』と言いながらバットを持ってやってきた。しつけをしてくれる近所の大人もいました。地域に共同体があり、よその子とのつながりも感じられました。
 なら昔に戻そうという発想は単純に過ぎます。個人情報の保護が優先される現代では、隣近所にも家族のことを知られない方がリスク管理にかなうとされます。子どもが性的な対象になる犯罪が目立ってきた現実もあります。
 そもそも大人同士ですら、近所でリアルなつながりがない。大人の共同体が崩れたなかで、その社会で宝物のように共有できる子どもなんていなくなったのです。にもかかわらず、『子どものために』と言うのは、大人の社会が崩れていることをごまかすようなものです。
 いまや『子どものために』と呼びかけるのは、大人の共同体が存在しているかのように装い、いもしない『共有の子』のために頑張ろうと言い募るようなもので無理があります。
 いっそ『大人のため』と言った方が自然です。大人が住みやすい社会にするために、まずは大人同士で考え、そのうえで子どもとどう付き合うかを考えるのです。
 精神科医として他人の心の闇を見てきた私でも、道であいさつされたら無条件に『世の中まんざらでもない』と思う。人間の心には単純なところがあって、あいさつ一つで違う世界とのつながりを感じられるものです。他人のえたいの知れなさを埋めるために、あいさつのような無難な言葉はある。無難なこともできない社会で大仰な言葉を吐いても仕方がありません。
 地域での礼節を大切にしましょうと言ったら、すごくつまらなく聞こえるかもしれません。『結局、道徳か』と。ただ、学び手になるべきは大人です。大人がお互いのつながりを取り戻さないことには、子どもとのリアルなつながりもとりもどせません。大人同士の壊れた関係を直視し、修復を考える。その方がよほど子どものためにもなります。
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 生き様を見せることこそ  美輪明宏
 私が一番多感だった子ども時代は戦時中でした。長崎の実家はキャバレーのようなカフェや銭湯をやっていて、昼間とは違う大人たちの姿を見て育ったので、かわいげのない、変わった子どもでした。
 普段は立派なみなりの人が意外とだらしない体で、ヨイトマケのおばさんが立派な体だった、官職にある人がお忍びで来て、ホステスにいたずらしてヘラヘラしたり。そんな大人たちが『ねばならない』と押しつけていた軍国教育は、長崎にも原爆投下を招いた末の終戦で全くひっくり返り、美徳とされてきた価値観は悪徳になりました。
 私は、そんな大人たちをみて思ったんです。ひとの人格や立派さは、容姿や年齢や肩書きなんかとは一切、関係ない。目の前にいる人の魂が、ただ清らかであるかどうかだけを見るようにすればいい、と。その思いは、今に至るまで変わっていません。
 子どもは、複雑怪奇な生き物です。特に、分別がつく前の幼児は常にくるくると動き回り、何をするかわからない。でも、幼児だと思っても、大人以上の冷徹な思考で人を観察しています。親や教師の心や動き方も、どこかで見ている。この人はある人が嫌いなんだとか、この人はあらしないとか、ちゃんと勤務評価をつけているんです。だから、そんな大人が『子供のため』と言っても、腹の中でせせら笑う子もいます。
 それなのに、こんな政治で、国が道徳を教科化?笑っちゃいますよ。ヒステリーをおこし、『記憶にございません』と言っていれば大丈夫だと教えるんですか。政治だけではありません。いじめで自殺した子がいるのに、保身に走る教育委員会。金もうけ主義で、暴力やグロテスクな表現ばかりの漫画やゲームや映画。お前のためだと言いながら、自分のミエや人生の尻拭いのために、子どもを塾にがんじがらめにする親。大人がやるべきことって、そういうことなんでしょうか。
 本当に愛情をもって子どもを導くには、まず導く資格があるかどうか、我が身を振り返ることです。特に今は本を読まない大人が多く、言葉遣いもめちゃくちゃ。あいさつや敬語の使い方も子どもに伝わり、人生を左右します。本当に『子どもたちの』と思うなら、まず大人が本を読み、日本語の勉強からし直した方がいいと思います。
 『人のハエを追うより、自分の頭のハエを追え』って言いますでしょ。子どもは、親の背中、大人の一挙手一投足を見て育つ。本当に子どものために必要なのは、どんな教育よりも親の生き方、大人の生き様なんです。その上で、時に突き放して苦労から学ばせる厳しさと、時に身を挺(てい)してでも守り抜くバランスが、子どもへの真の慈悲になるのです」
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 日本社会は「お人好しの性善説」で動いているが、一歩国外に出ると、国際社会は「」油断も隙もない性悪説」で動いている。
 日本は、戦国時代までは「人は信用・信頼できない性悪説」が普通であったが、江戸時代は「人は信用・信頼できる性善説」が普通になった。
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 現代日本は、日本常識の「人は信用できる性善説」から国際常識の「人は信用できない性悪説」に変わりつつある。
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 性善説から性悪説にかわる事は、人類史・世界史・大陸史的には正常な変化である。
 国際社会で生きるには、「性悪説」が正しい事である。
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 大量に外国人移民を受け入れて日本を移民国家にするならば、子供に「人を見たら泥棒と思え」「人さらいと警戒せよ」という「人間不信の性悪説」を教えるべきである。
 何故なら、外国人移民には日本的「お人好しの性善説」は通用しないからである。
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 外国人移民には独自の道徳や行動論理を持っている以上、それを否定する様に日本の道徳や行動論理を強制的押し付ける事は非人道的犯罪である。
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 多数派の日本民族日本人と少数派の外国移民系日本人。
 少数派に配慮するのであれば、多数派は譲歩すべきである。
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 性悪説の悪い日本人を性善説の良い日本人に強制的に換えたのは、徳川家康である。
 その為に、日本は世界から切り離され閉鎖性閉塞性強くなり、世界の発展から取り残されて貧乏臭さや僻み根性が染みついた。
 全ての元凶は、徳川家康である。 



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道徳教育とは何だろうか

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