🧣25〉─1─モンスター生徒。ニッポンの教師は絶望の未来しかない。~No.77No.78No79 ㉑ 

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 「モンスター生徒」それでも守るべき?
今年1月、東京都立高校で起きた生徒への体罰動画がネットで拡散し、物議を醸した。体罰は厳禁とはいえ、繰り返し挑発した生徒の問題行動も浮き彫りとなり、キレた教師への同情も広がったが、学校側は最後まで「教諭に非がある」と生徒をかばった。「モンスター生徒」はそれでも守られるべきなのか。
モンスター生徒への「いびつな懲戒制度」が教師を狂わせる
 『高橋知典』 2019/02/12
 高橋知典(弁護士)
 東京都町田市の都立町田総合高校で、生活指導担当の50代の男性教諭が、高校1年の男子生徒(16)の顔を殴るなどの体罰を加え、暴行の場面を撮影したとみられる動画が会員制交流サイト「ツイッター」で拡散した。生徒が教諭に「ツイッターで炎上させるぞ」「小さい脳みそでよく考えろよ」などの暴言を浴びせた後、教諭が暴行する様子が収められていた。都教委は処分を検討している。
 都教委によると、体罰があったのは今年1月。生徒がピアスをつけて登校したことがきっかけで口論となった際、教諭が生徒の顔を拳で殴り、腕をつかんで引きずるなどの暴行を加えたという。生徒は打撲や口の中を切るけがをした。
 学校側は体罰を受けた生徒と保護者に既に謝罪した。問題の教諭は「生徒の言葉にカッとなって暴力をふるってしまった」と説明しているという。日常的に体罰があったという事実は今のところ確認されておらず、温厚で信頼のある教諭が「なぜ?」と周囲では話題になった。
 教員による懲戒としての体罰は、日本では法律によって完全に禁止されている(学校教育法11条但書)。このため、体罰に至った理由は何であれ、本件の教諭に関して、何らかの処分が下されることになるだろう。一方で、教諭が手を出すまでの生徒とのやりとりを見ていると、教諭は意図的にあおられ、手を出したところを撮影することが目的になっているようにも見える。教諭側への同情の声も聞かれるゆえんである。
 しかし、この事件は、単に学校教員が生徒を体罰した短気な点や、あおった生徒のずるさといった問題以上に、現実に合わない懲戒制度で対応せざるを得ない教員と生徒の力関係の複雑さや歪(いびつ)さを映し出しているように見える。
 禁止されている体罰は、いわゆる直接的な暴力と「被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの」がこれに当たる。例えば、「別室指導のため給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない」指導なども体罰に該当することになる。
 実際に、教員が生徒に体罰を行った場合には、教員として免職処分など厳しい処分が行われることもある。また、刑事処分としても、暴行罪や傷害罪が成立する可能性があり、生徒の所持品などを壊せば器物損壊罪に該当する可能性もある。
 以上のように、体罰を行った教員側には刑事処分を含め、厳しい対応が行われる。
 一方、日本において、生徒に対する懲戒は基本的に、訓告、停学、退学処分である。また、学校によっては「停学ではない」自宅謹慎や、別室授業として保健室のような場所で学校内謹慎を行わせることや、放課後の居残りをさせたり、宿題を厚くしたりすることも懲戒制度としては認められている。ただし、小学校や中学校では、義務教育課程のため、公立私立を問わず教育の機会を奪う停学処分は行うことができず、公立学校では退学処分を行うことができない。
 危険だと言ってモノを取り上げようとするものなら「体罰だ」(厳密には安全確保のための正当行為であって体罰には当たらない)と言われ、保護者からもクレームが入りと、大騒ぎになることがあるのだ。さらには、居残り授業なども、本人がボイコットして帰ってしまえば、事実上強制的に従わせるようなことはできず、親が非協力的であれば、その子は指導を受ける機会を失う。
 今回の事件の舞台は高校のため、暴言や校則違反を理由に、退学処分はともかくとしても停学処分や訓告処分にすることはできた可能性があるが、公立の小中学校では、停学や退学といった強力な処分を持たず、不服を述べる保護者を止める術がない。結果、周りの生徒や保護者や教員に我慢をさせて、卒業まで当該生徒の行動と向き合うこともなく、ただやり過ごすことになる。
 これは、単に「体罰がないからコントロールが効かなくなった」というものではないだろうが、学校が厳しい態度で生徒や保護者に接することが難しいがゆえの影響と言える。
 また、私立の学校や公立の高校では、停学などの懲戒処分ができるといっても、停学処分や退学処分は、結果的に生徒の「学校での学びの機会」を失わせるだけで、実際には生徒の反省の機会に結びつかないということが指摘される。
 例えば、アメリカでは生徒に対する懲戒制度は州ごとに特色があり、州によっては一定の手続きの下に、体罰を行うことができると規定されている。
その制度自体は、ハンドブックで規則とそれに違反した場合の懲戒手段(体罰の有無)を事前に示し、事前に体罰を了承する旨の文書を保護者から得て、校長のみが体罰を行使し、定められたパドル(paddle)と呼ばれる木の板で3~5回打つ。また校長以外に証人が見届け、事後は記録し保護者や教育委員会に報告する、といったような手続きに基づいて体罰を行うことができるとするものである。
 体罰といっても決してヒステリックに生徒を叩くことを認めたものではないが、一方で体罰による教育効果を前提としている。
 懲戒制度について、特に退学処分や停学処分といった懲戒だけでは、結果的に生徒に低い自己評価しか与えられず、生徒が法制度に触れる行為に走る危険性を高めてしまうことが指摘されている。教育の機会を失った生徒たちのドロップアウトが加速し、学校生活のみならず社会生活の障害にもつながりかねない。国という単位でみても損失を招きかねない重大な問題と把握されている。
 その一つの回答として、停学や退学で教育の機会を失わせるよりも、体罰で短時間的に解消することの方が生徒の「教育の機会喪失」を少なく済ませられるという見方をしているようだ。
 また、体罰以外の懲戒制度自体も細かく規定が定められており、例えば懲戒制度の流れも、生徒への注意、保護者面接、課外活動などへの参加禁止、教室から隔離し校内の別の場所で課題を行うこと、一定期間の停学というように、懲戒制度の運用が厳密に規定されている。小さい問題のうちに、厳正に対処することが心がけられているのだ。
 以上のように海外でも学校運営の課題に対し、さまざまな工夫をしながら懲戒制度を定めている。現状の日本では、小中学校で懲戒制度が事実上機能しがたく、かといって高校や私学で実施できる懲戒制度でも、停学処分や退学処分といった懲戒だけでは、生徒に無目的な休みを与え、教育チャンスを失わせるばかりで、発展的な解決につながりづらい。
 これでは、真の意味で教育を必要とする生徒たちほど、そのチャンスを欠いたまま、大人になることになる。
 ただし、体罰自体が持っている生徒への悪影響が科学的に指摘されて久しいことから、体罰を用いた教育が今後、日本の教育で用いられるべきかといえば、私は反対だ。
 私は弁護士として、いじめ問題の改善のために学校に行くことが多いが、いじめっ子たちから「あいつは空気が読めないから叩かれて仕方がない」などと彼らなりの正論をよく聞く。まさに、体罰による教育を子供が、子供なりに、子供に向かって行っているのだ。
 一方で、学校教員が生徒に対し、しっかりと指導できないならば、明確な事前の手続きを踏まえた上での、感情的な攻撃ではない、体罰以外の懲戒制度を持つ必要もあるだろう。そのためには、例えば一定期間社会奉仕活動への従事を義務付けることなど、今よりも広い懲戒制度の在り方も考えられると思う。
 また、懲戒はあくまでも、はっきりとした目的を生徒たちと共有することで成り立つ。そういった意味では、懲戒制度を教育制度の一環にするためには、明確な手続きの設定と最低でも教員が一人一人の生徒と向き合って話せる環境を作る必要がある。特に生徒の特性を理解するために、発達心理学などの専門的知識による分析があるべきだと思う。
 今回の事件は、現在の日本の教育制度、特に懲戒制度の課題にもつながる。「単なる体罰の是非」ではなく、教員と生徒の在り方や、学校が行うことができる懲戒とそれを受けた生徒たちが何を感じるのか。また、こうした事件が起きるまでの間にあったはずの小学校や中学校での教育では、他にもっと何かできなかったのか。具体的に検討されるべきだろう。
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 元都立高教諭手記「ニッポンの教師は絶望の未来しかないのか」
 『高橋勝也』 2019/02/12
 高橋勝也(元都立高教諭、名古屋経済大准教授)
 学校教育法は、決して体罰を認めていない。そして刑法は、暴行を許さない。東京都立町田総合高校で今年1月、50代の男性教師が校則違反を指摘した男子生徒に挑発的な暴言を浴びせられ、殴るなどした暴行問題は、どちらにも該当することであり、絶対に許されるものではない。
 だが、今回のケースは、これからの日本の教育がどうあるべきなのか、国民的議論を積み重ね、社会全体で合意形成を導くべき事案であると強く訴えたい。自分の子供、そして、これから生まれてくる子供たちに直結する大問題であり、誰一人、他人事ではないのである。
 私は、鹿児島県や都立の中学、高校教諭を経て、現在大学で教師の卵である学生の養成に携わっている。子供たちが大好きな学生たちは、希望に満ちあふれ、勉学にいそしんでいる。私の25年間にわたる中学、高校の現場で得た知識と経験を、余すことなく彼らに授けている。子供たちは国家の宝であり、愛(いと)しく、かけがえのない存在であることを、彼らの誰一人も疑ってはいない。しかし、私は子供たちが時に凶器と化すことも教えている。
 私の教師経験は、一般的には信じられないような生活指導事案と向き合うことでもあった。かつて、こんな出来事があった。校則で禁じられた学校に携帯電話を持ち込み、授業中に使用した男子生徒に対し、教師である私は携帯電話を取り上げた。その携帯電話は、翌日、保護者が受け取りに来ないと返却されないルールもあった。
 どうしても、今すぐに友人と連絡を取りたがった男子生徒は、強い口調で返すよう訴えたが、そのルールを侵して、見逃してはならないと判断した。日ごろから問題行動を重ねる男子生徒に、今こそ厳しい指導が必要だと思ったからだ。
 これに対し、男子生徒は「てめえ(私)をブン殴って、手に持っているその携帯、取り返すぞ!」と興奮しながらこう暴言を吐いた。
 町田総合高校で起きた動画を見た私は、そのシーンを瞬時に思い起こした。私も一人の人間である。状況によっては、私も同じことをしてしまったかもしれない。だが、その時は生徒という大観衆の視線がある中、ゆるぎない毅然とした対応が必要だった。
 「もういっぺん、言ってみろ!(男子生徒の反応はなく、下を向いた)もういっぺん、言ってみろ!(まずい言い方だったと感じたのだろう。後ろを向き、逃げようとした)」。最終的には、厳しい指導を素直に受けた男子生徒は心から反省し、「あの時は本気で叱ってくれてありがとうございました」という言葉を添え、笑顔で卒業式を迎えたことを覚えている。
 教師に対してこれほどの暴言を吐く生徒がいるとは想像できない人も多いだろうが、これは作り話ではなく事実だ。他にも走馬灯のように、思い出される。
 電動車イスに興味を抱いた生徒が「それ、面白そうだから貸せ!」と障害者を引きずり降ろして遊び回った揚げ句、その障害者を放置したこともあった。「そんな生徒、ブン殴ってやらないと、まともな人間にできない」と本気で考えたこともある。これらはほんの一例だ。
 どんな非行をしても、教師にとって子供たちはかわいい存在に違いないが、時に恐ろしい存在になり得るのが現実なのだ。
 町田総合高校の教師が暴力を振るったことは許されないが、考え方は私自身と大差はないと感じている。彼は「この子たちを、どのようにして、正しく社会に送り出すか」と考え続けた教師であることに間違いはなく、そうでなければ彼を守ろうとした生徒は一人もいなかったはずだ。
 実際、彼を擁護する生徒たちは少なくなかったと聞いている。彼から温かい愛情のこもった指導を受けたことがあるからだろう。ならば、今回の問題を一人の「暴力教師」として教育委員会が処分し、管理職の教師をマスコミの前で謝罪させるような「お決まりごと」で終わらせてはならない。一個人に責任を押し付けても、問題の根本解決にはつながらない。社会全体で考えていかなければならないのである。
 また、今回の問題は、学校現場の教師たちがどのように捉えるかを早急に分析する必要がある。日ごろから、問題行動を起こす生徒を相手にしない教師は、やはり、自分の判断は間違っていないと感じたかもしれない。
 一方、日常的に悪態をついてくる生徒と堂々と向き合ってきた教師は「明日はわが身」とこれからは見て見ぬふりをしようと決意したかもしれない。多くの現場教師は、誰にも本音を漏らすことができず、悩んでいたり、苦しんでいたりして、中には絶望した教師もいるだろう。
 現に私の後輩教師や教職志望学生の中に絶望した者がいる。社会はこの現実を重視し、「子供たちの将来を心底憂うなら、思い切り向き合ってあげてください」というメッセージを発信していかなければならない。そうしなければ、教師に見放される子供が増えるだけだ。
 こうした荒廃した現実を避けるためなのか、日本全国の教員採用試験の倍率が低下している。これは大きな課題であり、「名前が書ければ、小学校教員採用試験に合格できる時代がくる」と揶揄(やゆ)されているようだ。
 現場教師の質の低下が始まっていることは想像に難くなく、日本の教育の根幹にかかわっていると、社会全体で受け止める必要がある。一教師に責任を押し付けることで解決するのであれば、そうすればいい。私は絶対に日本にとってマイナスであると断言する。
 私は現場の教師として経験を積んだだけに、仮に子供たちが教師を絶望させたとしても、教師は子供たちを心の底から許すことができる存在だと断言できる。「大人だって、間違いを起こす。だから、子供が間違いを起こすなんて当たり前だ」と必ず考えているのである。
 仮に町田総合高校で教師から暴行を受けた生徒が謝罪したとしたら、あの教師は絶対に許すはずであり、「教師である、大人である先生が殴ってしまって、申し訳ない」と生徒以上に心の底からの謝罪が伝わるよう努力するだろう。
 「キレ」やすい教師が増加している理由は、雑務を増やす社会構造かもしれないし、子供を完全な善ととらえる社会の目かもしれない。子供を過保護に育てて、調子に乗らせている保護者はどこにでもいる。学校では生身の人間が触れ合っているため、あらゆる問題が起きている。
 だが、教師が生徒に謝ったり、逆に生徒が教師に謝ったりすることで、さらに深い絆を築き上げている。だからこそ、卒業式では涙がこぼれるのだ。
 子供たちは国家の宝であると前述したが、子供たちを育成する教師たちも国家の宝と扱わなければならない。本気で子供たちのことを考えている教師を社会全体で守っていかなければ、日本の教育は崩壊してしまうだろう。
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