🌅10〉─1─平穏死。日本は欧米に比べて「安楽死後進国」である。~No.55No.56No.57 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 武士は「切腹」する為に生きていた。
 日本には不老不死の思想は馴染まない。
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 安楽死容認ヘと向かう時代の潮流、世界の認識を、恐怖し脅えて拒絶する日本人。
 日本人の多くが、正しい科学的合理的論理的思考から遠ざかって歪んだ情緒に支配されている。
 牛や豚の肉を極上であるとして舌鼓を打って食べるが、目の前で生きた牛や豚を屠殺する事を嫌がる。
 欧米はもちろん大陸に生きる人間の多くが、日本人とは違って、目の前で可愛く手塩に掛けて育てた家畜を屠殺し、解体し、血の滴る肉を焼いて食べる事に抵抗感は少ない。
 欧米など大陸で生活する人間が正常に成長した大人なら、日本人は歪んだ発育不全の子供である。
 戦前までの日本人は、12歳の子供であった。
 戦後の平和教育で飼い慣らされ洗脳された日本人は、12歳よりも更に低年齢化し、劣化して、世界常識を持った一人前の大人としての真っ当な思考ができなくなっている。
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 武士の子は、15歳で元服(例えれば、成人・選挙権を得る)するや「切腹」という自裁の作法を教えられた。
 家督を継ぎ、主君に仕えて役職を得て務めを果たすに当たり、主命が如何に理不尽であり、身に覚えのない告発であっても、上意とあれば抗言する事なく潔く切腹する覚悟を強要された。
 家督を継いだのが10代と幼くとも、容赦なく、情状酌量の余地なく、武士として当主の務めで切腹を強いられた。
 武士の一生とは、目の前に「死」を掲げ、腹を切る「自裁の刀」を身近に置く事であった。
 「死」を片時も忘れない為の精神修行として、心身を鍛える武芸に励み、自分を滅する為に万巻の書を読み座禅を行って瞑想にふけり、自分を忘却する為に茶道・俳句・和歌・絵画・書道・能楽などの諸芸に打ち込み、自分を捨てる為に汗水垂らして過酷な農作業に励んだ。
 武士は、切腹による「自裁」を運命付けられた苛酷な階級であったり、大陸の特権階級・上流階級などの王侯貴族とは違うし騎士や紳士とも異なる。
 武士の目の前には切腹するという「死」が逃れられない定めとして存在し、寝ても覚めても「死」は片時も離れることなく目の前に存在した。
 ゆえに、腹を切って自裁するという「死」を最上の名誉な事であると誉めちぎった。
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 菅野覚明東京大学教授)「武士道の神髄は強さと優しさが表裏一体になっている姿である」
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 2016年7月22日号 週刊ポスト「あなたは本当に100歳まで生きたですか?
 日本人にあえて問う死ぬ『勇気』
 は感じている。でも、それが、『本当に幸せなのか?』と疑問に思っている人は、ぜひこの特集を読んでください。
 死は誰にでも等しく、一度だけ訪れる。それがいつ、どのようなかたちのものになるのかは思い通りにならないというのが〝常識〟だった。しかし、医療の進化などにより、火とは時に、望んだ以上に長く生きられる時代になってしまった。死ぬという〝最大の大仕事〟を前に、私たちは何を知っておくべきなのか。
 第一章 医師、家族を『殺人犯』にしないために
 『ただ生き長らえているだけの状態』を拒否するための
 『延命治療拒否の宣言書』の書き方
 長く生きるほど体の痛みや病気の苦しみとの付き合いが多くなる。終末医療の現場では延命治療によって簡単には逝かせてくれない現実がある。穏やかな最期を迎えるために必要な『死ぬ準備』とは。
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 点滴やチューブにつながれたような状態で長く生き続けたくない──そんなごく自然な願いをかなえられる人は、実に少ない。
 ……
 死にたくても死ねない」
 第二章 スイス、オランダ、ベルギーの場合 
 記者の目の前で老婦は目を瞑った──
 『安楽死合法国』の〝旅立ちの瞬間〟
 この国では、自分で自分の死に方や死ぬ時を選べない。世界ではいま、それが認められはじめている。『安楽死』という方法だ。
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 『用意はできましたか』
 『ええ・・・』
 突如、泣き崩れた老婦を落ち着かせ、ベッドで仰向けにされると、女医は質問を始めた。
 女医『あなたはなぜ、ここへやって来たのですか』
 老婦『昨年、がんが見つかりました。私は、この先、検査と薬漬けの生活を望んでいないからです』
 女医『検査を望まないのは、あなたがこれまで人生を精一杯謳歌してきたからですか』
 老婦『ええ、私の人生は最高でした。望み通りの人生を過ごしてきましたわ。思い通りに生きられなくなったら、その時が私にとっての節目だと考えてきたの』
 女医『私はあなたに点滴の針を入れ、ストッパーのロールを開くことで、何が起こるか分かっていますか』
 老婦『はい、私は死ぬのです』
 女医『心の用意ができたら、いつ開けても構いません』
 この瞬間、老婦は何を思い浮かべたのだろうか。わずかな呼吸と共に、自らの手でロールを開き、そっと目を閉じた。
 これは世界各国の安楽死の現場を取材しているジャーナリストの宮下洋一氏が、目の前で目撃したその瞬間である(『SAPIO』4月号参照)。
 子供がおらず、夫には10年前にガンで先立たれ、自身の体にもガンがみつかった英国人老婦(81)は、老人ホームへの入所を拒否し、スイスの自殺幇助団体の門を叩いた。このやり取りは、ベッドに横たわる老婦と、血管に致死薬を流し込む準備をした女医との間で交わされた臨終間際の会話である。
 点滴の注入が始まると、20秒ほどで意識を失い、眠るように死へ誘われる。
 一部始終を見届けた宮下氏はこう語る。
 『病室で管をたくさんつながれて眠っている人ではなく、さっきまで元気そうに話していた人が、次の瞬間には亡くなっているということに強い衝撃を覚え、彼女をこのまま死なせてしまっていいのか、止めるべきじゃないのかという葛藤がわき起こりました』
 本人の意思である以上、誰にも止められないというのが、スイスでの考え方だ。
 スイスでは1942年から自殺幇助を法的に認めている。外国人にも認められる唯一の国で、英国人老婦がスイスに足を運んだのはそのためだ。
 医療倫理学や死生学が専門の東京大学大学院人文社会系研究所の会田薫子特任准教授は、スイスへの安楽死ツアーの現状をこう語る。
 『チューリッヒ大学の研究者の「自殺ツーリズム」という報告によると、08〜12年までの5年間で、31ヵ国から611人がスイスを訪れ、自殺を幇助されたとされています』
 世界中で広がる容認論
 安楽死には、大きく分けると『積極的安楽死』と『消極的安楽死』の2つがある。不治の病で余命わずかな患者に対し、苦痛から解放するために医師が致死薬を注射するなどして死に至らしめるのが積極的安楽死。ここでは単純に『安楽死』と呼ぶことにする。医師が致死薬を処方し、患者が自分の意思で服用するのは『自殺幇助』だが、これも積極的安楽死に含むことがある。
 一方、同じような患者に対して、治療をしない、あるいは延命措置を停止して、結果的に死に至らしめるのが消極的安楽死で、日本では『尊厳死』と呼んでいる。
 尊厳死の措置は世界的にも一般化していて、日本でも行われるようになったが、安楽死までは法的に認められている国はまだ少ない。
 現在、自殺幇助を含む安楽死を認めている国は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグである。自殺幇助のみ認めているのが、スイスと、アメリカのオレゴン州モンタナ州バーモント州カリフォルニア州の5州だ。
 さらに、この6月にカナダの議会下院で安楽死を認める法案が可決されたので、カナダもこのグループに加わることになる。『法律で認めてはいないもののコロンビアやメキシコでも実態として行われている』(前出・宮下氏)といい、安楽死の容認は世界的に広がりつつある。
 どこの国でも、安楽死を実施する医師が遵守すべき条件は厳しく定められている。たとえば、オランダでは、『患者の自発的で熟慮の上の要請である』『患者に回復の見込みがなく、堪え難い苦痛がある』『独立した立場の医師も含めて2人以上に相談する』など、多くの条件を満たす必要がある。
 それでも、オランダでは15年に5,516人が安楽死を選んだ(うちガン患者は4,000人)。これは同年の全死亡者数の3%程度とされる。
 宮下氏は、認知症を発症したオランダ人男性(79)が、それを理由に自殺幇助を受けて安楽死した例も取材した。
 『いいかい、人間はみんな個人の生き方があるんだ。死ぬ権利だってある。人間の生き方を他人が強要することなんてできないんだ。それだけは理解してくれ』
 男性はそう話し、家族に見守られなかで、致死薬の液体を飲み干して長い眠りについたという。
 しかし、認知症は致命的な疾患ではなく、身体的苦痛もない。それなのに安楽死が認められたのはなぜか。
 『肉体的苦痛ではなく、精神的な苦痛が耐えがたいと本人が感じているということ。自分の親が認知症になって苦労した経験があることが多く、患者自身がその姿を家族に見せたくないという本人の意思が決定的なんです』(前出・宮下氏)
 彼らは徹底して個人主義で、『自分の命のことは自分で決める』という意識が強いのだという。
 14年には、悪性脳腫瘍で余命6ヶ月と診断された米国人女性のブリタニー・メイナードさん(29)が、予告安楽死をしたことが世界中で話題になった。
 彼女はSNSで、『私は死にたくはありません。ですが、私はもうすぐ死にます。だとしたら、自分の思う通りに死にたいのです』と綴った。最後の日には『本日は、私が尊厳をもって死ぬために選んだ日です。世界は美しいところです。さようなら、世界のみなさま』などとSNSに綴ったあと、家族に見守られながら致死薬を飲んで旅立った。
 日本は〝安楽死後進国
 現在の日本では、安楽死は法的に認められていないので、医師が関わると殺人罪や自殺幇助に問われる。尊厳死(消極的安楽死)は行われているが、延命治療の中止が法で認められて認められているけではない。
 日本尊厳死協会副理事長の鈴木裕也医師はこう解説する。
 『尊厳死については07年に厚労省ガイドラインを公表し、救急医療や集中治療の学会などもガイドラインを出して、医療現場の理解は広まっているが、法的根拠がなく、特に、一度開始した延命治療の中止については、やりたがらない医師が多い』
 欧米だけではなく、韓国、台湾でも、尊厳死が法制化されているのに比べて、日本は遅れている。超党派議員連盟が12年に尊厳死法案を作成し、公表したが、市民団体の反対などもあって、国会には一度も提出されていない。
 反対の理由はALS(筋萎縮性側索硬化症)などの難病患者や重度の障害者などに、医療費削減のために、自殺を強要しかねないじゃらだという。
 日本で安楽死が認められる時代はやってくるのか
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 死を直視せず永遠の命に憧れるのは『人間らしない』──
 日本人には『死の義務教育』が必要です。 曽野綾子
 人間が生き物である以上、歳を重ねることは、死に近づくことと同義である。しかし、その真理から目を背け、歳を重ねるにつれて死を恐れ、嫌う人は多い。
 現在84歳の作家・曽野綾子氏は本誌連載エッセイ『昼寝するお化け』をはじめ、数々の作品で『日本人は死を学ぶべきだ』と唱えている。
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 私は中年になってから、臨時教育審議会や教育改革国民会議などの教育関連の審議会に加わる機会がありましたが、そこで私が提案したことは、誰もが必ず迎える『死』についての教育を、義務教育の中に加えることでした。
 その時、誰も関心は示してくれませんでしたけどね。私もいい加減な性格ですから、皆が無関心ならそれも気楽なことだと思って、それ以上強硬には主張しませんでした。
 でも、今でも不思議だとは思っているんです。
 人生にはいろいろ予想外、想定外の出来事が起きますが、人間が死ぬ確率は100%です。運が良ければ災害には一生遭わずに済みますけれど、死だけは避けられないのです。それを考えたり、学んだりするのは当然のことだと思うんですね。地震津波避難訓練はしたほうがいいと思いますが、地震津波に一生遭わないと思う人は、避難訓練をしなくてもいいんでしょう。もちろん、万一そうなった時に避難訓練をしなかったことを悔やんではいけませんけどね。でも、必ず体験する死については、それを迎える訓練が必要だと思います。
 死を考えるのは怖いとか、正視したくないのかもしれません。しかし人生では、恐怖や嫌悪の対象こそ、正視すべきものなんです。
 私は幼稚園からカトリックの学校で育ちましたから、子供の時からお祈りの中で『臨終の時も祈りたまえ』と、死ぬ時のことを考えるように訓練されました。慣れというか、自然な教えの中で、死を禁忌とは思わなくなっているんです。
|──日本人が死を学ぶことの抵抗感や嫌悪感は、戦争を学ぶことのそれに似ているかもしれない。外国で『戦争学』はごく当たり前の学究の対象だが、日本では『戦争を肯定するのか』という批判が起きる。それと同様に、『死を学ぶ』ことが『死を肯定し、死ぬことを勧めている』という誤解が生まれる。しかし曽野氏は、死を考えることは『人間として当たり前』と考える──|
 寿命の命じるところに従って死ぬということは、最も自然で人間らしいんです。
 私は多分、何らかの精神疾患が起きない限り、自殺はしません。どれほど家族や世間にご迷惑になるかわからないですし、人間の生死は神仏の司る範囲のことで、人間が自分で操作してはいけない。操作するのは自らや他人を助ける方向に向かうことだけです。
 それでもなお、あらゆる存在には終焉があります。消えないものはない。それを不幸と考えるか、それとも一種の秩序の推移と見るかは人によって違うでしょうけれど、すべてがいつか滅びるのだから、人間も同じと思えない人は、どこかで人生を学び損なったような気もします。自然の成り行きに逆らって生き続けようというのもまた、自殺することと同様に人間らしくないんです。
 『よい死』は国家や社会が決めるものではない
|──人間には死ぬ義務がある──曽野氏はかねてから折に触れてそう書いてきた。それは時として安楽死尊厳死の議論と結びつけられる──|
 安楽死(エウタナシア)というのは、ギリシャ語で『よい死』という意味で、私はこの言葉をやはり小学生の時に教えられました。しかし何をもって『よい』と考えるかは、人によって違うでしょう。国家も社会も、簡単に他人の心を規定してはいけません。
 ヨーロッパのある国では、安楽死を引き受ける会社があった。そのシステムを利用する方法についても聞いたことがあります。しかし、後味はあまりよくなかった。そこには、先ほど言った『自然の成り行き』というものが感じられなかったからだと思います。制度や法律やビジネスで運命や生死をすべて支配できるという、人間の思い上がった姿というものを、私はどうも好きになれないのです。
 そういう点を自分で考えさせられるために、私は中学や高校で宗教や哲学の時間を設けるべきだと思っています。
 多くの宗教には死生観が含まれています。仏教徒の家の子は仏教学を深め、クリスチャンの家庭の子は聖書学を学ぶ。宗教を信じない家庭の子は、その時間に哲学の本を知識として読めばいいんです。すべて義務教育を終えてしまった大人も同じです。
 そのうえで、安楽死にしても自然死にしても、それが『よい死』であるかどうかを、その人自身が考えるしかないと思うんです。
|──古今東西の物語には『不老不死』願望が登場する。自らの運命や生死の〝操作〟を望んだ権力者たちは、時として他人の命を奪ってまで『永遠の命』を求めたが、願いは実現しなかった。それは人間の愚かさの教訓として語り継がれることが多い。現在の日本では、程度こそ違うがそうした権力者と同じように、多くの人が『死の現実』から目を背け、『いつまでも生きたい』と願ってはいないだろうか。──|
 物体の質量は不変かもしれませんけど、物体の命はいずれ滅びるわけです。それでも命に代わるような『永遠に不滅のもの』がありそうに思うこともあるんです。
 たとえば、『愛』はその1つかもしれません。
 私は10年ほど前、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』の絵本の翻訳をする機会がありました。訳し終わって、私は改めてちょっと感動して泣いたんですね。王子(の像)は、身につけていた栄耀栄華(宝石や金箔)を自分の意志でツバメに剥ぎ取らせて、貧しい人々に分け与えた時に、幸福になったんです。愛だけが滅びの法則を超越することを視覚的にも捉えた。やはり名作ですね。
 誰もがこういう逆説の物語に納得、共感するとは思いません。
 それでも、私たちはできるだけ多くの幸福の形、生命の神秘の形に触れるべきなんですね、その真理に到達するためには、現実の生活の中からどれだけの対価や犠牲を覚悟しなければならないかを、自覚しなければならないでしょう。
 最近はバーチャルリアリティというものが持て囃されていますが、あれは麻薬と同じものだと思います。それは死を直視しないで永遠の命に憧れたり、追い求めたりする姿にも通じるような気がします。麻薬の快楽が現世にあると思い込んでしまったら、やはり現実に生きる人間として救いようがないことになるでしょう。だから、死の教育は必要なのです」
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 2016年8月号 Voice「平成始末80 山折哲雄
 引導を渡す覚悟
 舛添要一東京都知事の辞任騒動のさなか、自民党麻生太郎財務相の人騒がせな発言がとびだした。6月17日に北海道小樽市でおこなわれた講演で、『90歳になって老後が心配とか、わけの分からないことを言っている人がこないだテレビに出ていた。オイいつまで生きているつもりだよと思いながら見ていました』と。
 この発言にたいして民進党岡田克也代表がいち早く反応し、大分県の湯布市で、『国は年金や医療、介護制度で、高齢者の不安に応えなければならない。私は非常に怒っている』と批判したという。
 このやりとりが今後どのように発展するか分からないが、このところ私は医師と僧侶に出会うたびにいっていることがあって、そのことを思い出した。お医者さんに会うと、そろそろ延命治療は止めにして、安楽死をすすめる段階にきているのではないですか、『人事を尽くして天命を待つ』というではありませんか。そしてお坊さんにお目にかかるときは、高齢者の介護や看取りの場面でhsもっと胸を張って『引導を渡して下さいよ』と。
 ところがこれが言うは易く行うは難しで、なかなかうんといってはもらえない。お医者さんの口から『寿命』とか『天命』という言葉をきくことはまずないし、お坊さんの口からも『引導を渡す』などという覚悟のほどをきかされることもなくなった。
 おそらく最先端の高度医療がこの国の経済発展とかたく結びついているからなのであろう。仏教界においても、ひとたび介護や看取りの問題に手を出すと、たちまち莫大な費用と人力がかかることを覚悟しなければならない。これまで通り葬儀とお墓の管理に仕事を限定しておいた方が安全である。
 こうしてお医者さんの延命治療とお坊さんの墓葬業が住み分けたまま、人間の最後の運命を直視することを妨げている。生き死にをめぐる費用対効果という観点からしても、これほどムダなこともない。麻生発言にみられる怪気?、岡田発言にみられる『国よ、もっと金を』の叫びもそのような不毛の土壌から発せられたのかもしれない」
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 自然災害多発地帯日本列島には不老不死思想は似合わない。
 日本神道には、死後の世界が存在しない。
 2016年7月8日号 週刊朝日パスカルの万能薬 池谷裕二
 不老不死のゆくえ
 ……
 古来各地で見られる『不老不死』という人類究極の願望について考えましょう。
 衰えない肉体、若々しい精神、永遠の命──もしこれらが手に入ったらどうなるでしょうか。人生や生活の価値判断は『命が有限である』ことを大前提としています。だから、無限の命の世界が実際にどんなものかをイメージすることは難しいものです。とはいえ、不老不死になったからといって、必ずしも幸せな日々ではいだろうことは、おぼろげながら想像できます。
 ばぜなら永遠の命が手に入ったら、何事につけても『今やらなくともよい』という逃避の思考に陥るからです。なにせ時間が無限にあります。焦る必要はありません。読みたい本、習いたい稽古、旅行したい土地──。こうした楽しみは、むしろ将来に取っておかないと、とんでもなく退屈な未来が待っていることでしょう。
 当然ながら、仕事の締め切りに追われることも、あくせく働くことも、急いで子どもを産んで育てる必要もなくなります。なにせ不老不死。時間も体力も若さも余るほど備えています。
 おそらく古来人類の夢だった不老不死が実現したら、社会全体の活動レベルは低下し、サービスの質も悪化し、少子化をさらに促進するでしょう。しかし、だからといって人類が滅亡することはありません。なぜなら不老不死ですかた。結局、人類全体として新陳代謝が低下し、不老どころか、恐ろしく『老化』した社会が待っているのではないでしょうか」
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 2016年8月6日 産経ニュース「【高齢化社会】人生をどう終えるのか 自然な最期を迎える「平穏死」とは? 
 「入居者の生きざまに教えられることは多い。いつも感謝しています」と語る石飛幸三医師=東京都世田谷区の特別養護老人ホーム「芦花ホーム」
 日本人の平均寿命は、女性87.05歳、男性80.79歳で過去最高を更新したことが7月27日、厚生労働省から発表された。超高齢化社会が現実になりつつある現在、人生をどう終えるか、高齢者をどう支えるかは、誰にとっても避けて通れない問題だ。東京・世田谷にある特別養護老人ホーム「芦花ホーム」の常勤医、石飛幸三医師(80)は、介護現場の取り組みを通じて、穏やかな最期「平穏死」を迎えるために、家族も含めたサポートを行っている。
 経管栄養はしない
 閑静な住宅街にある芦花ホームは、2階まで吹き抜けで、曲線が多用されたモダンな内装だ。一般的な「老人ホーム」のイメージよりずいぶん明るい。1階の広い部屋では、入居者たちが椅子に座ってできる軽い運動をしている。ここで10年以上常勤医を務める石飛幸三医師が、穏やかな笑顔で出迎えてくれた。「静かでしょう。最近は事実上、(要介護度が)かなり高い人しか特養には入れないからね」
 芦花ホームは原則、胃にチューブを挿入して直接栄養を送る胃ろうをするなど無理な「延命」をせず、人生の最期を穏やかに看取る取り組みをしていることで有名だ。人生の最期のときを迎える人々は、徐々に栄養や水分を取らなくなり、眠るように穏やかに旅立つという。
 「管だらけ」になりたい?
 「僕がしていることは単純な話なんです。人生の途上にある人ならもちろん、病というピンチをなんとか乗り越える必要がある。そのために医師は全力を尽くします。でも、人生の終点に近づいた人に、自然の摂理を無視して、管だらけにする。それは大変な思いをさせる意味があるのか」
 高齢者は、物を飲み込む力が衰えることなどから、唾液や食物が気管に入ってしまうことが原因で起きる誤嚥(ごえん)性肺炎を起こすことが少なくない。すると、家族や施設職員は救急車を呼ぶ。運ばれた病院では必要な治療をし、場合によっては胃ろうなどの経管による栄養摂取をさせる。だが、胃ろうにしたからといって誤嚥性肺炎を起こさないとは限らない。無理に多くの栄養分を胃に送ると、それが逆流して気管に入り込むこともある。
 「何もわからなくなって、管につながれてまで、生きていたくはない」。そう思う人は多いが、家族のこととなると、そう簡単には割り切れない。配偶者や子供たちすらわからなくなったとしても、夫であり妻であり、親でもある。体にぬくもりがある限り、何とか生きていてほしいと思うからだ。
 石飛医師は言う。「入居者本人にとって、その措置が本当に意味のあることなのかどうか、ということを家族には率直に話す。もちろん家族で意見が分かれることもある。でも、いつかは判断しなければならないときが来るんです」
 缶ビールが飲めた
 芦花ホームでは、石飛医師のほか、看護師、理学療法士、管理栄養士らが毎朝ミーティングを開き、入居者1人1人の食事や水分摂取をはじめとするケアのあり方を共有している。
 あるとき60代で脳出血を起こし、その後は肺炎を繰り返して胃ろうをつけられた76歳の男性が入居してきたことがあった。
 男性の娘は「いつかこれが飲めるくらいに回復してくれたら」との思いを込めて、部屋の棚に父が好きだった小さな缶ビールを置いていた。男性は意思疎通ができる状態ではなかったが、その缶ビールを見ていたことに看護師が気づき、石飛医師は飲ませる判断をした。「誤嚥しないように、椅子をしっかり起こして缶ビールを渡すと、しっかり飲んで、むせることもなかった。ずっとビールが飲みたかったんだなあ。飲ませてあげられなくて申し訳なかった」と石飛医師。
 男性はその3カ月後、静かに亡くなった。娘は父が最後にビールを飲んだ日のことが忘れられない思い出になったという。「介護というのは、最後は体ではなく心のケア。人間としての尊厳を守ることが大切だと思う」
 人生を最後まで大切に
 「老衰」という言葉がある。石飛医師は、人生を全うした自然な死を「平穏死」と呼び、芦花ホームでの取り組みを通じて人生の終え方、介護と看取りのあり方に一石を投じている。7月、「『平穏死』を受け入れるレッスン」(誠文堂新光社)を出版した。
 「僕はここで入居者たちにたくさんの生きざまを見せてもらって、今を大切にすることを教わった。だからこれは、一回しかない人生を最後まで大切に生きよう、という本なんです。介護施設とは何のためにある施設なのか。それを多くの人にもう一度考えてほしい」」
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 日本の日本神道・日本仏教混合価値観による死生に対する常識と欧米のキリスト教価値観による死生に対する常識は、水と油ほどの違いがある。
 イスラム教価値観の生死に対する常識も、中国・韓国などの儒教価値観の死生に対する常識も、日本の死生観に対する常識と相容れないほどの違いがある。
 人間社会の常識は、数多く存在している。
 歴史的事実として、人間のグローバル的常識活動で消滅したローカル的な常識や価値観が数多くある。
 同じ人間だからといって、思いが1つとは限らず、幾ら心から誠意を持って話し合っても分かり合えるとは限らない。
 むしろ、分かり合えなくて当然であり、分かり合えなくて当たり前である。
 日本の常識は、世界の非常識として理解されないし、世界の常識的思考から誤解され、歴史的事実として悪意をもたれる事が憎悪の的になり非難され攻撃された。
 日本の宗教性に於いて、死と血を「穢れ」として嫌っている。
 日本人は、「死と血」に脅え、近づく事も目にする事も嫌悪した。
 近付いてくる「死と血」に恐怖し、自分一人が助かりたいが為に助けられる者も助けず見捨てて脱兎の如く逃げ出した。
 日本人は、サムライ・武士の裔ではなく庶民(百姓町人)の子孫であり、自分の命大事として武士道・武士道精神・侍魂・士魂とは無縁であった。
 日本人がなぜ「死と血」を恐れるのか、宗教的な死後世界観(天国・極楽・浄土など)を持たず、死ねば無に帰し何もなくなるという絶望的救いのない消滅死後世界観を信じているからである。
 つまりは、お彼岸やお盆などの墓参りという先祖供養は、里帰りというイベントの口実に過ぎずない。
 ゆえに話題になるのは、夏休みの過ごし方、田舎でどんな遊びをして過ごしたかだけである。
 若い人々は、田舎への墓参りをせず海外へ観光旅行にでかける。
 江戸時代から、日本人の宗教的巡礼は信仰の為ではなく娯楽・物見遊山・温泉湯治などの観光旅行の言い訳であった。
 多くの参拝者が訪れる神社仏閣の近くには、必ずと言っていいほどに有名な観光地・娯楽施設が存在する。
 江戸時代の日本人は、全てを奪い尽く消滅させる「死と血」の恐怖を忘れる為に、いま存在する「命」を存分に楽しむべく唱い踊り馬鹿騒ぎしてトコトン遊び呆けた。
 生きていてこその華。
 死んで花実が咲くものか。
 意識があろうとがなかろうが、寝たきりで身動きが取れず下の世話から食事の介助までして貰っても、例え器具の助けを借りても心臓が動いている間は生きていたい、それが日本人の偽らざる望み、本音である。
 あとは、建前に過ぎない。
 石にかじり付いても、藁にも縋っても、如何なる手段を使っても、1分でも一秒でも長く生き抜く、それが庶民である日本人の貪欲な生命力であった。
 庶民は、潔く死ぬというサムライの生き方を褒め称えながら内心で軽蔑していた。




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