🧣11〉─2─現代日本は善意の同調圧力で蟻地獄となり誰も救われない。~No.36No.37No.38 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 同調圧力を打ち消して独自で行動する日本人は2割、自分の思いを同調圧力で周囲に広めようとする日本人は3割、同調圧力に影響されないが打ち消しもせず何もせず傍観するだけの日本人は5割。
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 武士道は、生き様として積極的安楽死を肯定し、惨めな様を晒さない為に本人の希望をかなえる「武士の情け=介錯=止めを刺す」を認めていた。
 武士・サムライとは、自己責任で自己完結が運命付けられていた。
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 武士・サムライに於ける同調圧力は、殉死・追い腹の悲劇を描いた森鷗外の短編小説『阿部一族』である。
 ある意味、赤穂義士による老人・吉良上野介惨殺事件も世間の同調圧力による仇討ちであった。
 世間の同調圧力「真の武士なら仇討ちに参加すべき」からに逃げた元赤穂藩士とその家族は悲惨な生活を強いられた。
 切腹させられた赤穂義士とは、世間の同調圧力のあわれな犠牲者である。
 つまり、「武士道と云ふ死ぬ事と見付けたり」という武士道は、騎士道に通じない同調圧力である。
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 2020年11月19日号 週刊新潮「医の中の蛙  里見清一
 安楽死再考
 なかなか思い通には
 京都で神経難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)女性が『安楽死』を遂げ、依頼されて実行した(らしい)医者2人が嘱託殺人で逮捕・起訴された事件では、案の定『安楽死の希望は叶えられるべきか』『人は自分の最期を自分で決められるのか』といった問題はそのままになった。みんな、あの『実行犯』の医者におかしな言動なり経歴なりがあったことを指摘し、『ああいうヘンな奴らがヘンなことをしたのだ』という結論で安心してしまったように見受けられる。確かに『ヘンな医者』だったにしても、全てが『ヘンなこと』で片付けられるかどうかは別である。
 積極的安楽死(別名『慈悲殺』)つまり患者を『殺してしまうこと』が許容されうる条件としては、1995年に横浜地裁が示した4要件があるが、法律ではなく判例であり、必要条件ではあるが十分条件ではない。つまり、患者を安楽死させようという場合、この要件を満たさないと殺人になるが、満たしていればOKというわけではない。法律で規定がない以上、OKかどうかは、この4要件を満たした上で実際に『やった』医師が捕まって、裁判で無罪判決を受けないと分からない。誰も、なかなかそのリスクを負ってまで『やろう』とは思えないだろう。
 以前書いたように、安楽死否定の議論で最も説得力があるのは、ある状況下である人が安楽死を遂げた場合、同じ状況にはあるが死にたくない人にまで『なんであんたは死なないのか』という同調圧力がかかることであろう。『周囲に迷惑をかけたくない』という理由で安楽死を希望する人はいるが、これを認めると『周囲に迷惑をかけるな(かけずに死ね)』という無言のプレッシャーが生じてしまう。という懸念はもっともだろう。
 だがしかし、裏返して考えるとこれは、自分の尊厳が損なわれ、生きていることに耐えられない人に対し、『あっちで頑張っている人がいるのだから、お前も頑張れ』という逆向きの同調圧力である。2016年に橋田壽賀子さんが『文藝春秋』に『私は安楽死で逝きたい』という一文を寄稿した時に、『あなたのように影響力のある人がそんなことを言うな』といった反論もあったそうだが、ほぼ同じ趣旨と言える。
 同様の問題は、たとえば生体臓器移植でも生じる。外科的な治療手技は確立し、ある名医は、『そこに移植を受けなければ死ぬ患者がいる。助ける技術はある。なのにその技術を用いないのは、未必の故意による殺人に等しい』とまで言い切ったそうだ。ある大学病院で患者の弟が、自分の肝臓の一部を提供しようとしたが、医学的理由で不可能になった。『患者を助けたい』医師団は、次に患者の奥さんに目をつけた。患者の親族が、『弟が提供しようとしたのだから、伴侶なら当然』と考えても、人情として無理はない。移植コーディネーターはこういう時の『自由意思』確認にとても苦労するそうだ。
 今に日本では、どのような場合でも『命を助ける』方が善で、したがってデフォルトである。そのために、意に反して『生かされる』患者は多い。終末期に人工呼吸器装着などの集中治療をするかどうか。やったとしても見込みは決してよくない、とする。これは『消極的安楽死』もしくは『尊厳死』の問題だが、苦しい思いをして、話もできなくなるのならもうそこで楽に行きたい、と考える人は読者の中にも多いだろう。だが実際にそうなってみるとなかなか思い通りにはいかない。
 家族が、『私たちのために頑張って』と本人を掻き口説く、なんてことがある。医者も、集中治療してもダメだろうな、と思っても、『患者を死なせる』方向で家族を納得させるのは難しい。身も蓋もなく言えば、死ぬのは患者で、後で化けて出ることは滅多にない。その一方、家族は生き残る。そちらから恨まれたくない。重症の患者は、涙ながらに懇願する家族に対して自らの意思を貫く気力を保ちにくい。医者が味方してくれれば『好きにしてくれ』となってしまう。
 そういう家族がいなければOK、というものでもない。身寄り頼りのない独居老人が瀕死で担ぎ込まれ、本人の意思表示はできないまま絶望的な集中治療を延々と続ける、という事例は増えてきているそうだ。回復の見込みはなく、誰の目にも『もうやめてあげた方がこの人のためだ』と思っても、できない。『他人の命を諦める』なんて悪しき前例を作れば、生きる権利を侵される人が、出ないとも限らない。
 結局のところ、我々にとって、自分の意思で自分の最期を決められるのは極めて難しく、他人の意向で左右されてしまうのである。そしてそれは、同調圧力の問題のように、『あんたの決定が他人にも影響し、その希望を奪ってしまうのだ』なんて、思いもかけない間接的な形であってくることもあるのだ。
 個人的判断と良心に
 それでもあなたがやった自分の命のけじめは自己決定したい、と思うのなら、まず共犯者が必要である。日本ではそれは医者ではないといけない。その医者とあなたは、同一の死生観をもち、『この先生が「ここで終わりにしましょう」と思う時が自分の最期だ』と納得している。そうしてその医者は、すべての条件をクリアしたとしても『人殺し』の汚名を(少なくとも一時的には)着て、その上で自己(とあなた)の死生観の正当性を主張する必要がある。形の上では京都事件の怪しい医者と同類と思われ、非難されることも承知の確信犯でないといけない。
 そんなのは非現実的と思われるか。しかし、かつて福田恆存先生は安楽死の法制化に反対し、安楽死は医師の個人的判断と良心に委ねられるべきで、それによって医師一人一人が良心の痛みと後ろめたさを感じ、人格を保ちうるのだと主張された。現代の医者に、そこまでの覚悟を求めるのは困難かも知れない。けれどもやはり、『他人の希望』のために生かされるというのは無理筋ではないかと、私は考える。だから、死生観を共有する、長年の患者のためだったら、最期をその意に沿うようにしてあげたいと思うのである。
 医者とは何か。現代の慌ただしい医療では、また医学教育では、そんな問いは『ヘンなこと』で、議論している暇はない。一方で『生かされる』手段はどんどん発達する。死ににくい時代である。」
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 現代の日本人は、武士・サムライの子孫ではなく、庶民でありその子孫である。
 特に、高学歴出身知的エリートは、庶民出身で武士・サムライとは無関係であり、歴史力がない。
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 日本の特異な地方では、姥捨山の風習があったと言われている。
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 何故、戦前の日本で朝鮮人差別が有ったかといえば、日本人若者が国民の義務として戦場で死んでいるのに、日本国籍を持つ朝鮮人若者が目の前で普通の生活をしていたからである。
 朝鮮人は、日本国籍所有者として、海外で、諸外国で、各国政府から、日本人同様の権利と保護と自由を保障されていた。
 共に戦わない朝鮮人は、友人でも、親友でも、戦友でもなく、信用も信頼もなき単に人間として知っているだけの人=知人であった。
 日本人の女性や子供は戦い死んでいた。
 日本での「同じ釜の飯を食う」とは、共に働いて金を稼ぐのではなく、逃げ隠れせず生死を賭けて共に戦う事である。
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 武士・サムライは、生き様として死を覚悟し、自分の生き死には自分で決め、みっともない・みじめな・無様な醜態を晒す生き様を死よりも嫌った。
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 庶民は、生きる事への飽くなき渇望から、他人を押しのけ突き飛ばし蹴倒し踏みつけにしても生き残り、金を稼ぎ資産を増やした。
 生きる為なら、みっともない・みじめな・無様な醜態を晒そうと悪あがきし、助かると言われれば如何なる神仏にも縋って奇跡を期待した。
 助けてくれない神仏は無力無能として捨てた。
 キリシタン弾圧も廃仏毀釈も、庶民が信じても・信仰しても御利益がなく存在しても有害なだけだとして行った事である。
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 現代の日本人は、架空の理想的時代劇が好きだが、自分が好まない現実の歴史は嫌いである。
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 日本の歴史において、平和な時は皆で助け合って共に生きようとしたが、戦争の時代では自分が生き残る為に助け合う事はしなかった。
 日本の庶民は、乱取り・落ち武者狩り・戦場泥棒をして生き残ってきた。
 日本の庶民などは誉められるほどの人間ではなく、優(やさ)しくもなければ優(すぐ)れてもいなかったし、賢くもなく秀でているところもない、ただの凡人・凡夫にすぎない。
 何故か、それは日本人庶民が生きていた日本がブラック社会だったからである。
 日本のブラック社会を空気のように支配しているのが、世界の非常識とも言える空気圧・同調圧力である。
 何故、空気・空気圧力・同調圧力が蔓延るのか、それは日本人の精神や弱い・脆弱・ひ弱だからである。
 「出る杭は打たれる」のはその為である。
 そして、簡単に「褒め殺し」ができる思慮分別が不得意な単細胞的単純思考のチョロい人間である。
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