🥓30〉─3─毒母は連鎖する。「ゴミ扱い」された20代女性の虐待の地獄。~No.145 

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 蛙の子は蛙。
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 子供の幸不幸の人生は親で決まる。
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 同じ日本人と言っても、現代の日本人と昔の日本人は別人である。
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 2023年12月28日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「トイレの水」を飲ませ、「猿ぐつわ」を噛ませて暴力をふるう母と継父…「ゴミ扱い」された20代女性の虐待の地獄 『毒母は連鎖する』3
 旦木 瑞穂
 理不尽な仕打ち、教育虐待、ネグレクト……。子どもを自らの所有物のように扱い、生きづらさなどの負の影響を与える「毒親」。
 その中でも目に見える形ではなく、精神的で不可視なケースが多い「毒母と娘」の関係にフォーカスし、その毒への向き合い方とヒントを探ったのが、旦木瑞穂氏が著した『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』だ。
 毒母に育てられ、自らもまた毒母になってしまった事例など、現代社会が強いる「家庭という密室」の闇に取材し、過酷な現実に迫っている。
 自身も小学生の娘を持つ母親だという旦木氏は、本書のなかで登場する8人の女性の取材を通じて「毒親というものは、「絶対にならない」という保証は誰にもなく、誰もがなってしまう可能性があるとも思っています」と話す。
 【連載第2回】<「ブス」「糞ガキ」「死ね」…浴槽に沈められ「ゴミ扱い」された、20代女性が母と継父から受けた「虐待の壮絶」>に引き続き、本稿でも両親の離婚、継父との同居をきっかけに、約7年におよんで母親と継父から虐待を受け続けた、20代の緑川由芽さん(仮名)の事例を紹介する。​
 緑川さんが物心がついた時には、すでに両親は喧嘩が絶えなかった。両親は緑川さんが年中のころに別居すると、母親は緑川さんを連れて母方の祖母の家に身を寄せる。しかし祖母と母親の仲は良好とは言えず、祖母は母親に怯えていた。
 緑川さんが8歳の時に両親は離婚。ある日、母親に無理やり連れて行かれた新居には、母親の不倫相手がいた。母親は不倫相手との子どもを妊娠。これをきっかけに緑川さんは、地獄のような毎日がはじまった。
 母方の祖母
 そんな緑川さんの唯一の救いは、当時60代だった母方の祖母だった。緑川さんの家は、祖父母の家の目と鼻の先。にもかかわらず、母親は継父と暮らすようになってから、緑川さんが勝手に祖母と会うことを許さなかった。
 しかし、母親と継父と妹の3人で旅行に出かけるときは特別だった。その間、緑川さんは祖父母の家に置いて行かれたが、誰にも殴られず、食事も好きなだけ食べられ、お風呂も平和に入れる希少な時間だった。
 「祖母は母に怯えていたので、私は家での虐待について話せませんでした。それは祖母に心配と迷惑をかけたくないという、私なりの配慮でした。それでもおそらく祖母は、私が虐待されていることに気付いていたと思います」
 祖母は、緑川さんが生まれた後も、何度か結婚と離婚を繰り返していた。そのため、”ラーメン屋を営む男性”が”母親の実の父親”だという確証はないという。
 しかも、緑川さんが中学生の間に、祖母はラーメン屋の男性と離婚し、新しい男性と再婚。にもかかわらず、祖母は相変わらずラーメン屋を手伝い続けていた。過去には、祖母の妹と祖母の夫が不倫をして離婚したという経験もあるという。
 「男を見る目がないのか、ろくでもない男とばかり付き合うところは、祖母も母もそっくりです。私が虐待されているのを薄々知っていて、それでも助け出そうとはしてくれないのだとわかっていたので、私も祖母にそれ以上のことは求めませんでした」
 それでも祖母は、時々母親や継父に隠れるようにして緑川さんに会い、「好きなものを食べなさい」と言ってお小遣いを握らせてくれていた。
 おそらく祖母は、緑川さんが母親や継父から虐待されていたことに気付いていたのだろう。しかし娘に対して強く出られないのは、男性遍歴が激しい祖母自身の経験上、娘(緑川さんの母親)の”愛人”という難しい立場も理解でき、娘に同情する気持ちもあったのかもしれない。
 可愛い孫を守りたいが、娘の報復が怖くて、手をこまねいていたのではないかと想像する。
 中学3年生になった緑川さんは、日々の虐待に耐えかね、ついに家出を決行。深夜にこっそり家を抜け出し、近所にあった山の中で夜を明かした。
 緑川さんが通う中学校は遠かったため、母親の都合で早く帰らなければならないときは、「バスで帰ってこい」と言われ、母親からバス代をもらっていた。
 そのおつりをコツコツ貯めていたのと、時々祖母からもらっていたお小遣いでパンや飲み物を買ったが、2日で尽きてしまう。3日目の夜、空腹に耐えられなくなった緑川さんは、家に帰るしかなかった。
 玄関を開けると、出迎えた母親は泣いていた。学校や警察に連絡したらしく、「家出は周りに迷惑かけるからダメよ。学校にも連絡したから先生に謝りなさい」と言われた。継父も心配した様子で、しばらくは虐待がなかった。だが、約3日後にはすっかり元通りだった。
 救いの手
 中学3年生の冬。母親と継父から頭をひどく殴られた翌朝、緑川さんは中学校に登校するも、あまりに殴られたところが痛くて、「頭が痛むので、保健室で冷やしたいのですが……」と担任の教師に話した。すると担任は、緑川さんの額のあざを見て、「行きなさい」と一言。
 ホームルーム後に保健室に来た担任は、「それ、怪我じゃないだろう?」と真剣な面持ちで言う。それを見た緑川さんは、「母と継父に殴られました」と素直に打ち明けていた。
 担任は、30代前半くらいの既婚男性だった。親身に話を聞いてくれた担任は、すぐに児童相談所へ通告。同じ学年を担当している教師たちとも情報を共有し、緑川さんの体調や生活について気遣ってくれるようになった。
 © 現代ビジネス
 この頃は、母親はもちろん、継父からの暴力も凄まじくエスカレートしていた。人目につかない臀部は、痛くて座れなくなるほど頻繁に強く蹴り上げられ、青あざを通り越して黒あざだらけ。トイレの水を飲まされたり、正座をした膝の上に重りとして大きな梅酒の瓶を載せられたりしていたことを、全て担任には話した。
 やがて、担任からの通告により、児童相談所の職員が何度か自宅にやってきた。だが、母親は虐待を否定。何度目かの訪問で、緑川さんはなんとか玄関先で職員と面会することができたが、事前に母親から、「下手なことを言ったら、覚えておけよ!」と釘を刺され、家の中で聞き耳を立てている母親が怖かったため、事実を話すことはできなかった。
 また同じ頃、母親と継父の罵声や、緑川さんの悲鳴や泣き声が尋常ではなかったのだろう。近所の人から「子どもの泣き叫ぶ声がする」と、何度か警察に通報されていた。
 しかし、家に来た警官たちに継父が、「言うことを聞かないので、体罰です」と平然と言い切ると、警官たちは「程々にしてくださいね」と言い、その場にいた緑川さんに対しても、「反抗期なのかもしれないけれど、きちんとご両親の言うことを聞くんだよ」と諭されて終了。
 児相や警察が来てからというもの、母親と継父は外部に緑川さんの泣き声や悲鳴がもれないよう、警戒するようになった。虐待行為をする前に、窓や雨戸を閉めたり、緑川さんに猿ぐつわを噛ませてから暴力が始まるのだ。
 さらに、傷跡や痣などが残りにくい、長時間の正座をさせられるようになったのも、この頃からだった。ただ正座をさせるだけではなく、膝の内側に棒を挟む拷問と同じ方法をとられるようになったため、その影響で緑川さんは膝がまっすぐに伸ばせなくなり、現在も痛みに苦しんでいる。
 「担任の先生がせっかく児童相談所に連絡してくれて、児相の職員たちは私から話せる機会を設けてはくれましたが、自宅では母が怖くて何も言えませんでした。せめて、面会する場所を考えてほしかったです。警察は、私の話を少しも聞こうとはしてくれませんでした。当時の私は、『なぜ誰も助けてくれないんだろう?』と思っていました」
 自宅に警察が来たとき、野次馬で集まった近所の人たちに紛れて祖母も来ていたことに緑川さんは気付いたが、その後も祖母は、積極的に助けようとはしてくれなかった。
 中学の卒業式の前日に、担任の教師の協力で実父のもとへ逃げ出すことに成功した緑川さんは、そこで暴力のない安堵の日々を過ごすようになる。しかし一人暮らしを始めた緑川さんには、新たな戦いが待ち受けていた。
 その詳細は【連載第4回】<母と継父からの「壮絶な虐待」から逃れた20代女性が、その後苛まれた「新たな地獄」…むごい暴言と暴力の日々がよみがえる>でお伝えする。
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 https://gendai.media/articles/-/120661
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